第五章 『花纏月千』 PART9
7.
「あ、亥狩さん」凪は突然背筋を伸ばした。「お疲れ様です。今、出来上がった所です」
「そんな堅苦しい言い方しなくていいよ。うん、今日もいい出来だ。やっぱり君のお父さんは凄いね」
亥狩はテーブルの上に小皿を置いた。その横には思い出コーナーと書いてある。どうやら故人に関係しているものを置いているらしい。
「美味しそうなおにぎりですね」凪が目を大きく開いて覗き込んでいる。
「うん、何でも故人様は紫蘇おにぎりが好きだったみたい。これだけ好きなものに囲まれていたら、きっと成仏できるだろうね」
亥狩の視線が思い出コーナーに移った後、凪が小さく耳打ちしてきた。
「亥狩さんはな、俺達の兄貴みたいな存在なんだ。年も近いし話しやすくて、よく相談に乗ってくれたんだ」
凪の話で状況を理解する。どうやら彼とは密接な付き合いがあったようだ。
「くれぐれもばれるような真似はするなよ」
「……了解」
亥狩の視線が志遠に映った。彼の瞳は気が弱そうな感じがしていたが、凪の意見を取り入れれば温かみがあるともいえる感じだ。
「千月ちゃんも好きだったよね、紫蘇おにぎり」
「ええ、よく食べてました」彼女が、と心の中で呟く。
「そうだよね。千尋さんの作るおにぎりは格別に美味しかったもんなぁ」
凪が横から千尋とは母親のことだ、と囁いている。もちろんそれくらい知っているのだが、世話を焼く姿が千月と被り気が動転してしまう。
「紫蘇にも花言葉があるって知ってるかい?」
「いえ、知りません。どういう意味があるんですか?」
「『蘇生』という意味があるんだ。だから思い出コーナーに飾れば故人様が生き返ってしまうかもしれないね」
「へぇ。やっぱり名前の通りいい意味があるんですね。さすが亥狩さんは物知りだなぁ」
凪が満足そうな顔をしていると、突如彼の電話が鳴り出した。その画面を見て顔が青ざめている。
「じゃあ、俺はそろそろ帰るからな。亥狩さん、またよろしくお願いします」凪は荷物を纏めて帰る支度を始めた。再び小声で志遠に呟く。「また何か決まったら報告をくれ」
「ああ」
「ああ、じゃないぞ。ええ」
「ええ、そうでしたね。すみません」
嫌味を込めるようにいうと凪はにやりと笑った。
……まったく。
志遠は溜息をつきながら彼を見送った。女言葉を覚えろというが、今まで生きてきた習慣は中々変えられない。だが彼のいう通りこのままではまずいのはわかっている。
凪が立ち去るのと同時に亥狩は訊いてきた。
「……どう? 祭壇は」
「凄いです。こんなにも雰囲気が変わるとは思っていませんでした」
「そうだろうね。普段は木製の白木だけなのにさ、花があるだけで故人が喜んでいるような錯覚まで受けてしまう」
「錯覚ですか。確かにそうですね」
同じ祭壇でもイメージはがらりと変わる。それは祭壇に花があるからだろう。故人が愛した花が菊のラインの中に埋まることでぱっとイメージが広がっていくのだ。
……自分の祭壇はどんなものだったのだろう。
仮に組むことができるのならスターチスの花を入れて欲しいと願った。これから決行する作戦は柔な精神では持つはずがないからだ。せめて自分の気持ちは変わらないようにしたい。
亥狩と話していると、途中で喪家が入ってきた。
「うわぁ、立派な祭壇ですねぇ」子角源七が声を上げて喜んでいる。「本が好きだとはいいましたが、まさか本自体が花で描かれるとは思っていませんでした。やはり素晴らしい」
「ありがとうございます」
二人で頭を下げると、喪主が再び声を上げた。
「お、ゆかりのおにぎりまで用意して下さったんですか。家内も喜ぶでしょう、本当にお気遣いありがとうございます」
「ゆかり? これは紫蘇じゃないんですか?」
志遠は口に出して後悔した。亥狩が剣呑な目つきで睨んできたからだ。どうやら世間話はしてはいけないらしい。
「どっちも同じものを指すんですよ」子角は笑いながらいった。「家内は源氏物語が好きだったので、ゆかりという言葉の方が好きだったんです。おかげで私も移ってしまいました」
「どうして源氏物語が好きだと、ゆかりという言葉を使うんです?」
「……黄坂君」亥狩がこれ以上質問するなと目で訴えている。だが聞いてしまったものは仕方がない。
「紫蘇は紫に蘇ると書くでしょう? 紫は源氏物語ではゆかりと読むんです。そこから来ているのかは知りませんが、家内は紫蘇のことをゆかりと呼んでました」
「なるほど。そうだったんですね。わざわざありがとうございます」
子角が祭壇に見入ってる中、亥狩に軽い肘内をくらった。
「駄目だよ、千月ちゃん。聞かれたことに答えるのは当然だけど自分から質問をしたら駄目だ。それが自分の興味によるものならな尚更だよ」
「すいません」志遠は小さい声で謝った。「興味があるとつい、口に出てしまうんです」
「そういえばそうだったね。やっぱり大人になっても中身は変わらないんだね」亥狩はふっと優しく笑った。「君が小学生の時、よく外に遊びに連れて行ったけど、君は何でもかんでも聞いてきたもんなぁ。おかげで僕の方が花言葉を覚えてしまったよ」
志遠も合わせて笑った。亥狩に合わせるためではなく彼女の性格に同意したためだ。
千月は興味があるとすぐに首を突っ込んでくる習性があった。それほど親しくない時でも彼の内情まで深く踏み込んできたのだ。
嫌味はなかった。ただ彼女は純粋過ぎたのだ。
子角の通夜を無事に終え志遠は事務所に戻った。どうやら亥狩は今日も当直らしく事務所のテレビを見ながら蕎麦を啜っている。
「どうだい? 調子は」
「ええ、いいみたいです。おかげ様でこれからも働けそうです」
「そうか。それはよかった」亥狩は口元を緩めた。「後は告別式だけだね。通夜が無事に終われば式はそう慌てることはない。今回も特に問題はなさそうだよ」
志遠が頷くと、彼は熱いお茶を啜って続けた。
「相変わらず仲がいいみたいだね、君と凪君は」
「そうですかね?」自然と顔が強張る。
「うん、とっても。これは僕のお節介だけど、君達二人はお似合いな気がするんだけどね」
「……え? どういう意味ですか」
「いやいや、別に他意はないよ」亥狩は再びテレビの方に視線を寄せた。「ただ、なんとなくそんな雰囲気があったというだけさ。気にしなくていい」
……たしかに彼のいう通りかもしれない。
凪は内定先を蹴ってまで自分の店を継ぐと決意していた。そこには自分の意思もあったのだろうが、千月の様態を案じたからかもしれない。
葬儀屋の娘と花屋の息子。千月と凪がくっつけば仕事上でもより強固な繋がりになるだろう。
「亥狩さん、昨日も当直だったんですよね? 大丈夫なんですか?」
「ん? 昨日は当直じゃないよ。きっちり休みを貰ってる」
そうはいうが格好が休み明けだとは思えない。シャツだけでなくスーツまで汚れているからだ。そこには毛虫のようなものまでくっついている。
「ああ、服装のことか。これは……」そういって亥狩は口を手で抑えシャツの袖を指差した。「そうだった、まだ僕の秘密を話していなかったね。ひっつき虫を調べれば思い出すと思うよ、僕の秘密」
「はぁ」
亥狩に挨拶を済ませた後、志遠は自宅に帰ることにした。ここで当直を経験した方が勉強になるが、そ
れだと不自然に思われるだろう。何より千鶴に心配を掛けてしまう。
家に辿り着くと、どっと疲れが押し寄せてきた。こんなにもサービス業が疲れるものだとは想像していなかった。他人との距離を測りながらも仕事を一発で覚えるためにメモも欠かさない。今までのやり方とはまるで違う。
疲れの一番の原因はいつ千月が出てくるかわからないことだ。どうやったら彼女は出てくるのだろう、もし出て来たとしても最初はいい。だがその次はきっちりと段取りを組まなければいけない。時を遡るように錯覚させなければいけないからだ。彼女の時間を支配できなければ今回の作戦は成り立たない。
ベットに横たえてこれからの行く先を考えることにした。だが一瞬の間に意識は奪われていた。
次の日。
子角の式が無事に終わり初七日を迎える準備をしていると凪がスタンド花の回収に来た。
「どうだい、調子は」
「やっぱり一日外に出ると疲れが溜まるな。だが体の調子はいい」
「そうか、そりゃよかった」
凪がスタンド花を紐で括っている姿を見ていると、昨日の亥狩の言葉が蘇ってきた。
――君達二人はお似合いだと思うよ。
もし志遠の読み通り千月の意識を取り戻すことができれば、自分はこの世界にはいない。彼女を引き止める枷はなくなるのだ。
そうなればこの二人はどうするのだろう――。
「ん? どうした、俺の顔に何かついているか?」
「いや、何でもない」
そういって志遠は後悔した。凪に尋ねることがあったのに咄嗟に体を背けてしまっている。何故か彼を直視できない。
「君は……ひっつき虫という植物を知っているか?」
「ああ、知ってるよ。猪小槌のことだろ」志遠の気分とは対照的に凪は明快に答えた。
「猪小槌には二つの種類があるんだ。影を好む日陰猪小槌っていうのと光を好む日向猪小槌っていうのがね」
「ふうん。それにも花言葉はあるのか?」
「うん。日陰の方は『変わり者』っていう意味がある」
「じゃあ日向の方は?」
「……なんだったかなぁ。ちょっと待てよ」彼は手持ちの携帯電話で花言葉を検索し始めた。「お、あったぞ。日向の方は『二重人格』っていう意味があるらしい」
その言葉を聞いて、はっと我に返る。
そうか、その手があった。千鶴を説得させるいい手がここにあった。
「どうした、千月? 大丈夫か?」
志遠が黙っていると凪が近寄ってきた。思わず首を振る。
「いや、大丈夫だ。それよりも一つ聞きたいことがある。千月の母親はいつ亡くなったんだ?」
「ええっと、確かあいつが専門学校に行き始めてだから、ちょうど三年前かな」
自分の意識と合点があう。「その時、千月はどんな状態にあった? 当然落ち込んでいただろう?」
「そりゃもちろん。自分の母親が亡くなって落ち込まない奴はいないさ」
「どれくらいの期間、落ち込んでいたように思う?」
「は?」
「母親が亡くなってからだ。どれくらいで立ち直った姿を見せたんだ、千月は」
「んー、多分一ヶ月くらいかな」凪は眉間に皺を寄せながら答える。「その間はあいつとほとんど会話にならなかったよ。俺も実家に戻って式にはいったんだけど、大分堪えていたな」
千月は専門学校の前期の日数をほとんど休んでいた。それは実家に帰っていたからだろう。彼女の休みが長かったせいで、自分との接点が増えたことを思い出す。
「おい。今の話は何に関係するんだ」
意識を取り戻すと凪の顔があった。心なしか険悪な表情をしている。
「もちろん、今回の作戦にだ。千鶴ちゃんのいい説得材料になった。ありがとう」
「ん? 俺にはまったく話が見えないが」
「大丈夫だ。改めてきちんと報告させて貰うよ」