第五章 『花纏月千』 PART7
5.
2008年12月17日。
黒のスーツを身に纏いネクタイをしっかりと締める。鏡で自分の姿を確認するが、どうも落ち着かない。何だか会社勤めのサラリーマンになったようだ。
今日が初出勤だ。ネクタイの調節も終え服にごみがついていないか再確認する。問題ないようだ、さあそろそろ出発しよう。
凪と打ち合わせを終えて一週間が立ち、ようやく現場に出ることができるようになった。今日から千月の両親が勤めていた斎場で働くことになっている。
「お姉ちゃん、きつかったらすぐに帰ってくるんだよ。まだ安静にしておかないといけないんだからさ」
玄関で千鶴が心配そうな目で見つめてくる。
「うん、わかってる。ちゃんと体調を考えて行動するよ」
優しい眼で彼女に応対する。それでも千鶴の眼は厳しいままだ。きっと姉のことが心配で堪らないのだろう。ふつふつと罪悪感が芽生えてきてしまう。
千鶴にはまだ例の作戦は伝えていない。話をするにもまだ彼女を言い包める方法が見つかっていないからだ。彼女には体の調子を整えるために斎場でバイトすると伝えてある。
「それじゃあ、行ってきます」
「はい、行ってらっしゃい」彼女は憮然としたまま手を振ってくれた。彼はその姿を眺めながら玄関を後にした。
斎場につくと社員から暖かく歓迎された。誰もが通る度にねぎらいの言葉を掛け笑顔を見せてくれている。
だがどのように応対すればいいかわからず戸惑ってしまう。自分は時計店以外で働いたことがない。特に団体行動は苦手だ。こういった多くの人に見られることにも慣れていないし、どこに視線を向けていいかもわからない。
総支配人である社長に声を掛けられ志遠は挨拶することになった。
「今日からお世話になる黄坂千月といいます。どうぞ、よろしくお願いします」
簡単な挨拶を述べると社員達は熱烈な拍手を志遠に向けて送ってきた。彼は右往左往しながら周りの人々に頭を下げて回った。
「えー皆も知ってると思うけど、今日から黄坂さんの娘さんに働いて貰うことになった。千月ちゃんを知ってる人も多いと思うけど、彼女は事故に遭って半年以上病院のベッドで眠ってたんだ。なるべく気を使ってやってくれ」
目の前で話している人物は父親の後を引き継いで代表取締役になった人物だ。何でも千月は暇な時にバイトしており彼女を知っている者は多いらしい。
社員と話す度に彼女が慕われていたことを感じ取ってしまう。彼女の性格を考えれば納得がいく話だ。自由奔放に見えるが周りに気を使うことができる。自分もそこに魅力を感じていた。
しかし今回ばかりはそれが仇になる。ここでの対応でも差が出てはいけなのだ。彼女の肉体を借りていても態度でばれてしまうかもしれない。そう考えると嫌でも緊張が走ってしまう。
無事に挨拶が終わった所で華奢な男性が近寄ってきた。男性のわりには背も低く穏やかな顔つきをしている。
「久しぶりだね、千月ちゃん」男は優しい笑みを浮かべていった。「今日から三ヶ月間、僕が君を担当することになった。よろしくね」
プラカードを見ると亥狩幸丸と書いてある。なんと読むのだろう。志遠は精一杯微笑んで彼の手を握った。
「こちらこそ、よろしくお願いします」
握手を交わしていると代表取締役が仲介に入った。
「千月ちゃんはこの仕事をよく知ってると思うけど、とりあえずは亥狩君の補助を頼むよ。彼は三ヶ月後に仕事を辞めてしまうんでね、とりあえずは彼の仕事を引き継いで貰いたい」
なるほど、イカリと読むのか。志遠はもう一度彼を見た。亥狩もその視線に合わせて微笑んでいる。
「わかりました。亥狩さん、改めてよろしくお願いします」
「ああ、よろしくね」
亥狩に誘導され事務所の席につく。
「千月ちゃんはさ何度もお手伝いしてるから、だいたいわかるよね」亥狩はマニュアルのような本をばっと閉じようとした。
「いいえ、きちんとお願いします」志遠は彼の手を止めながらいった。「お手伝いといっても、きちんとした仕事をしたとは思っていません。新入社員と同じようにお願いします」
「ははぁ、そういう気持ちがあるのならちゃんと話そうかな。まあ初日だし、今日の仕事内容から話すことにしようか」
亥狩の説明を纏めるとこうだ。
葬儀屋といってもやることが分散されており、主な仕事は故人の担当につくことにある。料理は別の店から運ばれてくるし、祭壇を飾る花は専用の花屋がいる。礼品、霊柩車、湯灌などの搬入業者もいるので、志遠が現時点でできることといえば担当を受け持った者の手助けだけらしい。
三ヶ月後に彼に認めて貰えれば担当を受け持つことができる。普通の社員なら3年は掛かる所をだ。できるなら彼女の意識が戻る前に、担当を持てるようになっていたい。
「今日のお客さんはリピーターなんだ」
亥狩は故人のプロフィールを軽くぽんぽんと叩きながらいった。
「といっても十年以上前のお客さんだけどね。その時はご両親の葬儀だったらしい。祭壇は前回と一緒の金額でいいそうだ。問題なさそうなお客さんだよ」
祭壇の金額を見て目が飛び出そうになる。新車が余裕で買えそうな金額だ。時計でいってもブランドのものを2個は買えるだろう。
「この金額は一般的なものなんですか?」
「まあ、一般的なものではないけどね」亥狩は言葉を濁した。「通常より大きいものになるからさ、今日は直接花を挿しに来ると思うよ」
彼はそういって煙草を取り出した。思わず吸いたい衝動に駆られる。それは彼が愛用していたセブンスターだった。
「……それにしても千月ちゃん、本当に大変だったね」彼は同情の声を出しつつこちらを見た。「辛いだろうけど僕にできることがあったらいってくれ。力になるよ」
こういった場合、どういった対応をとればいいのだろう?
頭を捻りながら返答を考える。亥狩との付き合いがどの程度のものだったのかは測れない。必要以上に迫ってしまうとバランスを崩しかねないし千月の意識が戻った時、彼女が苦労することになってしまう。
結局彼は曖昧に答えることにした。
「ええ、ありがとうございます。でも今は両親の会社を手助けすることが先決ですから。頑張ろうと思います」
「やあ、本当に立派になったなぁ」亥狩は灰を落としながら目をぱちぱちと動かした。「あんまりこういうことを聞くのは失礼になると思うんだけどさ、彼の時計店はどうするの? 確か身内の人はいないんでしょ?」
どうやら自分のことまで知っているらしい。千月とは深く関わっている人物のようだ。
「ええ、そうなんですけど。まだ心の整理がつかなくて……」彼は枯れたような声を出した。
「そっかぁ。そうだよね」彼はバツが悪そうな顔をした。「ごめんね、変なことを聞いて。今のは訊いちゃいけないことだった」
「いいえ、構いません。亥狩さんも聞かれたらまずい悩みがあるんです?」
「もちろんあるよ」彼はきっぱりといった。「前に僕の秘密を話したでしょ? でもようやく解決する目処がついたんだ。だから後、三ヶ月ってわけさ」
秘密?
何だろう。もちろん志遠が聞いているわけではないのでその内容についてはわからない。だが解決する道が見つかったということはいいことなのだろう。
曖昧に頷くと、彼は欠伸をしながら車を指差した。
「じゃあそろそろ自宅に迎えに行こうか。最初だから何もしなくていいよ。僕の後ろで観察していればいい」
志遠は頷いた後、彼と共に縦長の車に乗り込んだ。