第五章 『花纏月千』 PART5
3.
2008年12月10日。
意識を取り戻してから一週間が経とうとしている。
志遠は黄坂家に戻っていた。もちろん戻ったという意識はなく居候のようで居心地はあまりよくない。
だが一週間前よりは断然いい。食事も自分でとれるようになったし何より病院から抜け出せたのは大きい。病院だと千鶴に全てを監視されてしまうからだ。
今の日常は千鶴を仕事に見送った後、家事をしながら千月の意識を取り戻す方法を考えている。
「おーい、開けてくれ」
コンコンコンと三回のノックが聞こえる。凪と決めた合図だ。志遠が扉を開けると、彼は身を強張らせながら入って来た。
「うー寒い」凪が体をぶるぶると震わせて周りを確かめている。「早く上がらせてくれ。体が動かなくなっちまう」
「今ちょうど紅茶を淹れている所だ。いつもの椅子に座って待っていてくれ」
志遠が彼の前にカップを置くと、彼は大きく吐息をつきながらそれで手を暖め始めた。
「ここは天国だな。ちゃんと暖房もついているし、暖かい飲み物も出てくる」
「君の店にだって暖房くらいあるだろう」
そういうと凪は首を振った。「花が弱っちまうから、暖房は炊けないんだよ」
「へぇ、そうなのか」
凪は定期的に顔を見せに来ている。何でも花の配達が近くにあった場合、ここに寄るようにしているらしい。
「どうだ、最近変わりはないか?」
もちろん体の調子がいいかという話ではなく千月と変わっていないかということだ。彼女の意識は出て来ていないので首を振る。
「そうか、体調の方は?」
「順調に回復してるよ」志遠は余裕の笑みを見せながら紅茶を啜った。もうすでに自分の足で歩けるようになったし、何より一日中起きていられる。
「そうか。そいつはよかった」そういった後、凪の顔は一瞬にして真剣な面持ちになった。「それで前回の話の続きだけど。作戦の方も順調にいってるのかな?」
「ああ、それなりに道筋は立ってきているよ」
「お、そうなのか。それでどうするんだ?」
「目的は変わっていない。前話した通り二つだ。一つは千月の意識を完全に取り戻すこと。もう一つは事故を彼女のせいではなかったと思わせることだ。この二つを完璧に実行することが今回の作戦だ」
「そうだったよな。けど前にも話した通り、中々一筋縄じゃいかないよなぁ」
「ああ。だからこそ君の協力が必要になる。全ては千月の意識がこの体に残っているという前提で話を進めさせて貰う」
この体に千月の意識が残っているのであれば、彼女の意識が戻った時、それは志遠と同じ状態にあるということだ。
自分が目を覚ました時、それがいつなのかわからない。
「初めて千月の意識が目覚めた場合、彼女には月と日にちだけ教えることにする。年は教えてはいけない」
千月は意識を取り戻したとしても事故当日を覚えてはいないだろう。意識を閉ざしている場合、防衛本能として原因を忘れる傾向にあるらしい。つまり空白のまま、意識を取り戻すことになる。
そこに漬け込むチャンスが訪れる。
「なぜ年を教えないんだ?」
「彼女には4年後に飛んでもらうからさ」
志遠は冷静な声で告げた。
「今年中に変われば2012年ということになるな」
「えっ」凪は目を引ん剥いて驚いている。手に持っているカップが揺れ、中の液体が零れそうになっている。
「……もちろん意識だけだ。そこから時間を巻き戻して2008年の2月29日をもう一度、体験して貰う。僕達が予定していた電車に乗って安全だったと思わせるんだ」
「……ちょっと待ってくれ。千月の意識を未来に飛ばす? そして時間を巻き戻して事故当日に戻すだと? 無理だろ、そんなこと」
「理論上では無理じゃない。簡単でもないがな」
志遠が言い切ると、凪は眉を寄せながら尋ねてきた。
「確かに四年後だと思わせるのはできるのかもしれないよ。だけど時間を巻き戻すのは不可能だろう」
未来にいる、というのは口だけでも伝えることができる。寝ている時に時間の感覚はないからだ。なので四年後の世界だと思わせるのはたやすい。
だが時間が逆流するというのは――。
「どうして時を巻き戻すのは難しいと思うんだ?」
「……そりゃ時間が巻き戻るっていう感覚を知らないからだよ。誰だって時間は前に進むものだって知ってる。タイムマシンで過去にいったって、その時点から時間は進むしかない。戻ることはないよ」
「そうだな、その通りだ」志遠は深く頷いた。「では話を少しだけ変えよう。彼女の意識を取り戻すためにはどうしたらいい?」
「失敗を塗りつぶすっていうことになったんだろう? 千月のせいじゃなかったという構図を作るんだ」
「そうだ、それはどうやったら解決する?」
「時が戻れば……という話になってるよな」
「ああ。そうだ」志遠は紅茶を啜りながらいった。「厳密にいえば時を戻すんじゃない。時が戻ったと錯覚させるというだけだ」
「……錯覚?」
「ああ。君が最初いった通り、彼女を騙すんだ」
時を戻す。それは流れを反対側に変えるということだ。時計の針でいえば左回りを右回りに、川の流れでいえば下流から上流に、電流でいえばマイナスからプラスに。
流れを逆に変えなければならない。
「そのためにはまず『時の反対側』を知らなければならない。君は『時の反対側』には何が来ると思う?」
「……『時の反対側』?」凪は乗り出した体を戻して考え始めた。「一瞬とかかな? 時っていうのは永遠という意味を含んでいる。だから永遠の反対側の言葉が来てもいいと思う」
「なるほど。面白い意見だ」志遠はカップをソーサーに戻して頷いた。「だが一瞬という意味も時の中に含むこともできると思うのだが、どうかな」
一瞬という言葉はその瞬間だけを切り取った時の切れ端のようなものだ。それは時の一部ともいいかえられる。つまり反対側にはなりえない。
「ああ、確かに。一瞬っていう言葉自体が時を含む言葉になるなぁ。お前はどう考えているんだ?」
「僕の意見は『停止』だ」
志遠はビデオの再生ボタンを指した。そこには再生ボタンと同時に停止ボタンがある。
「この世界は常に進んでいる。止まることがないんだ。つまり彼女の時を停止させればいい」
「千月の時を止める?」凪は驚きながら言葉を続けた。「それこそどうやるんだ? 時を巻き戻すことよりも難しいと思うぞ」
「こっちの方が簡単だ。彼女に夢の世界にいる、と錯覚させるんだ」
時が止まっている世界、それは現実にはないものだ。つまり夢の世界にいると感じさせるしかない。
「……あいつに幻を見せようということか」凪は紅茶を啜りながらいった。「現実の世界じゃないと思わせて時間が巻き戻っている感覚を与えるようとしているのか?」
「まあ、そういうことだ」志遠は再びカップを持った。「この作戦は千月の意識が戻った時が一番重要になる。彼女の意識がある日を全て逆に繋げていくんだ。そうすれば彼女は時を遡っていると錯覚できると思う」
彼女の意識があった日を逆時系列で繋げていく。意識を取り戻したのが12月とすれば、次に意識を取り戻すのは11月だと錯覚させる。そうすれば時が巻き戻っていると感じるだろう。
「錯覚か、なるほど。月下美人の花を昼に咲かせるようなものか」
「ゲッカビジン?」
「ああ、そういう名前のサボテンがあるんだ」凪は唇を舐めて続けた。「これの花は夜にしか咲かないんだ。だけど夜に光を当てていると、昼に咲かせることができるんだよ。光を使えばサボテンの体内時計を逆に変えることができるからね」
「まさしくそれだ」志遠は指を鳴らして同意した。「僕たちは彼女の体内時計を変えなければならない。太陽光のように彼女をコントロールできる手段を見つければ、それが可能になる」
――月下美人の花は一年に一度しか咲かないのよ。
ふと千月の声が頭の脳裏に蘇る。二人で植物園に行った時の話だ。確かその時にその花言葉も教えて貰ったが思い出せない。
「中々難しい作戦だなぁ。だけどもしこれが成功すれば」
「ああ、彼女はもう一度同じ日を体験できるというわけだ」
納得がいったのか凪は頷いたまま黙り込んだ。
「確かにお前の話はなんとなくわかったよ。だけど千月は植物じゃなくて人間だぜ? 人の時間を逆になんて変えられるものかな?」
「錯覚を起こすのは『人間』の方が簡単だよ」
志遠はきっぱりといった。
「暦月が順序良く続けば前に進んでいるように感じてしまうだろう? 1月から2月、3月へと進んでいけば時間が経過していると思うのが当然だ。さらにいえば春、夏、秋、冬に向けて季節が変われば一段と時の流れを感じてしまうだろう」
彼は瞳を大きく開きながらTV画面を見た。
「物語というのは前へ進んで当たり前、という感覚が普通だ。だから一つの物語が進むにつれて、数字が大きくなっていけば前に進んでいると思わせることはできる。過去へ向かうなんて普通は考えない」
彼は時計を指し数字を逆に追った。
「まして季節を巡る度、一年毎、遡っていたなんて思わないだろうさ」