第五章 『花纏月千』 PART4
2.
「ん?」凪は優しい笑みを浮かべて応対してくる。「どうしたんだ? 千月?」
「もう一度いう、僕は千月じゃない」
「そうかそうか」凪は笑みを崩さずにいった。「お前は千月の彼氏だといいたいんだな。なるほどなるほど。久しぶりに目を覚ましたから大分混乱しているようだな……大丈夫、ここは病院だ。お前は助かったんだ、安心していい」
いきなりこんなことをいっても理解して貰えるはずがない。志遠は軽く溜息をつき事情を話すことにした。
「いきなり信用してくれとはいわない。まずは順に話していこう」
千月は今回の事故できっと自ら意識を閉じ込めた。その中に阿紫花志遠としての人格が入ってしまった。もちろん全て自分の推測だ。だが断定した物言いをしなければ彼を説得することはできないだろう。
簡潔な説明を終えると、凪は眉根を寄せた。
「……待て待て」凪は頭に手をやり考え込んだ。「お前が志遠だとすると、じゃあ千月はどこにいったんだ?」
「だからこの体の中だ」
「んん?」彼は頭を抱え込んで志遠を見た。「ちょっと待ってくれ。冗談でいっているだけだよな?」
「冗談でこんなことはいわない。君とは初対面だが僕は冗談が苦手だ。人を笑わせるユーモアなどない」
凪は頭を抱えながら踵を返した。「……少し時間をくれないか」
「ああ、もちろん。いくらでも待とう」
凪は唸り声を上げながら頭を捻っていた。そのまま数分立つと、近くにあった湯気の立たなくなったお茶を啜り始めた。
「仮にだ。仮にお前がそのフィアンセだとする。それでお前はどうしたいんだ」
「千月のせいではない、ということを伝えたい。彼女はあれで結構自分を追い込むタイプだからな。僕の命を奪ってしまったと考えたのだろう」
「……うーん」凪は腕を組みながらじっとりとした目でこちらに視線をやった。まだ千月じゃないかと疑っている目だ。「自分の体の中に千月がいるのなら、心の中で話したりできるんじゃないのか?」
「もしかしたらできるのかもしれない。だが僕の意識がどこまであるのかわからないんだ。だから消える前に伝えて欲しい」
「なるほど……」凪はカップを持ったまま頷いた。「しかしだ。もしお前がいう通りに千月の意識が戻ったとする。それでだ、俺が千月に彼氏は気にすんなっていってたよといって納得すると思うか?」
確かに。彼女に口頭で伝えて納得するようなら、そもそもこんな現象は起きていない。
ではどうすればいいのだろうか。
「その通りだな。僕が彼女の立場なら気休めにしか思えない」
「そうだろう。俺だったらタチの悪い悪戯にしか思わないぜ。逆に傷つけると思うよ」
彼のいう通りだ。伝えるためにはそれ相応の準備をしなければならない。
志遠は眉を寄せて口を開いた。今度は千月に似せずに堂々と自分の口調でいうことにした。「……質問をしたい」
「……いいよ」
「君が彼氏だとしたらどうする?」凪の眼が大きく開く。しかし迷っている暇はない。「僕が志遠だと証明する方法を思いつかない。だが千月には何としてでも伝えないといけない。お願いだ、一緒に考えてくれ」
「うーん、そうだなぁ」彼はぼそりと呟いた。「そんなことをいきなりいわれてもなぁ。そうだ、しらを切るというのはどうだ?」
意味がわからない。志遠が黙っていると、凪は細々と語り始めた。
「千月にそんなことはなかったよ、と思わせるんだよ。列車の事故は起きなかったとするのはどうだろう?」
「それは無理だ」彼は即答した。「千月の父親はその日に亡くなっている。それに僕はどうする?」
「父親が死んだのは別の日にするんだよ。お前は……その日、別の場所にいたとするのはどうだ?」
馬鹿げている。いかにも穴だらけの方法だ。そんな方法をとればふとした瞬間にばれてしまう。彼女を取り囲む人までは騙せないからだ。
しかし面白い方法だとも思う。彼女を騙すという方向性は理を得ているような気がする。
後は彼のいう方法を組み替えて考えてみれば――。
「……おい」凪が困惑した顔を見せながら訊いてきた。「お前は本当に志遠なのか?」
「ああ、そうだよ」
「おいおい……マジかよ……」凪は両手を頭にやった。懸命にドアを眺めながら口を尖らせる。「頼むよ、これから千鶴ちゃんが来るんだ。なんといえばいいんだ」
「それこそ千月を演じるさ。何もいわずにいてくれていい。千鶴ちゃんにはこのことをいうつもりはない」
「どうして?」
「僕が志遠だとばれたら困るからだ。千月を騙すためには千鶴ちゃんから騙さなきゃならない」
凪の顔が曇る。「今、騙すのは無理だといったのはお前の方だろう?」
「全部なかったことにするのは無理だ。だが一部を変えることはできるかもしれない」
「一部? どこを変えるというんだ?」
「千月が自分のせいだと感じている所をさ」志遠は唇を舐めて続けた。「彼女は自分が立ち止まったせいで二つ分の列車に乗り遅れたと思っている。だがその意識を時計に背負わせてみるのはどうかと思っているんだ」
乗り遅れたのは彼女のせいではなかったと思わせればいい。予定していた列車に乗れなかったのは別の要因、例えば時計のせいだとすれば罪の意識もなくなるのではないだろうか?
しかもその時計は彼女のものではなく、自分の時計だったとすれば――。
「できるのか、そんなこと」
「わからない。今はこの考えしか浮かばない」
「……それこそ無理な話じゃないか」凪は大袈裟に笑った。「どうやって過去を変えるんだよ。時を戻すことができるのなら別だけどさ、できるわけないだろ」
時を戻す?
……カクン。カクン。
彼の中で小さな歯車が動き始める。時計の修理をしている時のような静寂に佇む綺麗な音だ。その歯車が何を表しているのかはわからない。ただ自分の使命がうっすらと見えてくるような気配を感じた。
「とりあえず、お前が志遠だということは認めてやるよ。千月ならそんなことは考えないだろうしな」
「本当に信じてくれるのか?」
「……ああ」凪は力無く笑った。その表情には哀愁すら漂っている。「お前は千月じゃない。それだけはわかるよ。わかりたくないけど」
「ありがとう」
「礼をいっている場合じゃない。もうすぐ千鶴ちゃんが来るんだ。俺でさえお前の異変には気づいたんだ。千鶴ちゃんがわからないはずはない」
千月は妹と仲がいい。お互い離れていても連絡を取り合う仲だったのだ。気づかないはずがない。
まして自分は千鶴と出会ったことがある。彼女との対面を考えれば嫌でも緊張が走ってしまう。
「確かに。どうすればいいだろう?」
「とりあえずお前はまだ話さない方がいい。意識がはっきりしてないといっておけばいい。そうすれば深くは訊いてこないだろう。それに」
「それに?」
「……恋人を失っているんだ。いくら姉妹といっても初日から根掘り歯堀り訊かねぇよ」
「そうだな。僕はとりあえず無言で通そう」
そういうと凪は優しい笑みを浮かべた。志遠も笑みを浮かべようとすると、彼は冷めた目でこちらに視線を寄せてきた。
「あーあ、面倒なことに巻き込まれちまったなぁ……」
「すまない。けど君だけが頼りなんだ。頼む」
志遠が必死に懇願すると凪は再び微笑んだ。口元だけだ。
「……しょうがないな。腹を括るか」凪は腕を組んで自分を鼓舞するように声を上げた。「ここまで腹を割ったんだ、一切の隠し事はなしで頼むよ。俺も疑わないしお前も全力で頼ってくれていい」
「ありがとう、ナギ」
彼は右手を差し出してきた。きっと志遠の左手が動かないことを考慮してだろう。
志遠は右手で彼の手を握った。
「まずは……自分の足で動けるようになることだな」
足を動かそうともがいてみる。だがやはり足は強張っており動かすことはできない。きっと筋肉が硬直しきっているのだろう。
「ああ。そうみたいだな」凪は椅子から立ち上がった。「これから長い付き合いになりそうだな、まあぼちぼちやっていこうや」
そういって彼は身を翻し大きく伸びをした。その瞳にはうっすらと涙が滲んでいた。