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長編小説 4 『花纏月千(かてんげっち)』  作者: くさなぎそうし
第五章 『花纏月千(かてんげっち)』 阿紫花 志遠(あしばな しおん)編
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第五章 『花纏月千』 PART3

 第0章『千月纏花ちづきてんか』    


  1.

  

 担当の医者が現れ診断を開始する。


 志遠は為されるがまま体を動かし、動かせない所は千鶴に手伝って貰いながら検査を受けた。


 特に異常は見当たらないらしく、医者は目をふくろうのように大きく開けて彼の目を何度も覗く。その視線に彼はたじろぎながらも言葉を飲み込む。


 どうして自分は千月に変わっているのかと。どうして自分の体ではないのかと。


 焦りや不安が体を蝕み何かに侵食されていく。自分の中にある違和感をぶちまけたくてたまらない。はたして自分の肉体はどこにいったのか。もし肉体が存在するというのであれば、そこには誰の意識があるのか?


 推測はある。ここに自分の意識があるのなら自分の体には千月の意識があるのだろう。まずは自分の体がどこにあるかを知らなくてはいけない。


 しかしそれを確認する相手がいない。千鶴とは面識があるが、姉の体に男の人格が移っていると知られるわけにはいかない。突拍子のない話をするのであれば関わりのない第三者が妥当だ。


 それに自分自身がまだ現状に溶け込めていない。とにかく今は様子を見た方がよさそうだ。


 検診が終わった後、千鶴はほっと息を漏らしていた。


「お姉ちゃん、ちょっとだけ出てくるから。すぐ戻ってくるからね」


 首だけで応答すると千鶴は出て行った。


 ……一体自分はどれくらい眠っていたのだろう。


 彼は再び思考を開始した。自分の体ではないという不安よりも今がいつなのかという不安の方が大きいように感じる。


 ……人の意識とはなんて脆いのだろう。


 彼は高まる不安を抑えようと深呼吸を繰り返した。自分の意識が一日以上飛んでいるだけでこんなにも焦りを覚えてしまう。これほどまで時間に縛られているとは考えたこともなかった。


 深呼吸が吐息に代わり始めてきた。改めて部屋を見渡す。病室というのは何だか現実感がない所だ。


 ……やはり本当に夢の世界なのか?


 そう思うと何だか妙に心が軽くなる。夢の世界であると仮定してしばらくその雰囲気を楽しむことにしてみよう。


「よう、元気そうだな。よかったよかった」


 志遠が小さく鼻歌を呟いていると、軽い口調で話を進めながら部屋に入ってくる男がいた。彼の意識では見たことがない人物だ。


「なんだよ、そんなに睨むなよ。俺だよ、俺」


 警戒の眼差しで男に視線をやると、男は一歩下がり軽く仰け反った。どうやら初対面の相手ではないらしい。しかし身に覚えはない。


「ああ、そうか。腹が減ってるのか。点滴ばかりじゃ味気ないよな。よ、よし、今林檎を剥いてやろう」


 男は志遠から鼻歌を奪うように口ずさみながら果物ナイフで林檎の皮を削いでいった。


 ……こいつは誰だ? 千月の知り合いなのか?


 怒りを覚えながら男に鋭い視線を送る。


「ん? 俺の顔に何かついているか」男は林檎を置き自分の顔を掌で触りだした。「なんだ、何もついてないじゃないか。まったく。そんな風に睨むなよ、不細工に見えるぞ」


 失礼な、という言葉は飲み込む。初対面ではないのだろうけどあまりにも馴れなれしい。友人だとしても病人に対しての言葉遣いとは程遠い。


 ――器用でお調子者の幼馴染がいるの。


 千月と身の内を話している時の言葉が蘇る。まさか彼がそうなのだろうか? 彼が彼女の幼馴染なのか。


 全ての皮が剥き終わった後、男は用意しておいた金鑢かねやすりで林檎を擦り始めた。


「こ、このままじゃ食べづらいだろうから、摩り下ろしてやるよ。本当に手間が掛かる奴だな」


 ぐちぐちと文句を告げながら擦り終えた後、彼は器に中身を入れ小さなスプーンと共に手渡してきた。


「ほい。久しぶりに食べるんだからな、ちゃんとよく噛んでから食べろよ」


 久しぶりというのはどれくらいの時間が経っているのだろう。一週間? 一ヶ月? もしかして一年?


 食欲などないが、とりあえず一口食べてみなければいけない流れだ。


 彼はゆっくりとスプーンを口に含んだ。


「んん、おいしい」


 自分の声に改めてびっくりする。やはり千月の声だ。彼女の耳を通して聞いているせいか、いつもとは少し感じが違うが間違いなく彼女の声だとわかる。


 一口含むと口から唾液が溢れるようにしてでてきた。胃がもやもやと動き出すような感触を受ける。この感触は煙草で胃を壊して絶食していた時に近い感じだ。


「おっ食べれるか。これなら治りは早そうだな」男は満面の笑みで微笑んだ。


 何といっただろう、彼の名前は。意識を集中すると以外にも早く名前に辿り着く。


 ナギ。


 幼馴染である生花店の業者が彼女の両親の斎場に入っていると聞いたことがある。


「……ねえ、ナギ」志遠はなるべく小さい声で呟いてみた。千月が彼を名前で呼んでいたか確信がもてなかったからだ。「今はさ。何月なのかな?」


 何年か、とは突拍子しすぎて訊けない。


「12月だ」彼は時計を指差しながらいう。「正確にいうなら12月3日だな。もう師走だよ」


 頬が強張る。自分の意識が遠のいていく。これが夢だという意識すら霞んでいく。


 自分の意識があったのは2月まで。ということはすでに9ヶ月以上経っていることになる。もしかするとそれ以上かもしれない。


「ぼ、私はいつからここにいるの?」


「3月からだな。だからちょうど9ヶ月になるよ」


 ほっと吐息が漏れる。ということは自分の認識が正しければ今はまだ2008年だ。


「……大変だったんだぜ。お前が起きるまでは」彼は肩を落としながらいった。「初めは東京の病院にいたんだ。異常がないからすぐに意識が戻るっていわれてな。だけどお前の意識はずっと戻らなくてさ。千鶴ちゃんはずっと往復してたんだぞ」


「ということはここは福岡なのか」


「ああ、そうだ。北九州だよ」


「どうして私は病院に運ばれたんだ?」不意に凪の視線が虚ろになる。「なあ、教えてくれ。まったく記憶がないんだ」


「教えてもいいんだけどな……」彼は急に視線を逸らした。「俺の口からいうのは気が引けるんだよなぁ……」


 何とか自力で思い出してくれ、そんな風な口調で彼はぶっきらぼうにいった。


「お願いだ。電車に乗った記憶まではあるんだ」


「そうか。そこまではあるのか……」


 凪は意を決するように大きく深呼吸をした。そして重たい口調で話し始めた。「……事故だよ。列車で事故が起こったんだ。お前は実家に戻るために列車に乗っていた」


 我に返ったかのように記憶を取り戻す。あの日は2月29日で間違いない。数少ない彼女の正式な誕生日だったからだ。彼女の父親に会うために福岡へ向かっている途中だったのだ。


 その途中で意識がなくなっている。


「お前に外傷はなかった。脳震盪のうしんとうくらいで済んだんだ。ともかく無事に意識が戻ってよかった」凪は異常な程明るい声を出した。これで全てが解決したかのように安堵の声を漏らしている。


 だが問題はある。どうして途中で意識が飛んでいるかということだ。ある考えが浮かんだ時、心臓の鼓動がどくんと再び高鳴り始めた。


「……僕の体は?」志遠はそういって唇を噛んだ。「志遠は……志遠はどうなったの?」


 不自然な口調になったが、凪は意に介さず立ち止まったままだった。重い顔を崩さず視線を垂らしている。


「なあ……どうなったんだ……」


「残念だが……」


 それ以上はいえない。凪の傾いた瞳がそう物語っていた。


「……そうか」


 志遠は改めて今の現状について考えた。どうやら自分の体はこの世にはないらしい。考えていたことではあったが事実であると告げられるとなんともいいようのない気持ちになってしまう。


 ではこの人格は一体なんなのだろう。阿紫花志遠としての記憶は鮮明にある。幼い頃の記憶はおぼろげだが確かに時の流れに沿って記憶を辿ることはできる。


 しかし千月としての記憶は一切ない。彼女から訊いた話以外には全くわからないのだ。このいいようのない水と油のような不一致感が千月ではないといっている。


 自分の人格は間違いなく志遠だ。


「ごめん、思い出したくない話だったよな……」凪は近くにある椅子に座り背を向ける形をとった。「だけど一つだけ知っていて欲しいことがある。お前の彼氏はお前を守って死んだんだ。お前がどこまで意識があったのかは知らないけど、これだけは確かなことだ」


 そうだ、確かあの時――。


 急ブレーキを踏んだ電車が一瞬にして脱線したのだ。車体は大きく傾き、車内は大型の乾燥機にでもかけられたかのように大回転を繰り返していた。


 彼は咄嗟に千月を包んでいた。理屈ではなかった。ただ体が反応し無意識のうちにそういう体制になっていたのだ。


「まあその話は今度にしよう。今はお前の体を大事にしなくちゃいけない」


「……ちょっと待ってくれ」


 志遠は凪を手で止めながら再び思考を開始した。何かが頭の中で引っ掛かる。開いてはいけない扉のようなものが頭の中に潜んでいる。


「ちづ……いや、私の父親は? もしかしてその日に亡くなったんじゃないか?」


「……」凪は押し黙っている。だがその瞳には落胆の表情が包まれている。


「……はぁ。やっぱり俺がいわないといけないのか」凪は両足に肘を掛けた後、ゆっくりと頷いた。「そうだよ……。残念ながら……。どうか気を落とさないでくれ」


 やはり、か。志遠は頭を抱えながら現状を理解しようと務めた。ようやく千月の意識がないことに納得がいく説が浮上する。


 千月はきっと自分の意識を意図的に閉ざしているのだろう。事故を引き起こしたのは自分だと思っているのだ。特に異常がないのに病院にいるのはそんな経緯があるに違いない。


「ごめんな。起きて、そうそうこんな話をするなんて……」


「いや、構わない。それはいいんだが……」


 千月は父親が亡くなったことにショックを受けていたが、意を決して実家に戻ることを決めた。彼女の父親は葬儀屋の社長だ。彼の通夜に娘がいかないわけにはいかない。たとえ仮通夜になるとしても、と彼女は力なくいった。


 その決心が不運な事故に巻き込まれてしまったのだ。


「どうした? 何か訊きたいことがあるんだろう。ここまで話したんだ、もう隠すような素振りは見せないよ」


「……葬儀はもう終わってるんだよな?」


「ああ。すでに手掛けてある。もう少しすれば一周忌だ。その時はまた祭壇を組むことになっているよ」


 きっと彼も葬儀に関わったに違いない。瞳に強い自信が備わっている。


「そうか……」


 志遠は再び意識を集中した。理由はわからないが志遠としての意識が千月の体の中で働いている。彼の戻る体はない。つまりこのまま彼女として生きていくしか道はないのだ。


 ……一体、彼女の意識はどこにあるのだろう?


 考えられる選択肢は二つ。すでになくなっているか、この体に眠っているかだ。可能性とはしては眠っている方が高い。彼女に外傷はないからだ。


 もしこの体に眠っているのであれば自分が変わればいい。しかし彼女自らが意識を閉ざしているのであれば、話は変わってくる。入れ替わる方法が見つかったとしても彼女の意識そのものが回復しなければ実行することは不可能だ。


 どうすれば彼女の意識を回復させることができるのだろう?


「やっぱり今話すことじゃなかったよな……。ごめん」凪は大きく頭を下げた。目には大粒の涙が浮かんでいる。「今日くらいは適当に相槌を打っておけばよかったよな。俺もまさかお前の意識が戻っているとは思わなくてさ、嬉しくってつい、べらべらと話しちまった。本当にすまない」


「いいや、大丈夫だ」志遠はかぶりを振った。「今からどうすればいいのかなと思ってるだけだ」


「何を……だ?」


「千月の意識を取り戻すためにはさ」


 一瞬の沈黙が二人に訪れる。凪は口を開いたまま視線だけで志遠の姿を追っていた。


「え?」


「だから千月の意識を取り戻すためにどうすればいいのかを考えているんだ」


 二回目ははっきりとした口調で告げた。どっちみちばれる問題だ。このまま千月を演じることはできそうもない。彼女をよく知っている者には不可能だろう。それよりも今は正直に話して打開策を考えた方がいい。


 自分の意識がいつなくなるかわからないからだ。もしかするとこのまま眠ってしまえば彼女の意識に戻るのかもしれない。


 そうなる可能性を踏まえて彼に伝えたいことがある。


「話を聞いて欲しい。大事な話だ」


 志遠は意を決して彼に告げることにした。


「僕は千月じゃない。彼女の婚約者だった阿紫花志遠というんだ」

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