第四章 『風花雪月』 PART14 (完結)
14.
11月11日。
紅葉に染まった道を歩き、雪奈は緑纏の花屋にいた。
「お、雪奈さん。こんにちは。今日は連れもいるんだね」
「今日は別のお墓に行くんでね。お供え用の切花を一対頼む」そういって横にいる花織に視線をやった。「二人分だから豪華にして貰っていいよ」
「ありがとうございます。じゃあサービスしちゃおうかな」
店の中を見ると、目の前に『月運花馮』と書かれた額縁が飾れていた。
「なあ。これはどういう意味があるんだ?」
「月の運は花に頼る、という意味らしいです。花屋は花にしか頼れない、自分で作れないから感謝をしろっていう意味みたいですよ」
そういって彼は『月雲花風』と書いた。
「へー、そういう意味があるんですね」花織は彼の言葉に頷きながら別の文字を書き始めた。「私はてっきり『風花雪月』という言葉を変えたのかと思いました」
「フウカセツゲツ?」
「ええ。反対からだとそう読めません? ほら、雪と雲の部分だって雨の部分が同じですし」
「あ、本当だ」凪は目を丸くした。「そういう考え方もできるなぁ。実はこれを考えたのがじいちゃんなんです。だから正確なことはわからないですね」
お供え用の花を受け取りながら凪にお金を渡す。今日の花束はいつものより重量感がある。
「そういえば千月から聞きましたよ。雪奈さん、もうすぐ仕事を辞めるんですね」
「ああ、やっぱり私にはピアノしかないと思ってね」雪奈は口元を緩めながらいった。「しかしあいつの作戦にまんまと嵌められるとは思わなかった。喪主は間違いなく花織だと思っていたよ」
「……すいません」横で花織がぺこぺこと頭を下げている。「先輩のことを考えていたら、それしかないと思ってしまって。本当に申し訳ありませんでした」
「いいんだ。君達のことは攻めてない。私を一番騙したのは担当者なんだから。まさか耳栓までしていたなんて思わなかったよ」
「……やっぱりそうなりますね」凪も苦笑いで返す。「あいつは全てを逆にしなければならないから、普通では考られない手を思いつくんですよ。それが倫理に反することだとしても……です」
――あの時。
二人でセッションするといっておきながら、彼女はほとんど弾かなかった。いや弾けなかったのだ。
彼女は千月ではなくゆかりだったからだ。申塚家の式当日も彼女が担当していた。千月は出て来ていなかったのだ。
それも全て、自分にピアノを弾かせるため。ゆかりは事前に花織と緻密な打ち合わせをしていたのだ。
「確かに倫理に反するが……。私はこれでよかったと思う。彼女の気持ちもわかるからね」雪奈は小さく呟いた。彼女もまた死者の代弁者なのだ。彼女の言葉なら納得できる部分がある。
「ちゃんと話を聞かなかった私も悪かった。花織が結婚したとは書いていなかった」
花織は申塚圭吾と結婚していなかった。それどころか故人は彼女と付き合っていたわけではなかったのだ。
ただ彼の喪主が花織だと書かれていただけで推測してしまった。
「……本当にすいませんでした」花織は再び頭を上下させている。「先輩と話をするにはああするしかなかったんです」
演奏が終わった後、申塚真吾が謝りの挨拶に来た。何でも依頼書を書き換えたのは彼の方らしい。既婚者と嘘の情報を載せ、喪主に花織と書いたのは彼だ。
「謝らなくていい。圭吾君の願いでもあったんだろう? むしろ騙してくれて感謝している」
彼らの付き合いは一度途切れたらしい。雪奈が花織に八つ当たりをして彼女の精神状態がぼろぼろになったためだ。
それから彼らは別々の道を歩んだ。申塚真吾は地元に戻り、花織は東京で音楽活動に励んだ。
その途中、花織は申塚の兄と再会した。戌飼が東京の同じ楽器メーカーで働いておりその同僚として出くわしたのだ。
彼は重い病気を患っており心臓が悪かった。そのため演奏者ではなく裏方に回るためピアノ職人を目指していたらしい。
だが彼の命のタイムリミットは近づいていた。雪奈のためにピアノを用意することが唯一の夢だと聞いた時には今回の作戦がうっすらと浮かび上がっていたらしい。
「……全ては私の錯覚だった。まあ疑って掛かった私が悪いのだけれども」
今にして思えば戌飼の行動も怪しいものだった。彼の地元は花織と同じ札幌なのだから、普通の気温でも向こうでは暑いはずだ。それなのに彼の上着には汗が染み付いていなかった。
その理由は単純で彼が上着を脱いで肉体労働をしていたからだった。斎場には元々ピアノは置いてない。そのピアノを雪奈が来る前に運び込んでいたのだ。さらにいえば二人掛けの椅子なんてものは注文でもしない限りないだろう。
それにピアノの調律は完璧だった。それはきっと彼が心を込めて調製してくれたからだろう。
「仕方がないですよ。最初から雪奈さんを騙すのが目的だったみたいですから」
凪が笑いながらいうと、花織は恥ずかしそうに呟き始めた。
「でも黄坂さんに担当をして貰ってよかったです。そうじゃなかったら、きっと今回の作戦は上手くいかなかったですから」
千月は彼らの話を受け入れた上で最高の祭壇を取り持つことを約束した。そして一つだけ条件をつけた。
それが春の花の祭壇にすることだ。千月との入れ替わりをスムーズに行うためには季節を逆にしなくてはならない。そのため遺体を数日間放置し、春の花の入荷を待った。
二人の作戦はシンプルだった。発注所の紙に喪主名カオリと書いておく。これだけで二人の目的は達成された。雪奈を追い込みピアノを弾かなければならないと錯覚させられたのだ。
「まあ、結果オーライといった所かな。騙されはしたが二人には感謝している。やっぱり私はピアニストでいたいと思えたんだ」
演奏をしている時の桃瀬の顔は唖然としていた。だがその表情は一瞬で、すぐに真剣な面持ちへと変わっていった。そして演奏後には涙を浮かべ、雪奈のピアノを賞賛してくれた。
桃瀬の顔を見て改めて自分の気持ちを問うことができた。送り人としての立場とピアニストの立場としてだ。
どちらも大切な仕事には代わりない。だけど私はやっぱりピアノを弾いていたい。
「俺には演奏の善し悪しなんてわからないけどさ、雪奈さんのピアノは人の心を掴むことができると思う」
凪は真剣な口調で語り始めた。雪奈にだけ聞こえるようにだ。
「千月の意識だって変えることができたんだ。雪奈さんのピアノは眠っている人間の意識にだって入り込むことができるんだよ。それだけ感情が籠もっているんだと思う」
「……ありがとう」雪奈は小さく頷いた。「これからリハビリを兼ねて病院に通うことにするよ。体の痛みとも真剣に向き合うようにしようと思ってね」
「そっか。辛いだろうけど頑張ってね、応援してるよ」そういって凪は言葉を言い換えた。「そうじゃないな。お互い頑張ろう。俺もいつまでも親父と一緒じゃみっともないもんな。早く菊でラインを取れるように頑張るよ」
「そうだな。お互い頑張ろう」
彼と強く握手を交わすと花織が鋭い視線を投げかけてきた。
「……先輩、年下の方が好みになったんですか?」
「いいや、そんな趣味はないよ。それよりも君は結局どっちを選ぶんだ?」
「え? どっちというのは?」
「当然、猿と犬だよ」
雪奈は口元を緩めながら追求した。
「別れていた間に戌飼君と親密になっていたそうじゃないか。けどこれで申塚君ともヨリを戻したことになる。見事に三角関係が戻ったというわけだ」
「そ、そんなことないですよ」彼女は慌てて手を振る。「さっちゃんとはただの幼馴染です。それに真吾君とは先輩との約束のために協力しただけですから。ヨリは戻ってません」
「ふうん、まあそういうことにしておこう。ということは……残るは君だけだな」
凪に視線をやると、彼は急に目を泳がせた。きっと自分達のことを考えていたに違いない。彼らこそ未だ答えの出ない三角関係に悩んでいるのだろう。
「俺だってそんなことないですよ」
「ちょうどいい所に花嫁候補が来たじゃないか」
世間話に花が咲いていると女性の客が来た。すらっと細く陶器のように白い女性だ。どことなく薄命な感じを受ける。
「……それじゃあ、私達はこれで」花織も自分に習って頭を下げている。
「うん、ありがとう。それじゃあまた斎場で」
雪奈が立ち去ろうとすると女性は会釈を交わしてきた。それに応じゆっくりと扉を開ける。
「いらっしゃい、千鶴ちゃん」
「こんにちは、凪さん。切花をちょうだい。特別病棟のだから値段は高くても構わないわ」
「了解。そうだな、これとこれと……。この百合は開いてるから、サービスしちゃおう」
「ありがとう。とっても豪華になったわ。ところでさ、さっきのお客さん、ピアニストの……」
「そうだよ」凪は包装紙で包んだものを彼女に手渡した。「指揮者で有名な未橙六貴さんの奥さんだ」
「そうよね、確か去年お姉ちゃんと同じ電車に乗って……」
千鶴は彼女が通った道を視線で追いながら声を漏らした。
「それにしても綺麗でかっこいい人ね。凪さん、ああいう人はタイプじゃないの?」