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長編小説 4 『花纏月千(かてんげっち)』  作者: くさなぎそうし
第四章 『風花紲月(ふうかせつげつ』 未橙 雪奈(みだい ゆきな)編
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第四章 『風花雪月』 PART12

  12.


「……先輩? 大丈夫ですか?」隣にいる桃瀬が声を上げている。


 雪奈が彼女に視線を寄せると、彼女はむっと顔をしかめていた。


「やっと気がついた。ひょっとして体調が悪いのですか?」


 はっと我に返る。すでに勤務中だと気を入れ直す。今いる部屋は斎場にある一階の和室。故人の腹に溜まった点滴を取り除く作業をしている途中だ。


「……先輩、まだ終わらないんですかね」

 改めて時計を眺める。吸引作業を行ない2時間が経過しているが、もう少し掛かりそうだ。


「……そうだな。だがここまで来れば問題はない」


 再び桃瀬に視線を移す。彼女は昨日の酒が残っているのかぼんやりとした顔をしている。


 ……余計なことを考えては駄目だ、今は仕事に集中せねば。


 雪奈が気を引き締め直すと突然襖が開いた。そこには黄坂千月が正座の状態で座っていた。


「どうした?」


 仕事中だ、と睨みをきかせる。だが彼女は臆さず雪奈の元へ近づいてきた。


「すいません、お仕事中だとはわかっていますが、話があります。急を要します」


 雪奈は千月の腕を一瞥した。だがスーツの袖が長く、どちらの腕に時計が掛かってあるかわからない。


「用があるのならここで聞こう」

「ここではいえない話です。あなたのためにも」

「私のため?」


「そうです」千月は首を縦に振って答えた。「少しだけでいいんです。私に時間を下さい」


「それは無理だ」雪奈は故人の元に視線を戻した。桃瀬一人では心細い。もしここで彼女がミスをすれば大事おおごとになる。


「大丈夫です、行ってきて下さい」桃瀬が小声で呟いた。「この作業は一度目を通してます。任せて下さい」


「しかし……」


 一度見たからといって対応策は取れない。何より喪主の気持ちを考えるとここに留まっていた方がいいはずだ。


「大事な話なんでしょう?」桃瀬が千月にちらりと視線を向けた後、雪奈に戻した。「何かあればすぐに連絡します。行ってきて下さい」


 改めて千月を振り返る。やはり人が変わったように熱い眼差しでこちらを見続けている。ここで出なければ彼女はずっと居座り続けるだろう。 


「5分だけだぞ」

「それで十分です、ではこちらへ」


 桃瀬を留まらせ千月の後をついていく。どうやら斎場へと上がるようだ。


 急を要する話とは一体何だろう。はやる気持ちを抑えながら千月の後ろ姿を追いかける。彼女の先には螺旋状の階段がある。その奥は昨日弔われた申塚家のホールがあるだけだ。


「……手短に話してくれよ。彼女はまだ新米なんでね」


 階段を登り終えた後、雪奈は彼女の右手に着目した。そこにはスーツの袖から重厚な輝きを見せる機械式時計があった。


「わかっています。今日の喪家の方にも了承を得ていますので、安心して下さい」


 千月は周りを見渡して人がいないことを確認している。喪家が焼き場に向かっている間、斎場には一人もいない。どうやら誰にも聞かれたくない場所を選んでいるらしい。


「いきなりですが、変なことを訊いてもいいでしょうか」

「ああ」

「私は昨日、あなたと話しましたよね?」


 ……何だ、そんなことか。


 雪奈は肩の力を抜いてゆっくりと頷いた。


「もちろん。申塚家の担当は君だろう? 確認で事務所を訪れたが」


「……すいません。そうですよね」千月は首を傾げた。「確かピアノの話をしましたよね。私があなたのピアノを好きだということも伝えたと思います」


「ああ。それが何か関係しているのか?」


「ええ、それが……」千月は口ごもりながら右往左往し始めた。「初七日の後、喪家にピアノを演奏して欲しいといわれたんです。それであなたにお願いしたいと思っているんですが」


 斎場には見慣れないピアノがあった。きっと喪家が頼んだものだろう。


「断わる」雪奈は強く断言した。「生憎忙しい身でね。まだ仕事が残っている」


「もちろん仕事が終わってからです。それに無料でとはいいません。そちらの会社にも連絡を取りますし、きちんとお支払いの方もさせて頂きます」


「礼の問題じゃない。私はビジネスで演奏はしないと決めているんだ」


「仕事ではなくプライベートでならいいんですか」

「ああ」

「じゃあ、そう思って貰って構いません。好きな曲を演奏して貰ってもいいです」


 ……どういうことだ?


 雪奈は訝りながら彼女を見た。今の彼女はゆかりではなく千月本人だ。それなのにどうして私にこれだけ強く出れるのだろう。彼女は私に敬意を払っていたはずなのに。


「今回の喪主様は故人様と音楽の繋がりで知り合いました。祭壇もそれに相応しいように作られています。彼女もピアニストらしいのですが喪主様は弾くことができません。そこで代役を頼まれたんです」


 ずばずばと切り込んでくる彼女に俄然戸惑う。やはり彼女は千月本人らしい。ゆかりのように一定の距離を取らず他人の心の中に大きく踏み込み込んでくる。


 これはきっとゆかりの差し金だろう。そう考えると辻褄が合う。彼女が日記に予め仕組んでいたからこそ千月はここまで切り込んで来れるのだ。今の千月は自分の意識よりも日記に従っているに違いない。


 だが私が弾けないことはあいつも知っているはずなのに――。


「私じゃなくても弾ける人物はたくさんいるだろう。君だって弾こうと思えば弾けるはずだ」


 千月はピアノを弾くことができる。彼女が演奏をしている所は何度か見ている。


「そうなんですが……。お願いします。あなたじゃないといけないみたいなんです」


「根拠はあるのか。私でないといけないという理由を説明してくれ」


「それは……故人の死が関係しています。これ以上、私がいうことはありません。未橙さん、よく考えて見て下さい」


 ……もしかすると彼女は。


 不穏な影が自分の体に吸収されていく。もしかすると、あの時いった約束をまだ根に持っているのだろうか。


 故人の棺掛けにはスノードロップの花が描かれてあった。贈呈品として渡す場合の隠喩は『あなたの死を望む』


 もしかして、彼女はまさか……自分と会いたいがために彼氏を殺害したというのか?


「いや、そんなことは有り得ない」雪奈は大きく首を振った。「まさか花織が関与しているというのか? 病気ではなく彼女が……」


「真相はわかりません。ですが彼女があなたに会うためにここに来たのは間違いありません」


 千月の瞳が大きく広がる。力強い目だ。その強い光に雪奈は思わずたじろいだ。


 ……まさか、花織が?


 彼女と最後に会った時、何かを伝えようとしていた。もしかすると弟から兄へ付き合う相手を変えたという報告だったのかもしれない。


 雪奈への執着、それはもしかして自分のことを愛していたがためにとった行動なのかもしれない。


 私に会うために愛する人、もしくは会いたいがために手に掛けたというのか――。


 目の前のグランドピアノを確認すると、一年前に弾いたものと同じものだった。彼が亡くなって絶望に打ちひしがれていた時だ。


「ありえない、そんなことは絶対にありえない……」


 空になった心にもやが漂い始める。自分の軽率な一言で彼女の心を壊してしまったのだろうか。


 再び迷いが生じる。自分は殺人の手助けをしたということになる。もしそうであるならば、本当に取り返しがつかない。


「あなたは今の自分に対して迷っています。本当はピアニストに戻りたいと思っていませんか?」


「いいや、思ってない。私は自分でこの道を選んだ、だから戻ろうとは考えてもいない」


「じゃあなぜ中酉さんから避けるのですか。彼女はあなたに送って欲しいから、わざわざこの斎場を選んだんですよ」


「それがどうしたというんだッ」雪奈ははき捨てるようにいった後、踵を返した。「私の席をくれてやったんだ。それで十分だろう。用件がそれだけなら私は戻るぞ」


「逃げるんですか」


「逃げてなどいないっ」


雪奈は崩れそうな膝を思いっきり前に出した。


「……ピアニストだけが人生じゃないんだ。他の道だっていくらでもある。湯灌だって立派な仕事だ。彼女に対しては昨日きちんと遂行した。何の問題がある?」


「本当にそう思っていますか」


 振り返ると千月は楽譜を握っていた。その楽譜に見覚えがある。メロディラインは頭の中でも常に回っている曲だ。


「湯灌の仕事ももちろん大切です。ですがそれだけでは彼女の心を救うことはできない」千月は雪奈との距離を縮めるよう一歩前に踏み出した。「あなたの仕事はピアノを奏でることです。どうか中酉さんの心を救って下さい。今のあなたなら彼女の心を理解できるはずです」


「私は……」


 私だって痛みがなければ弾きたい。ピアノがない生活は辛い。色がない世界に住んでいるようで常に虚ろな感情が心に潜んでいるのだ。こんな生活には飽き飽きしている。抜け出せるのなら抜け出したい。


「未橙さん」

「私には……」


 無理だ。演奏している途中の恐怖が蘇る。締め付けられるような頭痛。自分の感覚がどこに向かっているのかすらも迷い始めていく。耳鳴りが聞こえ始め、鍵盤に迷いが生じる。無音の中で溺れていくことが怖い。


 怖い……。


「ピアノは一人で奏でるだけのものじゃありません。二人でもできます」


「え?」


「未橙さん、私と一緒にセッションしましょう」千月は微笑みながら告げた。「大丈夫です、一人じゃありません。私が横でついています」


 ……即興のセッションだと。


 雪奈は驚き声を上げることはできなかった。まして聴衆は音楽大学を出た者ばかりだ。そんな中で演奏をするなど嘲笑を買うだけだ。


「本気でいってるのか」


「もちろん本気です」千月は頑なに視線を揺らさない。目には先ほどと同じように強い光が宿っている。


「故人を悔いるだけが葬儀ではありません。周りの人の心を弔うことだって葬儀の一環です」


 彼女のことを考えるだけで心臓が暴れ回る。呼吸ができない。苦しい。


 花織、君は本当に――。


「……雪奈先輩」


 見覚えのある声が後ろから聞こえる。雪奈が振り向くと、中酉花織が遺骨を抱えて立ち尽くしていた。

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