第一章 花弔封月 PART5
5.
「明日また一件発生したから、病院に寄ってきたの」
「そっか。ちょっと待っててね。御節の残りがあるからすぐできるよ」
「うん、ありがとう。それとこれ、飾っておいてくれない?」
小さく纏まった花束を彼女に渡す。
「ん? どうしたの?」
「凪に貰ったの。捨てちゃうのも勿体無いからって」
千鶴は受け取った花を花瓶に入れ食卓のテーブルに飾った。そのまま台所に駆け出していく。
「御節は明日の夜食にとっておいてくれない? 明日はまた夜勤になりそうだから」千月はコートを仕舞いながらいった。「それに私だけが食べるのは悪いしね」
「そう? それじゃちょっと時間掛かるけど今から作っていい?」
「うん、よろしく」
千月はそのまま仏壇に向かい両親に挨拶を済ませた。いつものように鈴を小さく振るわせ、両手を合わせて目を閉じる。
母親・黄坂千尋は自分が時計の専門学校に入った時に亡くなった。父親・黄坂明は四年前に病気で他界している。つまりこの家には二人しかいない。
鈴の音が消えていくうちに彼女の意識は両親への祈りから自分自身への葛藤に移り変わっていった。
……自分が選んだ道は本当にこれで正しいのだろうか?
何度も繰り返した疑問に答えが出ないことはわかっている。そして時だけが躊躇せず何の狂いもなく進んでいく。
……迷う必要はない。
そう思い直し仏壇から席を立つ。すでに道は選んでいるのだ。後は流れに乗るだけでいい。
リビングに戻ると千鶴がエプロンを羽織って牛蒡を笹切りにしていた。
「勉強の調子はどう?」
「順調だよ。色んな分野があるから専門用語を覚えるのが大変だけど、仕事内容はわかっているつもりだからね」
「そっか。千鶴ちゃんなら上手くいくわ」
「……ありがとう」
笹切りにした牛蒡は鍋の中に転がり込んでいく。
「私も早く仕事したいなぁ、勉強ばっかりだと体がなまっちゃう」
「休暇だと思えばいいよ」
千月は椅子に座りながら告げた。
「お金には困ってないんだしさ。今のうちだけだよ」
「いつまでも休暇じゃ嫌なの。やりがいが欲しいの、私は。お姉ちゃんみたいにさ」
「真面目だね、千鶴ちゃんは」
湯のみから渋いお茶を注ぎゆっくりと啜る。寒い冬では炬燵に蜜柑が通例だが、それに日本茶があればいうことはない。白い紐のような皮を丁寧に剥ぎながら、そのまま一粒にちぎった蜜柑を口に放り込んだ。
「……お姉ちゃんがいうのは嫌味だよ。仕事が終わってもまた仕事。ほんと、いつ寝てるんだか」
「あれは仕事じゃないわ。趣味でやってるの」
「お金を貰ってるんだから、趣味とかいっちゃだめよ」
「……じゃあアルバイトってことになるのかな」
「ほんと、いいアルバイトね」
千鶴は声のトーンを上げていった。
「昼間の仕事と同じくらいの金額を貰っているんですもの。やっぱりこれからは技術職なのかなぁ」
千鶴がカンカンと鍋を叩き、出来上がった料理をお椀に零していく。今日は酢豚らしい。たっぷりと餡が入った中に酢豚がぷかぷかと浮かんでいる。
「うわぁ、今日もご馳走ね」
「久しぶりでしょ、酢豚」
「うん。でも千鶴ちゃんが作ったものなら何でも美味しいよ」
酢豚の横には熱々の豚汁が並べられていた。先ほど切られていた牛蒡がたっぷりと入っている。
「……じゃあさ、私をお嫁さんに貰ってくれない?」
千鶴はお玉を置いて両手を重ね合わせた。そのまま自分に向かって上目遣いで懇願するポーズをとっている。その姿が妙に似合っていて正視することができない。
「私にいってどうするの。凪にいったらいいじゃない。きっと喜ぶわ」
「えー私はお姉ちゃんがいいの。だめ?」
「だめとかじゃないでしょ。はいはい、ご飯食べるわよ」
箸を掴み両手を合わせる。彼女を促すように早速酢豚を口に入れる。
ジャスト二十時だ。いつもの夕食時より一時間遅くなっているが今回ばかりは仕方がない。
千鶴が作った料理をついばみながら時計の修復作業表を確認する。今年までに完成させなければいけないため今は片時も頭から離れない。
「ご飯くらいゆっくり食べないと駄目だよ」
千鶴の鋭い声が飛ぶ。
「いつもゆっくり食事なんてできないでしょ?」
「……そうね」
千月は顔を上げてファイルを閉じた。しかし頭の中では時計の設計図が大部分を占めている。
「……まあ今のお姉ちゃんには何をいっても無駄か。やり出したら止まらないもんね」
「ごめんね、こればっかりは無理みたい」
千月が力なく微笑むと、千鶴は子供をあやすような優しい目で酢豚を口に入れた。
「じゃあ私が食べさせてあげよっか?」
「……それはありかな」
千月が大げさに口を開けて待っていると、千鶴は笑いながらも酢豚を口に入れてくれた。
「ほんと、子供みたい」
「そう?」
「ほんと、どっちがお姉ちゃんかわからなくなる時があるよ」
彼女の言葉の意味に戸惑う。
「まあ千鶴ちゃんが一番面倒見がいいってことは決まってる」
「そうね、私もそう思う」
そういって千月と千鶴は笑いあった。
「ところでこれ、何の花?」
「空木っていう花みたい」
「ふーん。綺麗だね」
千鶴はそういって花を人差し指で触れた。
「確かこれ、卯の花ともいうんだよね。学校の教科書に載ってた気がする」
「そうなんだ。花言葉は『秘密』らしいよ」
「んー、私の記憶ではもう一つあった気がするんだけどなぁ」
そういいながらも千鶴はご飯を食べ終わると、その話題を忘れたようだった。
食事を終え部屋に戻ろうとすると、千鶴が声を上げた。手には紅茶のパックが握られている。
「お姉ちゃん、今から夜更かしするんでしょ。後でこの紅茶淹れて上げる」
千鶴が掴んでいる紅茶は千月の最も大好物の銘柄だった。
「わあ、ありがとう。昨日切れてたから買ってこようと思ってたのよ」
「これがないと作業が捗らないんでしょ」
「そうそう」
千月がにっこりと笑うと、千鶴は少し気を落としたような様子を見せた。
「……あんまり無理はしないでね。時間がないのはわかってるけど体を壊したら意味ないよ」
「もちろん。私一人の体じゃないからね」
「そういう意味じゃなくて……」
千鶴は壁に寄りかかって微笑んだ。
「お姉ちゃんは真面目すぎるからさ、心配してるだけ」
「大丈夫よ。千鶴ちゃんが考えているようなことにはならない。全て上手くいくわ」
「……」
「千鶴ちゃん?」
数秒の沈黙と共に千鶴はゆっくりと呟き始めた。
「……私ね、今のこの生活嫌いじゃないよ。このままでもいいとは思ってないけど、他に方法があればいいなと思ってる」
千月が黙っていると千鶴は申し訳なさそうに手を振った。
「……ごめんね、考えた上での話だもんね。ごめんなさい。今のは忘れて」
「……私のことは本当にいいのよ」
千月は静かな口調でいった。
「自分で決めたことだし、何より納得してるから」
「うん……そうだよね。じゃあ今日も頑張ってね」
千鶴の激励と共に紅茶を受け取り部屋に戻る。
……さあ、今からもうひと頑張りだ。
改めて手掛けている時計に目をやる。今回の時計の問題点は歯車の喪失にある。二十四枚歯だったがそのうちの二本が欠けているのだ。歯車が欠けているだけならよかったが見た所、歯車自体にガタが来ている。もちろん同じパーツなど何処にも売っていないので自分で作るしかない。この作業が一番難しいし何より修理費が変わってしまう。
修理費がいくら掛かるか想像した所でそれが必要ないことを思い出し少しはにかんだ。今回の場合は考慮しなくていい部分だったからだ。再び歯車のイメージをメモ用紙に何枚も書き連ねる作業に入った。
カリカリ、カリカリ。
手を動かすことによって歯車のイメージが溢れてくる。歯車の動きは緩やかで鉄の噛み合う音が規則正しく聞こえてくる。そのイメージが鮮明に描ければ描けるほど、内部の構造は複雑化し時計の構造図が宙に浮かんでいく。
感覚を掴んだ後、さっそく歯車の作成に取り掛かった。仮に全く同じサイズの歯車を作り出したとしてもうまく回るかはわからない。連結している歯車にも年月による歪みが生じているからだ。あまりにも異なる材質を使えば他の歯車にも負担を掛けることになるのでそこにも注意する必要がある。時計の修復にはこういった針に糸を通すような作業を何度も繰り返さなくてはならない。
あれこれと歯車を削り思考錯誤していると、いつの間にか睡魔が近寄ってきていた。だがこのまま眠るわけにはいかない。彼女はだるい目を擦りながら日記帳を机の上に置き、いつものオルゴールをセットした。
何度も意識を集中し直してみるがやはり駄目なようだ。
結局誘惑に負ける形となり、彼女はまどろんだ瞳を閉じることにした。