第四章 『風花雪月』 PART11
11.
「先輩……何か食べないと危ないですよ」
花織が気弱そうな声で再度尋ねてくる。
「昨日作った分も食べてないみたいですし、このままだったら倒れちゃいますよ」
「……食べられないんだ、気を使わないでくれ」
雪奈は力なく呟いた。
「それよりも明日は君の番だろう? 遠方から彼氏がわざわざ見に来るといっていたじゃないか。早く帰った方がいい」
「そんなことより先輩の方が大事です。私がいなくなればまた先輩、ピアノを続けちゃうでしょ。いい加減体を休めないと、先輩が壊れちゃいますよ」
「いいんだ。私にはもうピアノしかないんだから……」
スコッチを軽く飲み干す。体の芯が熱くなっていき、思考が緩くなってゆく。酒を飲まなければ体を動かすのも億劫だ。
「練習しないと落とされていくんだ。今の君ならわかるだろう? 一流の組織では動かないものはごみ以下だ。ベンチにも座ることができない」
どんなに才能が有ろうと結果が全てだ。大学に入る時もそうだった。同じバンド仲間だった圭吾と一名の推薦枠を駆けて演奏したが、結果は自分が勝ち取った。彼の方が実力があったのにだ。
この世界では絶対なんてものはない。一瞬に全てを賭けなければ自分の世界は崩れていく。
「先輩を外すわけありません。同じ楽団にいるのでそれくらいわかります」
「そうとは言い切れない。私の代わりなんていくらでもいる。君みたいに推薦だけで入れる人物だっているんだ。その中で常に勝ち続けなければ演奏はできない」
今ここで折れたら全てを失ってしまう。作り上げたものが一瞬で壊されてしまうのだ。砂浜に築いた城のように、跡形もなく消えてしまう。
自分のピアノが、彼との思い出が、消えてしまう。
それが堪らなく怖い――。
「そろそろ帰ってくれないか。練習の邪魔だ」
煙草を咥え火を点ける。銘柄はセブンスター。彼が愛用していたものだ。この香りを嗅ぐと少しだけ心の負担が軽くなる。
「それともなにか? 君は私の邪魔をしたくてここにいるのか?」
「……違います。私は先輩の力になりたいんです」
「ならここから消えてくれないか? それが一番有り難い」
「先輩……」
「……鬱陶しいんだよ。あれはだめ、これをしろ。一体、何なんだ。君は一体、どうしてここにいる?」
「それは……」
「そっとしておいてくれないか。余裕がないんだ。自分の気持ちを抑えるので精一杯なんだ」
「わかっています。だからこうして……」
「わかる? 何がわかるんだ?」
「えっ?」
自分の中に溢れている気持ちが洪水のように溢れ出す。もう止めることなんてできない。
「私の気持ちがわかるというのか? どうして? 君には最愛の人がいるだろう? どうして私の気持ちがわかるというんだ?」
「……すいません。わかっていません」花織は頭を下げたまま固まっている。
「そうだろう? わかっていないのに、わかった振りをするなッ」
ピアノを強く叩くと、花織は身を竦ませ瞳を震わした。
「……すいません、先輩」
「謝らなくていい。君と私はもう先輩と後輩じゃないんだ。今はお互いライバルの身だ。そうだろう?」
「私はそんな風には思っていません……」
「私はそう思ってるよ、花織」雪奈は唇を噛み締めながらいった。「私の気持ちがわかりたいのなら、彼を失ってからにしてくれ。同じ絶望を味わってから、説教してくれよ」
「……絶望に負けちゃ駄目です、先輩」花織は小さく呟く。「私がこんなことをいっても説得力ないですけど、希望を持って下さい。先輩は私の希望なんです」
「希望?」
「ええ、そうです。私にとっての希望は先輩だけなんです。だから……」
「だから棺掛けにスノードロップの花をくれたのか」雪奈は歯軋りしたまま彼女を強く睨んだ。「嫌がらせもあそこまでいくと清々しいな。私のことが嫌いなら、そういえばいいのに」
「ち、違います」花織の顔が歪む。視線はまっすぐに雪奈の方に向いている。「どうしてそんなことをいうんですか?」
「スノードロップを贈る時には『相手の死を望む』という意味があるそうじゃないか。おかげで遺族から罵声が止まらなかったよ」
「え……そんな……」
彼女は本当に知らなかったのだろう。
花言葉、というのは無数にあり、その花自体を贈ることにも意味がある。捉え方は人それぞれだ。
スノードロップ。希望にもなれば絶望にもなる。人の思いそのものだ。雪のように人の感情は脆く、儚い。
「君がここにいること自体、私には毒になるんだ。頼むから、出ていってくれ。それとも私からレギュラーの座を奪いたくてここにいるのか?」
「……すいません。そんなこと、私、知らなくて……」
「頼む。これ以上、いわせないでくれ」
彼女に八つ当たりしたいわけじゃない。一人でいないと精神が崩壊しそうになるだけだ。今は誰の言葉もいらない。
花織の声さえも私には届かない――。
「……そうですね。すいません」
花織は踵を返した。その後ろ姿には光はなく闇に覆われていた。
「……もうプライベートでは先輩の前には現れません。今度会う時は私も同じ絶望を味わった時にします」