第四章 『風花雪月』 PART8
8.
「……やっぱりいつ聞いてもいいですね、この曲」
雪奈が演奏を終えた後、花織は賞賛の声を漏らした。
「ありがとう。けどあそこでは私の弾き方じゃ通用しない。もっと繊細に弾かないといけないんだ。今日は花織がいるからアレンジしたけど」
雪奈は鍵盤を閉じた後、花織のいるテーブルに移動した。自分のコーヒーをカップに注ぎ席に座る。
「やっぱり大変ですよね。一流の楽団で務めるというのは。一つの音に対しても凄い神経質になっているイメージがあります」
「もちろん。入った当初は毎日辞めてやるって思っていたけど」
「そんな、怖がらせないで下さい」花織は大きく手を振った。「それともなんですか? 私が今年受験するのを知っててわざと驚かせているんですか」
「ああ、もちろん」雪奈は声のトーンを上げていった。「私だって日々挑戦する方なんだ。これ以上ライバルが増えたら困る」
「先輩が弱気なんて珍しいですね」
「ここで職がなくなったら困るからな。せっかくチャンスを掴んだというのに君が来たら私の居場所がなくなってしまう」
そういうと花織は腹を抱えて笑い始めた。雪奈もそれに合わせて顔を綻ばせる。
「そういえばあれから三年も経つんですね」
「ああ、そうだね。本当に時の流れっていうのは早いな」雪奈は頷きながらコーヒーを一口含んだ。「もしあそこで演奏していなければ今の未来はなかったんだな……」
今からちょうど三年前。
文化祭の演奏が無事に終了した後、全日本オーケストラ楽団と呼ばれる団体からオファーが来た。どうやら当初の目的では中酉花織の視察に来ていたようだが、彼女がシンガーとして舞台に立っている所、雪奈の演奏に注目がいったようだ。その場で推薦を受け雪奈は快く承諾した。
全日本オーケストラ楽団とは日本を代表する楽団だ。しかもそのメンバーに入れるということは超一流企業に就職できることを指す。まさに夢のような出来事だ。
だがすぐに現実を見ることとなった。その推薦メンバーは日本全国で300名に達しているという。もちろん全員が受かるわけではなく予選がある。しかも三次予選まで含まれるという長い選考会だった。
雪奈は仕方なく推薦を受け入れた。どうせ行く場所はないのだ。受けるだけ受けてみようと思い、勢いで会場に足を向けた。
ピアニストの門は予想以上に狭かった。他の楽器とは違いピアノは一台しかないからだ。また幼少の頃からピアノを習っているものも多いため必然的に倍率は高い。
全力を尽くした結果、最終予選で敗退となった。悔しい思いはしたが技術力が及んでいないことは雪奈自身わかっていた。
結果を聞いて晴れ晴れとした気持ちで地元に帰ってきたが、後日一人の審査員から連絡があった。非常勤として全日連に所属することならできるという内容だった。彼女はすぐさま承諾した。
「本当にあの文化祭が懐かしい……あの時のように皆、自由に音楽を楽しめるっていうこと自体が幻のようだ」
就職が決まり一息つけるかなと思っていた矢先、戦いは終わっていなかった。所属しているピアニストは一人ではないため、野球選手のように一軍と二軍の関係にあり、先輩と後輩の関係は驚くほど溝があったからだ。
それでも雪奈は折れずに戦った。自分の技術を惜しみなく出し感情を昂ぶらせて演奏し続けた。振って沸いたチャンスにも惜しみなく力を注ぎ、ついには正式に入団が許可された。
その緊迫した戦いの中に、花織も入り込もうとしている。
「今年の文化祭も、もうすぐだな。君にとっては最後の文化祭になるわけだ」
「ええ、そうです。その時には是非見に来て下さいよ」
「生憎、約束はできそうにないな」雪奈は顔をしかめた。「自分達の新婚旅行だっていけてないんだ。休みも取りずらい環境でね。お互い地元が一緒だというのに、別々に帰ったくらいだよ」
左手にある指輪を眺める。新婚だというのにすでにその輝きは半分ほど弱まっているようにも見える。
「やっぱりそうなんですね。旦那さんも教える立場にある人ですから、難しいでしょうね」
「そうなんだ。おかげで老夫婦のような生活をしているよ」
雪奈がおどけていうと、花織は眉を寄せた。
「先輩は男の人に興味なんてないかと思ってたのに……」
「いっただろう、私が初めて付き合ったのは申塚君のお兄さんだと」
「……覚えてますよ。でもあの人は男というより中世的な感じだからいいんです」
自分の初恋の相手は申塚真吾の兄・申塚圭吾だ。高校の時、同じバンドに所属していたこともあり彼とはいつも一緒にいた。彼は病弱で内気な性格だったので男女の仲と呼べるような親しい交際はなかった。だがお互いの気持ちは通じ合っていたと思う。音を通してだ。
「どうしてお兄さんとは別れたんです?」
「大学に入る推薦枠が一つしかなかったんでね。それを掛けて戦ったから、そのままなおざりになって……」
「そうなんですね。それからは会ってないんですか?」
「ああ、何をしているのかもわからないよ」
「……やっぱり初恋が叶うことはないんですね」
彼女の視線が痛い。雪奈は軽く反撃に出ることにした。
「私の話はいい。ところで君の方はどうなんだ? 真吾君と上手くいっているのか?」
「ええ、一応」花織は小さく呟く。「でもこれからも続くかはわかりません。ちょうど今が瀬戸際なんです」
「ふうん。でも駄目になったらドラムの彼がいるじゃないか。あっちの方がお似合いだと思うけど?」
そういうと花織は小さく両手を振った。
「さっちゃんはただの幼馴染です。姉弟のような関係なので恋愛対象にはなりませんよ」
「そういうものなのかな。近くにいる人物ほど居心地がいいものだと思うけど」
「まあ、その話はいいじゃないですか」花織は無理やり流れを断ち切った。「ああ、文化祭で思い出したんですけど。先輩が止めてからまたグループ名を変えたんです」
「そうなんだ。何ていう名前に?」
そういって花織は『風花紲月』と書いた。
「読みは前と同じフウカセツゲツです。でも、雪の部分を変えました。先輩がいなくなってしまったから……」
「これは何と読むんだ?」
「糸に世と書いてキズナと読むんです。この世は見えない糸で繋がっているでしょ? 目に見えなくても先輩とは繋がっていたいんです」
「音を通して、という意味でかな?」
「そうです。風花は『月の光』を聞いている限り、本物の雪と紲がっていられるんです」
そういって花織は恥ずかしそうに目線を逸らした。若干顔が赤い。
「どうしたんだ? 恥ずかしがるんなら、いわなければよかったのに」
「別に恥ずかしくなんてないですよ」
そうはいうが顔は徐々に高潮していく。まるで初恋の相手と話している少女のようだ。
「先輩が男だったらよかったのにな……」
「ん? 何かいったか?」
「いいえ、何でもありません」
花織は踵を返して紅茶を啜っている。月の光が彼女を照らし蒼白く染めている。
「さあ、私のためだけにもう一度聴かせて下さい。ね、先輩」