第四章 『風花雪月』 PART4
4.
「……雪奈先輩」花織が弁当箱を掴んでいった。「お昼休みに練習付き合って貰ってもいいですか?」
「うん、いいよ。じゃあお昼は部室で食べよっか」
吹き抜ける冷たい風と共に部室へと向かう。空を見上げると紅葉した色鮮やかな葉がみっしりと密集している。色のつき方はどれも同じように見えて変化があり、緑から赤に向けて自然なグラデーションで塗れている。
もう季節はすっかり秋だ。
「もうすぐ本番ですね。あー、今考えるだけでも緊張するなぁ」
「そうか、花織は文化祭は初めてになるんだね」
「そうですよ」花織は身を震わせながら唇を尖らせる。「先輩は四回目になるかもしれませんけど、私は初めてなんですよ。それなのに練習中にアレンジを加えたりするから、こう自信が持てないんです」
「悪い悪い」雪奈は顔を綻ばせながら謝った。「規定通りに中々弾くことができないんだ。楽譜は頭に入っているんだけどね」
「わかってます。気分で変えてるんでしょ?」花織のじっとりとした目が雪奈に刺さる。
「うん。だってジャズは即興が命だろう? だからその時の気分を大事にしないとね」
「それだから私が困ってるんです……」花織は深く溜息をついた。「いいですか、先輩。文化祭はもう明後日なんですよ。それなのに一度も上手くいってないんです。どういう状況なのかわかってるんですか?」
それをいわれると耳が痛い。視線を反らすと校舎に張られてあるポスターが目に入った。
黒を帯びた五線譜が清流のように上からうねっており螺旋状に下っており、そこに音符が色を点けて煌びやかに装飾を施している。あたかも虹がメロディを奏でているようだ。
音楽大学のため文化祭のポスター一つでも気合が入っている。
「大丈夫だよ、花織なら」雪奈は宥めるように優しい声で諌めた。「君の方がピアノは弾けるだろう? 曲の流れも掴んでいる。後はそれに合わせて唄えばいい」
「理屈はわかるんですけどね。それでもやっぱり上手くいかないんです。私は先輩みたいに頭が柔らかくないんですよ」
花織は名門中の名門の音楽高校を出ている。ピアノだけでなくヴァイオリン、フルートとオーケストラに含まれるありとあらゆる楽器を経験している。ジャズ部に入ったのも勉強の一環らしい。
だが今回のような即興演奏は苦手なようだ。
「人前で唄うだけでも緊張するのに、先輩のピアノに合わせてでしょ? どこかで気後れしているのかも」
花織の愚痴を聞きながら部室の扉を開ける。その扉には漆が取れかかった文字でジャズ部と書かれてある。正式名称はモード・ジャズバンド部。主にビルエヴァンスの時代に焦点を合わせたものだ。
「先に食べよっか。練習始めたら止まらなくなるし」
「そうですね」
雪奈は鞄からサンドイッチを取り出した。細い角から口に含み演奏項目を眺める。
今回のタイトルは『枯葉』だ。ジャズをやっている者には登竜門となる曲で、メロディラインは誰でも口ずさむことができるだろう。その上タイトルのイメージとは違いアップテンポにあるため、即興演奏としても人気の高い部類に入っている。
「そういえば、あの二人は呼ばなくてよかったの?」
「いいんです。私は先輩のピアノにしか合わせませんから」
……やれやれ、彼女は強情過ぎて扱いにくい。
雪奈は顔をしかめながら彼女の顔を見た。コントラバスの演奏者はつい先日決まったばかりだというのにこのままでは本当に演奏ができない可能性がある。
だが雪奈が睨んでも彼女の表情は一切変わらなかった。
あの二人とは花織の同級生だ。ドラムの戌飼聡は彼女の幼馴染だが、コントラバスの申塚真吾は雪奈の知人だ。高校の時、彼の兄とジャズバンドを組んでいたこともあって面識があり頼み込んだ所、今回の演奏を引き受けてくれることになった。
「……ピアノに合わせるからいけないんだ」雪奈はサンドイッチの残りを詰め込んでからいった。「一番合わせにくい所で合わせようとするからできないんだよ。ドラムやコントラバスのベースに合わせれば一発で上手くいく」
「わかってます、それくらい」花織も大口でおにぎりを頬張る。早く食べて練習しようと意気込んでいるようだ。「それでも私は先輩と一緒にのりたいんです。先輩の躍動感に合わせないと意味ないんですよ」
口の中を満杯にしながらふっと力強い瞳を輝かせる。出会った頃から変わらない美しい瞳だ。彼女がこうやって目を輝かせる時、意地でも自分の意思を曲げることはない。
「わかったわかった。だからこうして練習に付き合ってるんじゃないか」
自分の就職先も見つかっていないのにだ、という言葉は伏せておく。最終学年になるというのにまだその先は決まっていない。心の中には徐々に不安が固まりつつある。
だがこんな愚痴をいってしまえば花織は再び口火を切るだろう、きちんと就職活動をしていない方が悪いと。
そういわれば何も言い返すことはできない、事実だからだ。音楽関係につきたいという漠然とした思いはあるが実際に思い浮かぶものはない。ピアニスト、という職業も自分には向かない気がしてしまう。
「先輩ならいいピアニストになれると思うけどなぁ、私が必ずお客さんになりますから」
「客一人だけで演奏できるなら、苦労しないよ」
雪奈は溜息をつきながらサンドイッチの残りを押し込んだ。
作者の心を汲み取りながら決められた演奏をする。そんなことをするくらいなら初めから音楽などに興味は持っていない。
「それに私には無理だよ、ピアニストなんてがちがちのサラリーマンじゃないか。楽譜に縛られるだけでも寒気が来るのに、オケ(オーケストラ)でやることになったら凍死してしまうよ」
自分が音楽に興味を持っているのはその瞬間にある躍動感だけだ。初めてジャズの演奏を聴いた時、どこかで聞いたことがあったフレーズだった。それが即興演奏だったと知ると体の中に熱いものが流れていったのだ。
その時から将来の展望は構築されていった。
「そういえばさ、訊きたいことがあるんだけど」
「はい、何でしょう?」
「私達のバンド名は『雪月花』だったじゃない? どうして『風花雪月』に変わってるんだ?」
結成当時は自分達のバンド名は『雪月花』だった。花織がいうには雪奈の雪、花織の花、それに二人が出会った時のドビィッシーの『月の光』が入っているらしい。
「よくぞ訊いてくれました」花織は胸を張って答える。「先輩は風花っていう言葉、聞いたことがありません?」
「うーん。ないね」
「風花とは雪のことなんです」
雪奈が答えると花織は唇を舐めて続けた。
「私の生まれた地方では空に雲がなくても雪が降ることがあるんです。山を登って風に運ばれてくるんですよ。それを風花というんです。別名、幻雪とも」
「確か君の出身は札幌だったね。で、それが何の関係にあるんだ?」
「……本当鈍いですね」花織はあからさまに溜息をつく。「前にお花の話をしたでしょう? スノードロップとスノーフレークの話です」
「うん、訊いたことがある」
確かスノードロップが冬の季節に咲く花で、スノーフレークが春に咲く花だった。どちらも雪のように白く可憐な花を咲かせるらしい。
「私の頭が悪いのかな。ごめん、それがどういう関係にあるの?」
「つまりですね。私も雪になりたいんですよ」花織はしょぼくれた顔で告げる。「私は先輩に近づきたいんです。本物の雪にはなれないけど、努力すれば幻雪にはなれる。春の花だって、冬の雪になれるんです」
「どうして私に近づきたいの? 花織には花織の魅力があるよ。私にはそれほど魅力はないと思うけど」
「私は先輩のピアノに憧れているんですっ」花織は力強くいった。「今までたくさんのピアノを聴いてきましたけど、先輩のピアノが私の中で一番なんです。ここまで心を動かされたものはありません」
そういって花織はピアノの椅子に座り『月の光』のメロディラインを右手だけで弾き始めた。雪奈の特徴に合わせてか、ややテンポが早い。
「あの時のピアノは本当に綺麗でした。本物の月の光を浴びているようで、心が浄化されていく感じがしたんです。だから私は先輩に近づきたくてこの部に入ったんです」
クラシックでも一つだけお気に入りの曲がある。それがドヴィッシーの『月の光』だ。幻想的で儚げで、とても美しいメロディラインを持っている。部室でこの曲を弾いている時に花織は突然部室に入ってきた。
「先輩、覚えてます? スノードロップの花言葉」
「確か『希望』だったかな」
そしてスノーフレークは『純粋』だったよな、と一人納得する。
花織の例えにのるなら、彼女は本当に純粋という言葉を表した少女だ。
「そうです、先輩は私にとって希望そのものなんです」花織は水を得た魚のようにしゃきしゃきと喋る。
「先輩がいるから私はクラシックを愛せるようになったんです。私に初めての感情を教えてくれたんですよ」
その話は何度目だよ、という言葉も伏せておく。彼女は音楽の才能に恵まれながら自分の感情を封じていた。作曲者の心に合わせようと考え過ぎていたのだ。そのため雪奈のような型破りなピアノが珍しかったようだ。
「それにスノードロップにはもう一つ意味があるんですよ」
「ん? 花言葉って一種類に二つあるの?」
「そうなんです。もう一つはですね」
花織は大きく深呼吸して顔を赤らめながら言葉を告げた。「……やっぱり教えて上げません」
「えっ。そこまでいわれたら気になるじゃん。教えてよ」
「教えません」
「どうして」
「だって……」花織はちらっと雪奈の顔を見た。「私の気持ち、そのものですから。いいにくいんです」
「そんなこといわれたら余計気になるよ」
「自分で調べて下さい。さあ、早く練習の続きをしましょう、じゃないと本当に間に合いませんよ」
そういいながらも花織は嬉しそうな表情を浮かべる。
「ね、先輩」