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長編小説 4 『花纏月千(かてんげっち)』  作者: くさなぎそうし
第四章 『風花紲月(ふうかせつげつ』 未橙 雪奈(みだい ゆきな)編
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第四章 『風花雪月』 PART3

  3.


「オーライオーライ、はい、ストップです」


 桃瀬が小さな両腕を大きく交差して何度も振っている。雪奈は彼女の姿を確認しつつ、いつもの定位置に車を止めた。


 桃瀬と共に故人が眠っている和室へホースを流しすぐに体が洗える状態に意向する。雪奈が和室の扉を開けると共に遺族がこちらに視線を寄せてきた。


「失礼致します」


 彼女は頭を下げて周りを一瞥した。故人はいつも通り所定の位置で眠っている。その周りを遺族が囲んでいる感じだ。


「ああ、湯灌の方ですか」遺族の一人が声を上げた。


「そうです。今から故人様の体を清めさせて頂きます」


 雪奈が頭を下げると遺族が続けてぞろぞろと故人の前から離れていった。


 その中に想定した相手が紛れていた。不意に体の節々が硬直し始めていく。


「先輩、お久しぶりです」


 遺族に紛れていた若い女性が座ったまま頭を下げてきた。「どうか彼をよろしくお願いしますね」


「こちらこそ、よろしくお願いします」雪奈は正座をしたまま頭を下げた。


 ……やはり、君なのか――。


 目の端で若い女性を捉えながら故人の元へと足を運ぶ。どうやら予感は的中したようだ。だからといってやることには代わりはない。桃瀬の視線に構わず故人を着替え先に移していく。


 男性の体の痛みは大きい。顔から足にかけて大部分が黒ずんでおり肌色を残している所は少ない。きっと死後から日数が経っているのだろう。


 だが彼だとわかる要所はいくつもある。目元は伏せてあるが、睫は長く彼の眼だとわかる。顔のほくろの位置、胸の辺りにある傷、華奢な腰周り、間違いなく彼が圭吾で間違いない。


 体を洗っている最中に先程まで冷静だった遺族が嗚咽を漏らし始めた。きっと彼らの中で彼の死がまた一歩進んだのだろう。死に面してもすぐに感覚が働く人は少ない。こうやって徐々に段階を踏んで初めて故人の死は受け入れられていく。


 雪奈は目の端で彼女を追った。彼女もまた他の遺族と同様に目を伏せている。その表情を見て心が水を得るように潤っていく。それと同時に胃の痛みが少しだけ和らいでいった。


 湯灌が終わった所で棺に入れる作業に入った。その時、後ろに待機していた女性が棺に掛ける布を用意してきた。


「これを掛けて上げてくれませんか」


 どうやら棺掛けは自分で用意しているらしい。雪奈が受け取ろうとすると、女は突然呟いた。


「彼が好きだった花を選んだんです」

「綺麗ですね、これ」桃瀬が近づいてきて女に訊いた。「なんという花なんです?」


 社交辞令で棺掛けに視線をやる。すると彼女の視線が不意にこちらにきた。何かの表情を読み取ろうとするじっとりとした眼だ。雪奈はその視線から逃れるように目を逸らした。


「スノードロップといいます。冬に咲く花なんですよ」

「へぇ、可愛い名前ですね」桃瀬が横で感嘆の声を上げている。


 ――先輩、この小さい花の名前知ってます?


 彼女の声が再び自分の頭の中だけで繰り返される。


 ――このお花、花が垂れてるから『初恋の溜息』っていう花言葉なんですよ。可愛くないですか?


「こういった棺掛けもあるんですね、勉強になります」


 ここから早く離れたい。しかし桃瀬が話に夢中になっており身動きが取れない。


 彼女を置いて部屋を出ようとすると、和室の襖が勢いよく開いた。


「なっちゃん、遅くなってすまない」


「ああ、聡さん。ご苦労様」


 どうやら弔い客が来たようだ。もうコートが必要になる季節だが、彼の顔は汗で濡れていた。再び出るタイミングを失い視線を落としていると、たった今到着した彼がこちらに向かって挨拶をしてきた。

 その顔にも見覚えがある。


「ありがとうございます。圭吾さんもこれでちゃんと天国に行くことができます」


「いえ、私は大したことはしてません」桃瀬の視線が雪奈に向く。「私はまだ研修中の身でして。こちらの方が全てをやられました」


「ああ、そうでしたか」男は再び腰を低くする。彼の視線は雪奈に向けられる。「こうやって最後の最後まで見送られるだけでもあいつは幸せものです。本当にありがとうございました」


「……いえ」雪奈は小さく頭を振った。「私もこの仕事についてからそこまで長くはありません。礼をいわれるほどのことでは」


「いえ、そんなことはありません」


 男は首をぶんぶんと振った。その視線には困惑の様子が伺える。


「きちんとした仕事だと思います。ほら、葬儀に関わる仕事なんて基本わからない所ばかりでしょ。これだけ丁寧に化粧を施して貰っているだけでも全然違います」


 男を凝視することはできない。彼とも面識があるからだ。彼は彼女の幼馴染、そして故人とは元バンド仲間だ。


「聡さん。これで汗を拭いて」女が小さいハンカチを手渡した。「汗びっしょりよ。とりあえず落ち着いて」


「ああ、ありがとう」聡と呼ばれた男はシャツのボタンを二つほど外した後、ゆっくりと顔を拭いていった。「この季節で汗を掻くとはなぁ。10月に入ってもまだ暑いね」


「い、急いできたからよ。ほら早く上着も脱いで」


 彼女は男の上着をハンガーに掛けて皺にならないように伸ばし始めた。


「それでは私達はこれで」


 二人で頭を下げると向こうも同時にお辞儀を返してきた。襖を閉める際に女の視線が雪奈に突き刺さる。その瞳にはうっすらと狼狽が浮かんでいた。


 和室を出ると案の定、桃瀬からの質問を受けた。


「未橙先輩。さっきの喪主の方、先輩のこと先輩っていってませんでした? 知り合いなんです?」


「いいや。人違いだろう。私は知らないよ」


「そうですか。私の聞き間違いかな」桃瀬は納得したような顔になったが、すぐにまた眉を寄せて独り言のように呟き始めた。


「あの男の人、何か怪しいなぁ。きっとあの人、奥さんのことが好きなんですよ」


 そうかもね、という言葉を押し留めて疑問を返す。


「どうして?」


「だって、あの人全然汗掻いてなかったじゃないですか。普通暑かったら上着を脱いで入ってきますよ」


「喪家がいる前で上着は脱げないと思うけど」


「そうです。だから和室に入る前に上着を着たんだと思います」桃瀬は眉間に皺を寄せながら続けた。


「でも上着には汗が染み付いてなかった。つまり元々汗は掻いてなかったんです」


 ……中々鋭いな。雪奈は桃瀬の着眼点に感心した。


「なるほど、つまりスタンドプレイを演出したと」


「その通りです。焦って入ってきたという立場を作りたかったんだと思います。今日はそんなに暑くないですし」桃瀬は人差し指をゆっくりと上げながら続けた。「どういう関係にあるかはしりませんけど、御主人が亡くなって自分にもチャンスがきたと思っているんじゃないですか。あの喪主の方、綺麗でしたもんね」


 ……馬鹿馬鹿しい。


 雪奈は心の中で溜息をついた。若い女性の関心ごとは決まって他人にある。どうして関係のない人物のことを探ろうとする気持ちが働くのか理解できない。それも憶測でだ。


 だがその憶測が決して的外れでないので恐ろしい。


「……そうだったらどうするのかなぁ」桃瀬が腕を組んで悩み始めた。「好きだった彼がいなくなったからといっていきなり他の人に行くのはあんまりですよね。雪奈さんだったらどうします?」


「私なら後を追って死ぬけどね」


 雪奈が軽口を叩くと桃瀬は目を丸くした。


「げっ。そんな冗談は止めて下さいよ。先輩がいうと冗談に聞こえません」


「冗談じゃないといったら?」


「冗談じゃなくてもそんなことはいっちゃいけません」桃瀬は口を尖らせて反論してきた。腕は組んだままだ。「簡単に死ぬなんて口にしたらいけませんよ。特にこの仕事についていたらなおさらです」


「……違いない。すまない、私が悪かった」


「ええ、まったくです」桃瀬は表情を変えずにしっかりといった。「だからそのお詫びとしてコーヒーでも奢ってください」


「安いお詫びだね」

「安くてもいいんです、お詫びが出るなら」


「くくくっ」雪奈は口元を緩めて頷いた。「それくらいで済むんならいくらでも奢ってやるさ」


「え、本当ですか? やっぱりいってみるものですね。やった、得しちゃった」


 ジュース一つで微笑む桃瀬が可愛らしい。その純粋な笑みにはまだ幼さが残っている。


「担当者に報告してからだ。先に事務所に行くよ」


「もちろん、わかってますって」


 そういいながらも桃瀬の足取りは軽い。斎場の中だというのにスキップをするかのようにのびのびと歩いている。


「事務所は一階ですよね、早く行きましょう。先輩」


 ――早く部室に行きましょうよ、先輩。


 再び彼女の影が見える。今度は鮮明にだ。先ほど本人を見たせいかもしれない。


 しかし彼女は弟の真吾と付き合っていたはず、どうして兄の圭吾と付き合っているのだろう。

 憶測が浮かんでは消えていく。弟の真吾はここにはいなかった、親族なのにおかしい。仕事でいないのだろうか?


 それとも……。


 ――本物の雪にはなれなくても、幻の雪にはなれます。私、先輩に近づきたいんです。


 彼女の言葉が耳の奥でこだまする。その後ろにはドヴィッシーの『月の光』が流れている。彼女と出会った時に奏でていた曲だ。


 ……花織、君は今、どんな気持ちなんだ?


 彼女の心境を考える。今は何も考えることができないかもしれないけど、これから時が経つに連れその感情は連鎖していくんだ。


 私でさえそれを止める術は知らない。君は純粋だから、私よりも苦しむことは確実だ。


 もし君が望むなら。


 私は君のために『月の光』を弾いても構わないよ――。

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