第四章 『風花雪月』 PART2
2.
10月10日。
道行く葉が仄かに色づいてきている。雪奈は窓から見える景色を眺めながら自宅でピアノを弾いていた。
曲のタイトルはベートヴェン『月光』。第三章からなるピアノソナタだが、第一章がお気に入りだ。暗い低音のリズムが自分の心を落ち着かせてくれる。
第一章は約5分。これを三回ほど繰り返すことが毎朝の日課になっている。
三回目の終盤に掛かり無意識に時計を眺める。そろそろ出勤時間が迫っているようだ。仕事着の白衣を携え忘れ物がないようにチェックし仏壇の前に座る。そのままいつものように仏壇の鈴を鳴らし黙祷を捧げた。
どうぞ、安らかにお眠り下さい。決まりきった鎮魂の言葉を並べたて席を立つ。魂を沈められるのは決まって自分の方だ。彼に悔やみの言葉を告げることで生きる力を貰っている。
職場についた所でチーフの白石に挨拶をした。
「おはようございます」
「ああ、おはよう未橙さん」
白石はすでに白衣に着替えていた。彼女は私服でいることの方が珍しくほとんどが仕事着のままだ。だが彼女の制服に皺が入っている所は見たことがない。
「今日は一件だけ。場所は別館になっているわ」
「了解です、何時ごろ向かったらいいんでしょうか?」
「一応11時となっているけど。いつも通り早めに待機しておいて」
「わかりました」
未橙の担当は明善社と呼ばれる斎場だけだ。この湯灌会社サンライズは複数の葬儀社を掛け持ちしている。それだけに仕事も多く葬儀場によって担当が決まっている。
「それと未橙さん」白石がディスプレイから目を背け雪奈を見た。「前回の顧客からとっても評判がよかったわ。何かあったの?」
「いえ。大したことじゃありません。故人様がクラシックをやられていたみたいで、喪家の方と話があっただけです」
「そう」チーフは頷いてから再びディスプレイに目を戻した。「結局はコミニケーションが一番だからね。この調子でよろしく頼むわよ」
「はい。頑張ります」
……チーフに褒められるとは珍しい。
雪奈は内心嬉しかったが表には感情を出さずにいた。故人からクレームが届くことはあっても感謝の言葉が出るのは稀だからだ。目の前では感謝の意を表す人がほとんどだが裏では陰口を叩かれる。そのため必要以上に礼儀・配慮に気を配らなければならず、感情を表に出す暇などなかった。
「未橙先輩、おはようございます」
後輩にあたる桃瀬が挨拶にきた。彼女は先月入ったばかりの研修生だ。
「ああ、おはよう。今日は遅刻しないで来れたみたいだね」
「当然です」桃瀬は唇を尖らせて反論する。「今日は準備万端ですよ。ちゃんと忘れ物がないようにチェックもしましたし」
彼女は今年成人したばかりの新入社員だ。感情が表に出てしまうことが多々あるが、元気だけは人一倍あり愛嬌もいい。今は雪奈の助手として働いている所だ。
「そうそう。いい忘れていたけど」チーフが突然声を上げた。「今日は桃瀬さんの歓迎会があるからね。未橙さん、大丈夫?」
「ええ、いいですよ」雪奈は静かに頷いた。正直にいうと行きたくないがコミニケーションが大事といわれた後で断わるのは気まずい。
「本当ですか、よかったぁ」桃瀬が目を丸くして喜んでいる。話相手が雪奈しかいないからだろう。「今日は楽しくなりそうですね」
「浮かれるのはまだ早いよ。今から仕事に向かうんだから気を引き締めないと」
「もちろんわかってますよ。今日もよろしくお願いします」そうはいうが彼女の口元は緩んでいる。
浮わついた桃瀬に釘を刺しながら顧客先のデータを覗いてみる。
名は申塚圭吾。30歳の男性と書かれてある。
雪奈は目を疑って用紙を見た。だが見間違えではないらしい。
「うわぁ、若いですね」
「そう……だね」
再び用紙を眺める。やはり申塚と書かれてある。
頭の中にその人物が想像される。まさか本当に彼が亡くなったのだろうか。
「ああ。その人、病死だから」不意にチーフがキーボードを叩きながら告げた。「くれぐれも粗相がないようにお願いね」
改めてデータを覗く。どうやら心臓病で亡くなったようだ。既婚の所には丸がついている。きっと喪主は故人の両親か故人の妻に違いない。
喪主の名には中酉花織と書かれてあった。その名を見た瞬間に雪奈の胃が突然キリリと疼き始めた。
どうして彼の方が亡くなっているのだろうか、という疑問が浮かぶ。彼は病気などなかったはずなのに。
それにどうして彼女と……。
「あ、ここ見て下さい。既婚になってますよ」桃瀬は唇を舐めて吟味するようにいった。「きっと奥さんが喪主をするんでしょうね。何だか切ないなぁ。私達がお着替えをしている最中に泣いちゃうかもしれませんね」
心臓の鼓動が激しくなる。年を考慮した上で想像しても、やはりあの人物で間違いない。
雪奈がズボンを脱いだ所で桃瀬が声を上げた。
「私だったら、構わず泣いちゃうだろうなぁ。きっと新婚だったに違いないし。そう考えると切ないですよね」
心臓が一段と早く動いた。彼女に会うことを考えると億劫だが、彼女の歪んだ顔が見れると思うと自分の心は高鳴っていく。
この気持ちは彼が亡くなっているからなのか、それとも彼女の反応が気になるからなのかはわからない。頭の中では考えが纏まらず不純物が浮かんでは沈んでいく。
だが仕事は仕事だ、きちんとしなければまた職を失ってしまう。
「準備はできたんだろうね? そろそろ向かうよ」
「あ、ちょっと待って下さい」桃瀬が慌てて上着を着替えている。下着もはみ出したままだ。「まだ携帯の充電が済んでないし。ああ、もうちょっと待って」
桃瀬に構わず作業車・ハイエースの所に向かった。運転席に乗り込んでもう一度用紙を確認する。やはり花織と書かれてある。いいようのない感情が自分を包んでいく。胃の痛みと心臓の動きで押し潰されそうになる。
「先輩、待って」
雪奈は慌てて彼女の顔を見た。だがそこには桃瀬の顔しかなかった。
「どうしたんです、未橙先輩? そんなに驚いて」
「いや、何でもない」
……どうしてあいつの顔ばかりが浮かぶんだ。
愛用のセブンスターに火を点け心を落ち着かせようとする。だが心臓の高鳴りは収まる所かさらに加速していく。
あいつとは縁を切ったはずなのに、どうして――。
「携帯はちゃんと持ったかい?」
「はい、大丈夫です」
――先輩なら、大丈夫ですよ。
桃瀬の表情から彼女の影が見えてしまう。幻聴が頭の中を空転する。会社のカレンダーに書かれてある『風花雪月』の文字が頭の中に侵入し形を変えていく。
――先輩。私達は月の光さえあれば紲がっていられるんですよ。『風花紲月』ならどこまでも――。
憶測が自分の胸を覆い浸透していく。今は事実確認が先だ。行かなければ確認しようがない。
「よし、じゃあ出発するよ」
子供のように何度も頷く桃瀬を目の端で捉えながら、彼女はドライブにギアを入れた。使わない左足はガタガタと震え続け目的地に着くまで止まることはなかった。