第三章 『花弔封影』 PART12
12.
「久しぶりね、黄坂さん。未橙で構わないわ」
千鶴は目の前の女性に視線を合わせた。その女性は前と劣らず美しい姿のままだ。
「本当に久しぶりね。あら、お花を届けてくれたの? 睡蓮の蕾が入っている」
彼女の視線がアレンジメントに向かう。
「そうです。何でも未橙さんは睡蓮がお好きだそうで」
「うん、夏場は花が持たないけどこれは好きだわ。黄坂さん、ちょっといいかしら」
未橙はこちらに手を拱いている。
何だろう。今の話を聞かれたのだろうか。そうだとしても過去のことだ。今現在彼に対して恋心はないし、あったとしても自制できる自信がある。
病室を出て休憩室に入る。未橙は目の前にあるソファーに腰を降ろした。その横を叩いて促している。
「どうされたんです? まさかとは思いますけど、私、先生のことを奪おうなんて」
「……そうじゃないの」未橙は一言でこの場の空気を切った。「あなたたちが久しぶりに会ったことは知っているわ。私のお願いはシンプルよ。あの人をあなたのいる集中病棟に入れて欲しいの」
「でもあそこは……」主に看取りとする場だ。それは死を宣告することになる。彼の体が持たないことも理解しているが、それは彼女の一論では容認できない。
「いいの、あの人の体はもう限界なのよ」未橙は息を呑んで答えた。
「ずっと見てきたからわかるの。私も最後はあなたの所がいいと思ってたのよ」
力なく微笑む未橙にいいようのない焦燥感を覚える。やはり彼女も知っていたらしい。
「……いつからご存知だったんですか」
「5年前。ちょうどあなたに初めて出会った時くらいよ」
「えっ。あの時からですか?」
千鶴は動揺を隠せなかった。彼女のいうことが本当なら結婚する前から彼の状態を知っていたということになる。それならばどうして彼と一緒になろうと考えたのだろう。
千鶴の疑問を余所に未橙は力なく続けた。
「彼はいつも冷静に振舞っていたけど、心の中では不安でいっぱいだったの。胃を削っても削っても癌が出てくるんだから。彼の年で癌に掛かれば直らない。それでも私は黙ってみているしかなかった」
「血圧がかなり高めでした。それに肝臓の機能も大分低下しています。午代先生は毎晩、お酒を飲まれていたんじゃないですか?」
「ええ、そうよ」
「生活習慣を正せば少なくとも延命はできます。これから頑張っていけば改善の余地はあります」
「……それは無理ね」
未橙は一喝するように答えた。軽く怒りを覚える程にだ。
「どうしてですか」
剣呑な目つきで睨むと未橙は肩を竦めた。
「お酒は英四郎さんにとっての安定剤だからよ。もちろん何度も止めたわ。でも止めさせることはできなかった。加減することが精一杯だったのよ」
午代が酒に溺れる姿など想像できない。何が彼の精神を不安にさせていたのだろう。
「どうして、午代先生が……」
「思い出を壊してしまうかもしれないけど……」未橙の声は躊躇いがちに低いものへと変わっていく。「あなたたち、陸上部の姿を見ることが辛かったのかもしれない」
え?
頭に金槌で殴られたような衝撃を受ける。
「英四郎さんが走れないことは知っているわよね?」
「ええ、知ってます。それが原因で陸上を止めたことも」
教師になって教え子をバックアップしようと思ったことも知っている。
「英四郎さんはね、本当に不器用な人なのよ」未橙は苦笑いを浮かべながら続けた。「自らコーチを志願して自分が走れないことに葛藤していたの。普通の人なら避ける所を彼は遭えて近づこうとしてしまうのよ。だから彼は毎日お酒を飲んで気を紛らせていた」
午代の飄々とした態度が形を変えて無惨に消えていく。
千鶴は何となく理解できていた。彼の練習メニューは全て理詰めだったからだ。そこには一切の感情を封印して生徒のためを思ってやっていたのだろう。
しかしそれが自らの歪みを作り出してしまうことにもなっていたとは思わなかった。
「少しくらいなら大丈夫と思っていたんだけど、午代さんはお酒を分解する力が弱いらしくてね。彼の胃はさらに悪化してしまったの。胃の痛みに気づいた時にはすでに腫瘍ができていたの」
「そうだったんですね……」
午代のストイックな姿勢が蘇る。彼は顧問としても揺れていたのだ。そんな中、自分の問題にも適切に対応してくれた。その精神力の強さには頭が上がらない。
「あの時はね、何度も教師を辞めようと思っていたのよ。でもあなたが陸上部に入ったから、彼は昔に戻ったように活気付くことができたの」
そういえば黒崎も同じようなことをいっていた。午代のやる気が増したのは自分が入ってからだと。
「あなたがいたから、英四郎さんは救われたの。あの時の英四郎さんは本当に楽しそうだった……」
未橙は懐かしむように笑みを零す。その姿に暗い影はない。
「大庭先生から電話があった時は本当に驚いたわ。彼が倒れたと思ったから」
今になってつっかえたものがぽろりと取れる。あの時の未橙は午代の様態を心配していたのだ。その様子は明らかに不自然だった。
「それであの時、午代先生が保健室にいないのかと尋ねたのですね」
「そうよ、よく覚えてるわね」
それだけではない。あの時、未橙は午代との愛は決してなくならないといった。それはすでに彼に寄り添うことを決めていたからだったのだ。
「先生は……本当に不器用な人なんですね」
「ええ、だからあなたには向かないと思ったの。不器用な人には私みたいな器用な人じゃないと上手くいかないわ」
意地悪く未橙は口角を上げた。だがその表情には哀愁が漂っている。
――彼には一つの未来しかない。
あの時の未橙の言葉が蘇る。午代はどれほどの不安を纏いながら拭い冷静に教師として職務を全うしたのだろう。平然と笑う午代の中に静かな影が浮かんでは儚く消えていく。
突然、未橙は立ち上がり大きく頭を下げた。
「辛いだろうけど、彼の最期を見てあげて下さい。これはあなたにしかできないことなの」
彼女の迫力に押されてしまう。あの時と同じ瞳だ。強くて芯があるまっすぐな瞳。熱を帯びた視線に焼き焦がれていく。
「わかりました。私でよければお手伝いさせて下さい」
……今度は本心だ、この気持ちは絶対だと確信できる何かがある。
千鶴も大きく頭を下げた。午代のためだけでなく未橙のためにも力になってやりたい。彼女がいたからこそ私は彼への思いを振り切ることができた。新しく前に進むことができた。
「ありがとう。あなたならそういってくれると思った」
未橙はほっと吐息を漏らした。だがそれが溜息ともとれるほど彼女の表情は憔悴しきっていた。