第三章 『花弔封影』 PART9
9.
「じゃあね、千鶴」
「うん。また明日」
仕事を終え黒崎に別れの挨拶を済ませた後、千鶴は自宅に戻ることにした。
今日の千月は本当の千月だ。スケジュールをきちんと確認しておく。一度のミスで彼女の人格が消える可能性があるため、確認は念入りにしておかなければならない。
……確かお姉ちゃんは今日休みだったはず。
駐車場を見ると彼女の車があった。どうやら新たな件数は発生しておらずそのまま家にいるらしい。
千月の部屋をノックする。いつも通り返事は帰ってこない。二回目のノックに彼女の方からドアが開けられた。
「お帰りなさい。どうしたの?」
千月の右腕を確認すると時計が巻かれていた。今日は間違いなく千月のはずだ。それなのに妙な感じを受ける。
「今日は……」
その先の言葉が出ない。本当にお姉ちゃんなの? と訊きたかったが、仮に千月だった場合、妙に勘繰られる恐れがある。千鶴が黙っていると千月の方から声が上がった。
「うん、千月さんじゃないわ。途中で入れ替わってしまったの」
やっぱり、という言葉は飲み込んだ。千月の感覚がほとんどなかったからだ。彼女ならばもう少し顔に表情が出るはず。それなのに姉の顔からは一切の感情が漏れていない。
「そう、なんだ……」
「どうやらラジオ番組であの曲が流れちゃったみたい」
あの曲とはドビュッシーの『月の光』だろう。彼女達の入れ替わりはこの曲が関係している。
「じゃあお姉ちゃんはまた一ヶ月お預け?」
「そうなるわね」
それならそれで仕方がない。味付けを変えればいいだけの話だ。だが千月に会えないのはやっぱり寂しい。
「そっかあ、お姉ちゃんが好きな食材ばかり買ってきたんだけどな」
「それは残念ね。でも千鶴ちゃんが作ったものは何でも美味しいから、特に気にしないわ」
ゆかりは当然のようにいう。その言葉を毅然としたままいえる姿が妙に美しく見えてしまう。
早く話題を変えたい、そうでなければ自分の家なのに居場所がなくなってしまう。
「……そういえば今日はちょうど中間地点になるといってたね」
紫蘇の葉をくるんだカツを揚げながらいった。これはどちらも好物のものだ。
「そうね。千月さんにとっても私達にとってもこれでようやく半分になるわ」
当たり前に過ごして来ているが千月とは時間の流れが違う。その中で気兼ねなく話せるのは今日だけだったというのに。千月に聞きたいこともたくさんあった。
しかしそれは千月として本当の人格に戻れば、いつでもできることだ。今は彼女との時間を大切にしたい、という思いの方が強い。
「ゆかりさんはさあ、今日何をしていたの?」千鶴は気を立て直しながら訊いた。「時計の修理以外でね。お休みの日くらい好きなことしないと駄目だよ」
「もちろん修理だけじゃないわ。今日はこれを読んでたの」ゆかりは栞が挟んである本を取り出した。タイトルは英語でWuthering Heightsと書かれている。日本語で訳せば『嵐が丘』だ。
「また古い本を読んでいるのね。私も読んだことがあるよ。もちろん日本語のものしかないけどね」
この本の主題は『裏切りの愛』だ。激しい愛憎描写や荒涼たる自然描写は中々真に迫るものがある。そ
れを英語版で読めるなんて純粋に凄いと思う。
「そうなの? やっぱり千鶴ちゃんとは気が合うわね」ゆかりは嬉しそうに微笑んだ。「もう三回目になるの。いつかイギリスに行ってこの光景を見てみたいと思っていたんだけど、結局叶うことはなさそうね」
ゆかりは自嘲気味に笑った。その言葉に何と返していいのか戸惑う。
食事をテーブルに載せる。千鶴も椅子に座ると、ゆかりはささみカツを一口頬ばった後、尋ねてきた。
「千鶴ちゃんがもし私の立場だったらどうする?」
「お姉ちゃんと入れ替わりだったらってこと?」
「うん」
「そうねぇ」千鶴は眉根を寄せた。「私だったらきっと元の自分に戻ろうとするだろうなぁ。だって自分のことを誰も知らない世界なんでしょ? 意識があっても自分とは認めて貰えないって辛いと思う」
「そうでもないわ」ゆかりは小さく首を振った。「最初は慣れるのに大変だったけどね。でも慣れてしまえば平気。今はこの日常が私の世界になってしまってる」
「お姉ちゃんとは元々繋がりがないんだよね?」
「そうよ」
「……やっぱり理解できない」
千鶴が小さく溜息をつくと、ゆかりは鋭い視線を寄せた。
「繋がりがあれば、同情して彼女の代役を続けられると思う?」
「うん。そう思う」
もし千月になれるのならそれでもいいと思う自分がいる。そうなれば彼のことをもっと深く知ることができるからだ。
「……逆よ」
彼女は右手の人差し指と親指を回転させなかがらいった。
「全く接点がなかったから、続けられるの。別の人格になったんだって切り替えられるからね。これがもし知ってる人だったら私は続けられないと思う。どうして元の自分に戻れないのだろうって永遠に考え続けちゃうから」
なるほど、千鶴は心の中で納得した。いわれて見ればそうかもしれない。自分は違う人間になったのだと考えればスムーズにいくのだろう。ましてこれが少しでも知っている人に乗り移っていれば、どこかに自分の形跡を探し続けてしまうのかもしれない。
「それにしてもお姉さんに会えなくて残念ね」ゆかりは呟くようにいった。「また一ヶ月延びちゃったね。話したいことはたくさんあったんじゃない?」
「うん、確かにそれは残念だけど。ゆかりさんも私のお姉ちゃんだから寂しくないよ。こんな風にいったら怒られるかもしれないけど……お姉ちゃんっていうかお母さんにも似てるかな」
「お母さんに?」
「うん。お母さんに」千鶴は箸を置いてリビングの端を指差した。そこには家族四人で映った写真がある。「お母さんもね、時計の修理ができたの。お姉ちゃんが時計の専門学校に行ったのもお母さんの影響だから。二人していっつも機械いじりをしていたの」
「……ふうん」ゆかりは冷静な眼差しを浮かべながら食後の紅茶を啜った。いつも彼女の方が食べるのは早い。「どんな人だったの? 千鶴ちゃんのお母さんは」
「ゆかりさんみたいに物静かな人だったな。味付けも和風のが好きだったし。でもちょっとだけタイプが違うかも。お母さんはどちらかというとおっとりしている感じだったの。のんびり気ままに散歩してそのまま買い物に行っちゃったりするんだよ」
「そうなんだ」
「会いたいなぁ」千鶴は小さく呟いた。「一度だけでいいから、会いたい。会って今の私を見て欲しいなぁ。頑張ってるっていう姿を見せてお母さんに認めて貰いたいよ」
「お母さんのことが本当に好きだったのね」ゆかりは柔らかい笑顔を浮かべながらいった。「願っていればきっと会えるわ。それだけの思いがあれば、きっと」
「本当にそう思う?」
「うん。幽霊の私がいうんだから間違いないわ」彼女はぽんと胸を叩いた。
ゆかりの冗談は少しだけきつくて笑えない。千鶴は苦笑いを浮かべながら話題を変えた。
「……やっぱりゆかりさんはあの人の方が近いかも。私の好きな人に似てるんだ、ゆかりさんって」
「好きな人ってもしかして女の人?」ゆかりは口元を緩めながら訊いた。「別に答えたくないならいいわ。私には関係のないことだし」
「……男の人よ」千鶴は手を振って真顔で答えた。「実はね、お姉ちゃんの彼氏が好きだったんだ」
ゆかりの端正な顔が少しだけ歪んだ。頬が振るえ強張っているようにもみえる。
「お姉ちゃんの彼氏っていうことは……」
「そう。亡くなった志遠さん」
ゆかりはそのまま固まった。目は見開かれており箸を持ったまま静止している。
「もちろんお姉ちゃんにもいってないし、その人にも気持ちは伝えてないよ」
食事中にするような話ではないなと千鶴は自重した。誰だってこんな話をいきなりされたら驚くだろう。
「ただなんとなく居心地がよかったっていうだけ。透明感があって純粋な人だった」
「……ふうん」彼女は再び料理に箸を伸ばしていた。だがそれは彼女があまり好まない洋風に味付けしたものだった。
「そうなんだ。そういうこともあるのね」
どうしたのだろう? いつもの彼女なら質問攻めにしてくるはずだが、その様子はない。
千鶴は自ら思いを述べることにした。
「志遠さんが勤めている時計店にも行ったことがあるんだけどさ、それがまた落ち着くの。時計の針の音しか流れてないんだけど、とってもいい所だった。何だかそこだけ別世界にいるような感じだったの」
「千鶴ちゃんはさ、それだけで好きになったの?」
急な質問に千鶴は固まった。
「んー、やっぱりあれかなぁ。お店でお姉ちゃんに紹介して貰ったんだけどさ、お姉ちゃん、彼のことを恋人だっていわなかったの。その時はすでに付き合っていたみたいなんだけど、ただの職場の人って感じでね。それで彼のことを気兼ねなく見ているうちに……」
思い返すだけでも体が熱を帯びていく。彼はこの世にいないというのにだ。志遠は自分にとって憧れの存在だった。
志遠の時計に掛ける情熱は凄まじかった。一辺してクールな彼だが時計の話になると留まることを知らない。千鶴が相槌を打ちながら次々に質問していくと、彼は正確に部品の特徴を告げ丁寧に説明してくれた。その理論は今でも千鶴の胸の中に納まっている。
午代に感情の大切さを教えられ、志遠に理論の素晴しさを教えて貰った。二人とも夢を持ち前だけを向いて進んでいる。
自分も同じように前に進んでいきたい。その思いが恋心と共に膨らんでいく。
千鶴が続きを話そうとすると、彼女は手を合わせ御馳走様、といった。
「本当に美味しかった。また作ってね、紫蘇のささみかつ」
「うん、もちろん」
ゆかりは壁掛け時計を見て足早に立ち去っていく。その視線は冷ややかで、流れている時までを凍結させるようだった。
食卓を見て、千鶴はいつもの彼女にしては食べる量が少ないなと思った。
やはり千月の好みと彼女の好みは違うのだな、と納得した。