第三章 花弔封影 PART6
6.
7月7日。
千鶴は患者のチェックを終えた後、午代の病室に向かった。彼は昨日から検査入院で病院に来ている。前回の健康診査で引っ掛かった所があるらしい。
「よう黄坂」病室に入ると午代は爽やかに笑った。その顔には余裕が見える。
「調子がよさそうですね、先生」
「ここで先生は止めてくれよ、何だか恥ずかしい。普通に苗字で呼んでくれ」
「じゃあ午代さんでいいですか?」
「そうだな。そっちの方が自然だ」
検査入院だというのに不安の色が出ていない。やはり午代は精神的にも強いらしい。機械による不具合の可能性があることは伝えてあるが、それでも普通ならば何か悪いのだろうかと気になって質問してくるものだ。
だが彼の心は穏やかなようで休みを満喫しいてるようにさえ見える。
「後は検査の結果だけですね。どうです? たまには病院で休むのも悪くないでしょう?」
「そうだなぁ」彼の視線は宙に向いた。「何もすることがないっていうのも、たまにはいいかもな。学校じゃ色々と面倒ばかり起こるからな」
「先生、それは皮肉と受け取っていいんでしょうか?」
「ああ。そうとって貰っても構わない」
……まったくこの人には敵わない。
千鶴が肩を竦めてみせると午代はつられて自然と笑みを零していた。
こんな日がやってくるなんて思いもしなかった。千鶴は再び午代との思い出を反芻した。恋愛感情抜き
にして純粋に話を楽しめる余裕が持てるなんて、あの頃は考えることはできなかった。
あの頃はただ彼のことを考えるだけで胸が熱くなり、感情が昂ぶっていた。その日彼と話した内容を思い返しながら、一挙一動に喜んだり落ち込んだりしながらずっと彼のことだけを考えていた。
それが今では遠い過去として自然と話すことができている。
「先生、覚えてます? 私のために道徳の授業をしてくれたこと」
「覚えてる。だけど、お前のためだけじゃない。クラス全員に必要だと思ったから、やったんだ」
そういいながら午代は千鶴に挑戦的な言葉を投げかけてきた。第三者から見てもあれは行き過ぎた範囲に入るだろう。あの時のイメージが鮮明に浮かぶ。
「そういえばあの時もそんなことをいってましたね」
「当たり前だ。でなければ自分の授業を潰してまでやらないよ」午代はそういって頭を掻いた。「っていうのは結果論に過ぎないな。実際そこまでは考えていなかったと思う。ただやらなければならないと思ったから、やっただけだ」
本当に不思議な人だ。何も考えてないようでいつも正しい道へ導こうとする。彼にとって教師というのは天職なのだろうなと改めて思う。
「そうだ、黄坂。ここにラジオはあるか?」午代がきょろきょろと辺りを見回して訊いてきた。
「ええ、一応ここにあります」
千鶴が指で差すと午代はスイッチを触り始めた。
「そろそろ始まる頃だ。ちょっとだけ点けさせて貰う」
この病室には午代以外いない。検査入院の患者ばかりが集っているため皆検査に出払っているらしい。彼は周りに人がいないことを確認しながらスイッチを点けた。するとピアノを演奏する音が流れてきた。
「先生がピアノに興味あるなんて知りませんでした。クラシックが好きなんですか?」
午代は目を閉じながら首を振った。
「いや、ほとんどというか全くない。わからないというのが正しいかな」
「じゃあどうしてわざわざ演奏を聴くんです?」
「今日は嫁が演奏するんだ」
そういって午代はラジオに耳を近づけた。一つの演奏が終わった後、彼はゆっくりと口を開いた。
「彼女のお兄さんが事故で亡くなってね。それを追悼するコンサートが今日開かれているんだ。嫁もゲストとして演奏するらしい」
「へぇ、凄いですね」
それでは次の演奏に移ります。
今回だけのために結成された特別ゲスト・風花雪月のメンバーです。
優しい音色に二人とも耳を澄ました。
一度演奏が終わると、司会者が追悼の言葉を述べ始めた。何でも今回の演奏タイトルは『カチョウフウエイ』となっているらしい。
「先生、花鳥諷詠って確か俳句の理念みたいなものですよね?」
「ああ、そうだ。だが今回は字を変えているらしい」
そういって午代は『花弔封影』と書いた。
「花で弔いあなたの影を封じますって意味だそうだ。お兄さんの奥さんが主催者らしくてね。きっと彼女の言葉を代弁したものなのだろう」
……花で弔いあなたの影を封じる、か。
千鶴は自分の気持ちを反芻した。きっとこの人は最愛の人を亡くして絶望に打ちひしがれたのだろう。それでも前に進みたくて懸命に奮闘しているに違いない。
私の中にも一つの影が澱となって残滓を残している。
その影が現実か夢なのかはまだ区別がついていないけども――。
「黄坂、今相手はいるのか?」
「え? どうしたんですか。いきなり」千鶴は慌てふためき体を仰け反った。「今の所はいませんけど」
「そうか、もてそうなのになぁ。好きな人くらいはいるんだろう?」
「ええ、一応います」
「おお、そうか」午代の表情がぱっと明るくなった。「どんな奴なんだ? 教えてくれよ」
「先生とは間反対の人です」
「それじゃわからない。きちんと教えてくれよ。誰にも話さないからさ」
午代とは共通の知人などいない。検査病棟に同期の黒崎がいるがそれくらいだ。それなのに彼は子供のように尋ねてくる。その姿が妙に愛らしい。
「そうですねぇ、一言でいえばクールな人です」
「えっそんな男がいいのか? あれだけ熱い感情を持っていたお前がねぇ。何だかぱっとこないな」
「もちろんそれだけじゃ好きになりませんよ」
千鶴は弁解するように続けた。
「見た目は涼しそうな人なんですが芯は熱いんです。表には出ないけど心の中では誰にも負けないって感じでいつも難問に挑戦しているんですよ。その姿を見ているとつい応援したくなってきちゃうんです」
「おお、それはいいな。それでそいつとどこまで進んでいるんだ?」
「それは秘密です」千鶴は唇に人差し指をつけた。これ以上話してしまうと自分の方が抑えきれなくなってしまう。「進展があればその時に話すということにしましょう」
「つまらんなぁ」
「先生に話しても面白くないですよ。そういうのには疎いですから」
「どういう意味だ?」
「……あの時」
千鶴は息を吸い込んだ。そして午代の瞳をゆっくりと覗き込む。「先生はどう思っていたんです? 私がしたことは愛情表現だと気づいていました?」
「気づいてはいたさ。ただ本気ではなかっただろう?」
「それはわかりません。私の中で感情が爆発したのはあれが最初でしたから。自分の気持ちなんてまるでわからなかったんです。ただ思ったことを先生に伝えたかった、それだけです」
「おいおい。体育倉庫に連れ込んでおいて、よくいうよ。俺は仕事を奪われる寸前だったんだぜ?」
「でもあの時、先生は自分から言い訳をしようとしなかった」
そう、あの時。千鶴は苦笑いを浮かべながら思い返した。
無茶を通した行動が本当の愛だと信じてたあの頃を――。