第三章 花弔封影 PART2
2.
6月6日。
病院の外に咲いている紫陽花が雨に濡れて艶やかに光っている。黄坂千鶴はいつも通り担当の患者の様子をチェックしボードに書き込んでいった。
千鶴の担当は今の所、一人だけだ。10階の特別病棟の患者が亡くなったため、彼女は元の集中病棟に戻っていた。見取りが専門だということもあり一般病棟の受け持ちと比べると明らかに人数が少ない。
今日も異常なし、と。彼女は担当の患者の状態をボードに書き加えた後、ナースセンターに戻ることにした。
「黄坂さん、手開いてる?」主任の岩崎が声を上げた。
「はい、ちょうど今担当の患者のチェックが終わった所です」
岩崎が眉根を寄せている。この顔は何か頼みをする時の表情だ。
「そう。それじゃちょっと仕事を頼んでいい?」
「ええ。何でしょう?」
「実は今日、健康診断の数が多くてね。ちょっとそっちの方を手伝って欲しいのよ。脈を計ったりするだけだから大したことはないわ」
「わかりました。隣の病棟に行けばいいんですね」
「うん、お願い。助かるわ」
検査病棟は入院病棟とは別の建物にある。主に健康診断などで用いられている病棟だ。
千鶴は傘を差して隣の病棟へ向かうと、大柄な男が目に入った。
「おっ黄坂じゃないか」男はこちらに笑顔を見せた。「久しぶりだな。元気にしているか?」
「午代先生、お久しぶりです」千鶴も満面の笑みで応対した。「元気ですよ。先生の方も変わりないようですね」
「当たり前だ。元気だけがとりえだからな。俺から健康を取ったら何も残らない」
「知ってますよ、わざわざいわなくても。今日は健康診断に来られたんです?」
「まあ、そんな所だ。それにしてもお前もこの病院だったんだな」彼ははにかみながら千鶴に視線をやった。「ナース服もなかなか様になってるじゃないか。似合ってるよ」
「先生。今は看護師っていうんですよ。そういう言い方は差別になります。気をつけて下さい」
「おお、そうだったな」彼は頭に手をやり少し気恥ずかしそうに微笑んだ。
こんな所で出会うなんて。
千鶴の心は妙に高揚していた。いつもの病院に高校時代の担任がいるだけで別次元にいるみたいだ。緊迫した空気が安らいでいくのがわかる。
「先生、もう健康診断は終えられたんです?」千鶴は時計を見上げた。今は11時。診断を手伝うといっても昼食を食べる時間くらいはあるだろう。
「ああ、今終わった所だ。13時からまた何か取らなきゃいけないみたいだが」
「昼からまたあるんですか?」
千鶴は彼の顔を見て訝った。午代の年齢なら午前中で終わるはずだ。何か問題があったのだろうか。
「ああ、午前中はバリウムを飲んだんだ」
「バリウムですか? でも先生、バリウムは40歳以上の方からですよ。わざわざ飲まなくても」
「自分で志願した。ほとんどの人間は嫌いらしいんだが、俺はあれを飲むのが好きでね。追加でお願いして貰ったんだ」
「なるほど」千鶴は小さく吐息をついた。それならどこか悪いという話ではなさそうだ。「ということはそれまで病院で過ごさないといけないんですね」
「うん。どこかで飯でも食べようと思っているんだが、いい場所を知らないか?」
「そうですね、いい所を知っているんですけど、ちょっと待ってて貰えませんか」
「ん?」
千鶴は病棟を指差した。「先にお昼取れるか聞いてきます。とれそうだったら一緒に食べません?」
「お、いいね」午代は指を鳴らして微笑んだ。「実はここに来るのは初めてでね。それじゃあちょっと待ってようかな」
午代を置いて検査病棟の受付を覗くと黒崎がいた。彼女なら話がわかるはず。千鶴は彼女の元に手刀を切りながら駆け込んだ。
「ねえ、いきなりで申し訳ないんだけど、先にお昼行っていい?」
「いいよ。理由はわかってるしね」黒崎は名簿を見てうっすらと笑った。「午代先生でしょ。さっき検査が終わったからばったり会ったんじゃない?」
「あたり」千鶴はにんまりと微笑んだ。「じゃ、先に行ってくるね」
「はいはい。あんたも懲りないわね」
振り向くと黒崎の口元はまだ緩んでいた。
「ただ懐かしいだけよ。それに私、他に好きな人いるから」
「はいはい、そうだったわね」
そうはいうが黒崎の目は疑っている表情だ。きっとその相手の話をしていないから冗談だと取っているのだろう。
ここでその話をしている暇はない。彼女はそのまま振り返らず午代の元へ向かった。
午代と共にお勧めの蕎麦屋へ寄る。病院から少し距離があるが、隠れた名店でここのぶっかけ蕎麦が中々美味しい。黒崎とよく来るいきつけの店だ。
二人とも同じものを頼むと、午代が先手を切った。
「どうだ、黄坂。仕事は楽しいか」
「ええ。最近やっと慣れてきました」
「そうか、それはよかったな」
午代は笑顔で茶を啜った。その姿に昔と変わらない面影を感じる。
「先生の方は本当にお変わりないようですね。そういえば、同じメニューでよかったんです?」
頼んだメニューは二人とも普通盛りだ。午代ならさらに丼ものを頼んでもいけるだろう。
「ま、見た目は変わらないけどな。俺もお前と同じように年を取ったんだ。昔のようには食べられないよ」
そういって午代は腹を軽く叩いた。引き締まった肉体は同じでも胃の方は小さくなったらしい。
「……そっか。もう3年も経つんですね」
高校を卒業して3年の月日が経つのについ先日会ったかのようだ。彼だけ時間が止まっているのではないかとさえ思ってしまう程に。
「そういえば奥さん、お元気ですか?」千鶴は声を抑えていった。「前回会った時は本当にご迷惑を掛けて。すいませんでした」
「そういえば、そんなこともあったなぁ」午代は大袈裟に笑って顔をくしゃくしゃにした。「お前も気にすることはない。若気の至りってことにしておこう」
千鶴は彼の表情を見てほっと胸を撫で下ろした。午代とは円満に解決しているのだが、彼の妻と一悶着あったのだ。その後彼女とは一切連絡をとっていない。
「本当にあの頃が懐かしいですね。でも私、全く後悔なんてしていません。あの時は本気でしたから」
「おいおい。止めてくれよ。今度また何かあったら、その時はただじゃ済まない。この年で仕事も家庭も失うなんてごめんだからな」
「大丈夫です」彼女は口元を緩ませていった。「私も二十歳を越えていますから。そんな感情があったとしても、押し切ったりはしません」
「黄坂……」
「冗談です」彼女は少しだけ舌を出した。「もう先生にちょっかいなんて掛けませんよ。私は仕事に生きるって決めたんですから」
「本当に頼むぞ。お前にその気がなくてもあっちはまだ根に持ってるかもしれんからな。くれぐれも穏便に頼む」
「了解です」
彼女は頷いた後、再び高校時代を思い返した。
「それにしても本当にあんな時代があったんですね。何だか遠い世界にいたみたいな気がします」
「誰だってそうだよ」午代は口元だけ緩ませた。「俺にだってあったんだ。誰でも通る道だ。お前だけじゃない」
「そうですね」
午代がいたからこそ、今の自分はいる。
千鶴は彼の笑顔を見て確信した。彼がいたからこそ両親の仕事に誇りを持ち、また自らの道を決めることができたのだ。その恩師に出会うことができるなんて今日はなんていい一日だろう。
話が盛り上がってきた最中、ぶっかけ蕎麦が到着した。
「お、ついにきたようだ。頂こうか」
「そうですね」
千鶴はにっこりと微笑んで箸を取った。