第二章 月運花馮 PART7
7.
「遅いぞっ。たった一つの祭壇でいつまで掛かってるんだ。早く帰ってこんか」
店に戻ると、嵐が仁王立ちをして待っていた。顔には怒りの形相が張り付いている。
「遊んでたわけじゃねえよ」
凪は思わず腰を丸めた。薬局に寄ったとはいえない。いつも嵐に向かってうるさいぞと非難の声を浴びせているからだ。
「当たり前だ、それでも遅いといっているんだ。写真を撮ってきたんだろう、早く見せろ」
凪が携帯で写真を見せると、嵐はすぐにコピー機で拡大を始めた。その写真を見て難癖をつけるのがいつものやりとりだ。果たして今日はどこを攻めてくるのだろうか。
「ここのラインが曲がってるぞ。それにここの菊、花が表を向いてないからガタガタになっている。きちんと合わせてないから、ここからずれているんだ」
やはり菊のラインだ。嵐の眼で見ればまだ曲がっているようにも見えるのだろう。
凪の反論を待たず嵐は畳み掛けてきた。
「そもそも最初と最後の菊があってないから、直線になっていないんだ。何度も確認しろといってるだろう」
改めて拡大写真で確認してみると、大きいもので見ると微妙なズレが生じていた。だがほんの些細なズレだ、素人にはわからない。
「いいじゃないか、これくらい」
「ふざけるなっ」
嵐は一歩踏み出して叫んだ。
「お客さんがわからないからといっても花屋の眼はごまかせんぞ。今日の弔い客の中に花屋がいてみろ。そいつらの眼はごまかせん。明善社の腕は落ちたと思われるんだ」
確かに嵐の祭壇と比べれば一目瞭然だ。菊の一本一本の間隔にもムラがあるし、花向きがズレている所もある。葬儀の花屋が見れば違和感を覚えてしまうかもしれない。
だが今は四月だ。この忙しい時期に花屋がわざわざ祭壇を見に来るはずがない。そもそも早く帰って来いといったのは嵐だ。仕事が詰まっているからこそ、急いだというのに。
「なんだその顔は? 何かいいたいことがある顔だな」
「……いや、何でもないよ。親父のいう通りだ」
自分の理想とする祭壇には程遠い。初志貫徹だと凪は思い直した。あの時に誓ったものにはまだ達していない。
嵐が三年前に作った祭壇には、まだ――。
「そうか。わかってるなら、もっとしっかりとしてこい」嵐は写真を掴みながらいった。「白の花という制約があるのに何だ、この洋花の組み合わせは。どうして季節の花を挿さなかった、デンファレじゃなくスイートピーを入れることはできただろう」
「あなた、それくらいにしないと店の仕事が回らないわよ」
楓の言葉で嵐の勢いは一瞬で失った。いくら彼でも母親には敵わない。いわれるがまま声が萎んでいく。
「……そうだな。お前は今から明日配達分の花束を作れ。お前の飯はそれが終わってからだ。楓、俺は配達の帰りに飯食ってくるぞ」
「はいはい。行ってらっしゃい」
どかどかと憮然とした表情で出て行く嵐。文字通り、嵐が去っていくようだ。彼一人が出ていっただけで店の空気はがらりと変わった。
「……何だよ、親父は」
凪は溜息を漏らしつつ独り言をいった。
「いつもいつも説教ばかりしやがって。たまには褒めてみろっつーの」
「あれでも褒めてるのよ、お父さんは」
隣から楓の声が流れてくる。
「凪に期待してるから、つい熱くなってるのよ」
「ふうん。そうは見えないけどな」
楓は無言でテーブルに貼り付けてある伝票表を指差した。そこにはこれから行く配達など何もないことを表していた。
「親父、どこに配達にいってるんだよ……」
ストッカーの中を確認する。明日の分の花束もアレンジメントも、すでに完成していた。
「きっと凪が作った祭壇を見にいったのよ」
楓は笑いながらいった。
「日に日に凪の技術が上がっていくから、拡大した写真でも荒を探すのが難しいのよ、きっと」
そういって彼女は微笑みながら凪の昼ご飯を用意した。皿の上にはたっぷりとソースがかかっている焼き蕎麦が載っている。
「まったく。いつになったら俺を一人前として認めてくれるんだろうなぁ」
彼は作業台の上でそれを啜った。彼女の焼き蕎麦はいつも出来たてで美味しい。ソースをさらに足しながらあつあつのまま食べるのが一番だ。
「今日の病院の配達先は凄かったよ」
彼は焼き蕎麦を啜りながらいった。
「特別病棟の患者だったんだよ。部屋に庭までついてんの。金持ちっていうのは本当にいるんだなぁ」
「そうなの、それは凄いわね。毎年私が自宅まで届けていたんだけどね。今年は病院かぁ」
「毎年頼まれてたの?」
「うん。おじいちゃんが生きていた頃からね。何でもおじいちゃんの親友だった人みたい」
「そんな昔からなんだ。それなのにどうして宛名がないんだ?」
「さあ?」
楓は首を振った。
「宛名を送りたくないか、送らなくてもわかる相手なんじゃない?」
「お袋も知らないのか? じゃあどうやってお金を貰ってるんだよ」
「昔から銀行振り込みなのよ。宛名も書いてないから、名前も知らないわけ」
「なるほど」
焼き蕎麦を完食すると楓がぽつりと呟いた。
「今年はまだ代金が届いてなかったなぁ。お父さんは関係なしに届けろといっていたけど、大丈夫なのかしら」
「ふうん。じいちゃんの代からなら多分大丈夫だろ」
店にある『月運花馮』と書かれた掛け軸を眺める。これは嵐の父、颯が書いたものだ。大振りな横文字でいまにも暴れだしそうな雰囲気がある。嵐いわく、月の運は花に頼るという意味らしい。
花屋は花がなければ何もできない。どれだけ腕を磨こうとも花を作り出すことはできないのだ。だからこそ花を大事にしなさい、という教訓としているらしい。
「そういえば、その掛け軸も注文主に関係しているってお父さんがいってたわ。花には人の思いが詰まっているんだから大事にしろっていっつも怒られてたっけ」
「あの親父が怒られてたの?」
「うん、いつも喧嘩ばかりして大変だったのよ」
「そうなんだ」
祖父の時代なら花の種類など限られていただろう。今以上に花を丁寧に扱っていたに違いない。自分の記憶には優しい祖父の顔しか思い浮かばない。
「あのじいちゃんがねぇ、俺には怒ったことなんてないのに」
「誰だって孫は可愛いわよ」
楓は嬉しそうにいう。
「私もそろそろ見たいけど。まだできそうにない?」
「当たり前だ、恋人だっていねえのに。孫なんてできるわけないだろ」
「そう。で、結局どっちにするの?」
「どっちって?」
「お月さんかお鶴さん」
「どっちでもねえよっ」
勢いでくしゃみが出そうになり、我慢すると目がかゆくなる。楓に見えないように目薬を差しながら彼は話題を変えた。
「ところでさ、時計の調子はどう?」楓が付けている腕時計に目をやる。
「うん、今日も快調よ。昨日定期健診をしてくれたから秒針もずれてないくらいにいいわ」
楓の腕に巻かれてある時計は機械式の時計だ。二年前に凪が誕生日にプレゼントしたものだ。銀縁の裏蓋には『花纏月千』の文字が入っている。
「お袋にしか扱えない代物だよ、それ。親父にやっても無駄になってただろうなぁ」
「そうでしょうね。お父さんにはこんな毎日ネジを巻かなきゃいけない時計なんてできないわ」
「うん。だからこそお袋にあげたんだ」
「この間お客さんに聞いたんだけどさ、時計の定期健診って何年かに一度くらいでいいみたいよ。千月ちゃん、毎月してくれているみたいだけど、本当にいいの?」
「あいつが好きでやってるんだ、問題ないよ。それよりもお袋、配達があったらちゃんと親父や俺に頼るんだぞ。腰を悪くしてるんだからさ」
「いつの話をしてるのよ」
楓は苦笑いを浮かべた。
「もう大丈夫。これから忙しくなるんだから、私が配達に行く機会だって増えるんだし」
「駄目だ、俺が行く。腰なんかは一回悪くしたらそれからも続くんだ。お袋は店の看板だけ守っとけばいい。外回りは男の仕事だ」
「はいはい。あんたもお父さんに似てきたわねぇ」
「よしてくれ。俺はあんな頑固親父にはならねえよ」
店のコピー機が鳴った、この音はFAXだ。きっとスタンド花の追加だろう。凪は急いでお茶を飲み干し葬儀場から来たFAXに目を通しスタンド花を車に詰んだ。
その姿を見て楓はさらに笑みを零している。きっと彼女には自分が嵐と重なって見えたのだろう。
早く親父に追いつきたい、その気持ちが先走っていることを認めつつも、自分を止めることはできない。
母親の視線を気にせず駆け出して、彼は軽自動車に追加分の荷物を積み込んだ。