第二章 『月運花馮』 PART3
3.
「おはようございます。東雲和巳さんでしょうか。お花をお届けに参りました」
「ええ、そうです」彼女は頷いて微笑んだ。緩やかな皺がふっくらと浮かび上がる。「ありがとうございます。まあ綺麗。これはどちらから?」
「すいません、実は送り主は聞いてないんです。お伝えしなくてもわかると母がいっていました」
「……ああ、そういえば今日だったわね」
老婆は何でもないかのように振舞った。
「いつもおたくからお花を頂いてるのよ。ひょっとしてあなたは息子さん?」
「はい。一応三代目です。この花束も僕が作らせて頂きました」
「やっぱりそうなのね。颯さんの若い頃にそっくりだわ」
「じいちゃん、いえ祖父を知ってるんですか」
「ええ、幼馴染だったの」
和巳は嬉しそうに頷いた。
「それにしてもいいセンスね。綺麗に纏まっているわ」
「ありがとうございます。もし宜しければですが花束のラッピングを外して花瓶に生けこみましょうか?」
「まあ、それはありがたいです。お願いしていいですか」
ベルトに下がった鉄鋏でラッピングのテープを切り落とし目の前にある花瓶に投げ込む。それだけで彼女は頭を下げてきた。
「ありがとうございます。どうもすいません」
必死に頭を下げる姿が妙に似合わない。どうやら気難しい感じの人ではないらしい。心の中で徐々に緊張が薄れていく。
それにしても、と老婆は言葉を続けた。
「よくわかりましたね、この病室の行き方。普通とは違って大変だったでしょう?」
「ええ、担当の看護師と知り合いなもので。それにこの病室には来たことがあるんです」
「そうでしたか。一度来られたことがあれば問題ないですよね。娘に援助して貰っていい部屋を取って貰っているんですが、私には広すぎて困っているんです」
正直な人だ、と凪は思った。これだけ立派な部屋にいるのに全く見栄を感じない。きっと心が澄んでいるのだろう。
「もしよければ、ですが送り主はどんな方か訊いてもいいです?」
花瓶に生けこんだ花のバランスを整えながら尋ねてみる。毎年頼んで貰っているが、事情は聞いていないからだ。
「争いが嫌いな人だったわ。花のように美しい心を持っていて静かに佇んでいる感じの人よ。でも神経質で頑固な部分もあった。だから一緒にいる時は喧嘩が絶えなかったわ」
「……なるほど、なんとなくわかるような気がします」
凪は大きく頷いた。似たような人物をよく知っているからだ。
「一途な人だったんじゃないですか? 毎年お花を贈るなんて、そうできることではないと思います」
「そうね、本当に最期の最後まで自分の信念を貫いた人だったわ……」
その先は聞いていいのだろうか。あまり踏み込みすぎても野暮だ。
他の話題を考えていると、今の季節ではまだ珍しい竜胆の鉢があった。凪は思わず目を見開いた。
「あ、竜胆じゃないですか。こんな春先に見れるものもあるんですね」
「ええ、春竜胆という品種みたいです」老婆は自分の子供を紹介するように告げた。「お花の中で好きなものの一つなんです。ここは日当たりがいいからお花にもいいみたい。南東からのお日様は幸運を招くというから、きっと長持ちするわね」
竜胆の花は淡い縹色に染まっておりこれから始まる春の期待に胸を膨らませているようだった。その隣にはヒヤシンス、エリカの鉢が綺麗に並んでいる。
入れ物の鉢と中身に違和感を覚える。鉢だけが劣化しているのに花は綺麗なままだ。どうやら何度も中身だけ入れ替えているらしい。
「それにここに置けばヒヤシンスの香りが風によって運ばれてくるの。だからこの花には風信子という漢字が当てられているのよ」
「……なるほど、それは初めて知りました」
鉢の上には『風花雪月』と大きく書かれた業務用のカレンダーが掛かってある。会社名はサンライズ。どこかで聞いた覚えがあるが、思い出せない。
老婆は花瓶に入れた花を愛おしそうに眺めながら呟いた。
「切り花はすぐ枯れちゃうけど、見る分には鉢よりもずっといいわね。これはなんていう花?」
彼女は真っ赤に染まった花を指差している。
「ダリアです」
彼は丁寧に説明した。
「本来なら夏から秋に掛けて咲く花なんですが、今の時期でも出荷されているんですよ。別名、天竺牡丹ともいい菊の仲間でもあります」
「……そう。こんなに綺麗なのに菊の仲間なの」
彼女の表情がどことなく暗くなった。それを見て彼は慌てて弁解した。
「菊といっても葬式とかで使うような花ではないんです。すいません、例えが悪かったですね」
「ごめんなさい。そうじゃないの」
老婆は弱々しく首を振った。
「……ただ菊自体にあまりいい思い出がなくてね。戦後を生き抜くことが大変でお花を愛でることまではできなかったから……」
「そうでしたか。すいません」
凪が頭を下げると彼女は首を振った。
「いいえ、そんなことはないわ。昔を思い返すことができてよかった。それに若い人の感覚を知ることもできたしね。これからもよろしくお願いしますね」
「はい、こちらこそありがとうございました。またよろしくお願いします」
病室を出ると千鶴が待っていた。手には薄手のコートが掛かってある。
「あれ? 千鶴ちゃん、どこかに出掛けるの?」
「うん。今日は夜勤だったの。だから仕事はこれでお終い」
どうやら彼女は仕事帰りに立ち寄ったらしい。自分を案内してくれるために病室まで付き添ってくれたようだ。
「そっか。そりゃ悪かったね。わざわざありがとう」
専用エレベーターを降りた所で千鶴に会釈を交わす。
「それじゃゆっくり休んでね。お疲れ様」
「うん、ありがとう」
彼女の後ろ姿に疲れを感じる。だがそれは夜勤だけではないのだろう。彼女も自分と一緒に奮闘している、だからこそ必ずこの作戦は成功させなければならない。
病院を出た所で携帯電話の電源を入れると、嵐からの着信が怒涛の勢いで入っていた。電話を耳から離して掛け直すと、案の定、父親の怒声が飛び込んできた。
「何をしている? 携帯の電源を落としてさぼってるのか?」