第八話 ビーフシチュー②
大きめに切り分けたバゲットをトースターで軽く焼く。香ばしい匂いが台所にたちこめ始めた。 私はこの匂いが大好きだ。幸せな気分になる。 イライラした気持ちが少し収まってくる。
こんがり焼いたバゲットは、パリパリの歯ごたえを楽しむのもよし、シチューに浸して柔らかくなったところを食べるもよし。
「後見さん、お仕事はもう済んだんですか? 飲んでも平気?」
ダイニングに戻ってきた陸也に問いかける。
ビーフシチューに使った赤ワインが結構残っているのだ。
「仕事は明日の午後です。お宅の車庫を一晩お借りしたいのですが、構わないなら飲めますよ。駄目ならば、この後車を移動させないといけないので、飲めません」
「え? 車で来ているのです?」
「えぇ」
「えぇ、って……じゃあ、後見さんは今夜どこで過ごす予定なのですか?」
「車で。なので、お宅の車庫をお借りできるとありがたいのですが」
陸也は、明日の朝一で出発して茨城の物件の引き渡しに立ち会う予定なのだと言う。茨城のどこかと聞けば、ここから高速を使っても結構かかる場所だ。本物のアンドロイドでもない限り、ゆっくり横になれない車上泊では辛いだろう。
これは、恩返しをする絶好の機会ではないですかっ。
「だったら、うちに泊まっていけばいいじゃないですか!」
身を乗り出して提案する柚葉に、陸也がたじろいだ様子で身を引く。
「……しかし、一人暮らしの女性の家に私が泊まるのは、いろいろ問題ですから」
それって今更ですよね?
鍵を掛けられる部屋がないでしょう? と言う陸也に、二階の一間は引き戸になっているからつっかえ棒をすれば鍵が掛けられると提案する。
「それに、私は奥様がいらっしゃる方に興味ないですから」
最後の切り札のように得意げに言った柚葉の台詞に、陸也はやけに反応した。
「珍しいですね、あなたが私の妻のことに触れるなんて」
え? あれ? 何故、スプーンを置いてまでこの話題に食いついて来たんです?
「何がありました? あなたは、何かを聞いたんですよね」
改まった様子の陸也に今度は柚葉が引きながら、佳乃から聞いた旨を白状する。後見家には謎が多いという件は、もちろん沈黙だ。「そうですか。佳乃さんはマスコミ関係に伝手がある状況なんですね……」
佳乃さんはって、彼女のこと覚えているんです? 佳乃と後見さんとの接点なんて、両親の葬儀の時くらいしかなかったはずですよね?
まぁ、佳乃は美人だから記憶に残りやすいのだろうけどさ。でも、それなら、その眉間のしわは一体何事なんでしょうか。コワいんですが……。 柚葉の怯えた視線に、陸也ははっとしたように視線を上げた。
「あの……?」
「何でもありません。いただきましょう。冷めてしまいますよ」
「あ、はい。そうですね」
よく煮込んだ牛すじ肉は、口に入れた瞬間ほろりとほどける。こっくりと濃厚な味わいに仕上がっていた。バゲットもビーフシチューも上出来なのに、どうしてだろう、なんだか落ち着かない。 なに? このストンとした感覚は……。
何かが抜け落ちているような、忘れてはいけない何か大事なことを忘れているような……そんな喪失感。
落ち着かない。
冷茶をぐっと飲み干してグラスを置くと、入れ替わりに赤い液体がとくとくと注がれた。視線を上げるとサングラス。
「あなたは怪我をしてますから、今日は控えめにね。私もワインいただきます」
陸也は自分のグラスにもワインを注いだ。
そうだよ。こんな時は飲んじゃおう。怪我なんてかすり傷だよ。関係ない関係なーい。
気持ちを落ち着かせるために、注がれたワインをあおる。
フルボディの赤ワインは、渋みが強くコク深い。微かに干しぶどうのような芳醇な匂いがした。たくさんお日様を浴びた、たくさん太陽に愛された、幸福な果実の匂い。
「後見さんは……」
奥様を愛してますか?
ふと口をついて出てきてしまった疑問のかけら。あまりにもあからさまで、口ごもる。
決っして人前に姿を現さないという奥様。不仲だという噂の海斗氏と同様、彼らも不仲なんだろうか。不仲だから奥様は人前に出ないんだろうか。
つい想像して、しかしはたと気づく。
私ってば、どうしてそんなことを知りたいの? そんなこと、知ってどうするというのだろう? 自分自身の衝動に当惑する。
「なんですか?」
途中でやめないでくださいと抗議する陸也に、柚葉は飲み込んだ質問を変えた。
「……後見さんの奥様って、どんな人なんですか?」
きっと、どこぞのご令嬢なんだろうけど。
「妻ですか?」
少し困惑したようにたじろいだ陸也は、しかしすぐに何かを吹っ切ったように話し始めた。
「私の妻は……可愛い人です」
小さくて、明るくて、負けん気で、頑張り屋で、でも感受性が強くて、実は繊細な人なんだと陸也は語った。
本当は今の奥さんと結婚する予定ではなかったのだそうだ。
「私は、親の決めた女性と結婚する予定だったんです。いわゆる政略結婚というやつです」
名家の女性との縁談が進んでおり、もう結婚届を出す寸前だったらしい。
「私自身、特に結婚に何の希望もなかったし、気になる相手もいませんでしたから、まぁ、淡々と手続きを進めていたのですが……」
しかし、突然のハプニングで今の奥様に出会った。
「もう彼女以外、考えられなくなったんですよ。私はこの人の為に存在するのだと、この人を守ることが自分に課された使命なんだと、出会ったその時、思ったんです」
ひょぇぇぇ。何? そのドラマティックな展開~。守る為の存在って……どんな不幸な境遇のお姫様なのよ。それを真顔で語る後見さんもすごいけどさ。
それで強引に籍を入れて、親の目論見を水泡に帰した。そのせいで、後見家の後継者は弟の海斗に譲ることになったのだそうな。
じゃあ、奥様のせいで、後見さんは後継ぎじゃなくなったってわけ?
「誤解しないでほしいのですが、それは私にとって幸せなことだったんですよ。妻は、私の前に突然現れた非常口のような人でした。私を後見家から解放してくれたのですから」
非常口……って。解放って……。
脳裏に緑色に輝く走る姿勢の人マークが浮かぶ。
「しかし結果として、私は弟の海斗に悪いことをしてしまったのかもしれません」
結局、その良家のお嬢様は、弟の後見海斗氏と結婚することになったらしい。
不仲だと言われる海斗夫妻。運命の相手と出会えたものの家を継げなくなった後見さん。
この中で、一番幸せなのは誰なんだろう。
あ、ちょっと待てよ。一番幸せな人忘れてるじゃない。
一番は後見さんの奥さんだよね?
後見さんは仕事ができる人だし、別に家業を継げなくても路頭に迷うことはなさそうだ。何よりも、ここまで誰かに大切に思われることなんて、そうそうあるもんじゃない。
「そんなドラマティックな話を、後見さんから聴けるとは思ってもみませんでした」
いやー、参った。逆に吹っ切れたよね。ここまでのろけられたら、迷いようがないでしょ。
清々しい気持ちでワインを飲み干すと、何故がサングラスにじっとりと見つめられているのに気がついた。
「あの? 何か?」
「呼び方が戻っていますよ? 私のことは陸也と呼んでくださいとお願いしてましたよね」
いや、だからそれ……無理でしょお。
「私が後見さんを名前で呼ぶわけにはいかないでしょう? 後見さんは私の上司なんだし、奥様にも失礼だし」
「……あなたは嫌ですか?」
「は?」
「もし自分の夫がよそで名前で呼ばれていたら、あなたは嫌ですか?」
「それは……親戚や同性の友人が呼ぶなら構いませんが、異性のしかも職場の部下が呼んでいたら、いい気持ちはしませんよね。結局自分もone of themなんだって悲しくなると思うんです。普通はそうじゃないですか?」
ってか、何なんですか? なにゆえ、そんな質問を私にするのです?
「そうですか……では気をつけます」
「はぁ……」
いや、あなたは何に納得して、何に気をつけようとしているのです?
もう、一体何なのよ。わけ分からん。