第七話 ビーフシチュー①
「あの……」
椅子に座ったまま視線を落とすと、足下には後見さんの頭がある。日頃上から見下ろすことなどないので、新鮮な光景だ。なんだけど……。
困惑する。
ジャージをまくり上げた素足に触れる手がくすぐったくて。でも、困惑の原因はそれだけじゃない。
素足を晒していることがなんだかすごく恥ずかしい。もっと短いショートパンツをはいてることだってあるのに、なんで?
玄関先ですっころんだ柚葉の膝から血が出ていることに気づいた陸也は、突然彼女を抱え上げた。お姫様だっこなんてかわいいものじゃない。いきなり足を掬われたのかと思った。米俵のように肩にしょわれて運ばれる。
自分で歩けると言ったのに……。
肩のあたりに胸が当たって息苦しいので、体をずらすと両腕で後見さんの首にしがみついた。こうすると楽だ。でもそのせいで密着度が跳ね上がる。脈拍も跳ね上がる。
整髪料と後見さんの匂い。
ドキドキして、なんだかクラクラする。
落ち着け。落ち着け柚葉。怪我をして運ばれてるだけなんだからっ。
そのままかつぎ込まれて、リビングのソファの上にどさりと落とされた。軽くソファの上でバウンドする柚葉の体を抱き留めて、陸也は耳元で囁いた。
「酔っていない時のあなたは、格段に運び易いのですね。いつもこうだと助かります」
「……」
むぅ。嫌味だ。コレ、ぜったい嫌味だよね。
あぁ、嫌だ。無駄にドキドキした自分が嫌になる。
「あっ、あの……消毒なら自分でできますからっ」
部屋着代わりに着ていたジャージは、見事に膝のところがすり切れて穴があいていた。結構ひどく転んだらしい。
赤いライン入りの濃紺ジャージは高校生の時のものだ。もっとましな部屋着を着ておけば良かった。まさか後見さんが来るなんて夢にも思わなかったし……。
「すぐ終わりますから大人しくしていてください」
消毒液をたっぷり浸した綿を傷口に当てると、消毒液が冷たくしみる。
「いった……」
目を閉じて痛みをやり過ごしていた柚葉は、次いで、もう片方の足首を持ち上げられて動揺した。慌てて目を開ける。
「きゃ! あのっ、何を……」
するの? という疑問は陸也の言葉に遮られる。
「こっちは捻挫しているかもしれませんね。湿布を貼っておきましょうか」
言われて見ると、足首からふくらはぎまでが赤くなっている。ひんやりとした湿布を貼られて初めて、ふくらはぎがひどく熱を持っていたことに気づいた。
私ってば、動揺しすぎだよ。言われるまで痛みに気づかないなんて、バカなんじゃない?
しょんぼりする柚葉に、容赦なく次の命令が下る。
「ほら、両手も出して」
有無を言わさぬ構えに、しおしおと両手も差し出した。こちらは擦りむけているけれど、血が滲んでいる程度だ。
すべての治療が終わった頃には、すっかり、落とし穴から救出されたワンコの気分になり、何か恩返しをしなければという思いでいっぱいになっていた。給与明細を渡しにきたという陸也に、ビーフシチューを是非食べて行ってほしいと誘う。
客間に通すべきかとも思ったんだけど、この季節、火の気のない部屋はまだ肌寒いので、ダイニングで食べてもらうことにする。
今更気取っても仕方ないものね。
「あのぉ、ところで、わざわざ明細を渡しに千葉まで来た……わけじゃないですよね?」
急須に茶葉を入れながら柚葉は首を傾げる。
明細だけなら、休暇明けでも問題ないはずだ。「まさか。それだけの用で、わざわざこんな所まで来ませんよ」
ですよね~。
「じゃあ……どうして……」
陸也はサングラスを中指で軽く押し上げた。
「あなたに会いたかったからです」
え……えぇ? 私に? どどどうして?
ポットのお湯を急須に注ごうとした手が止まる。あからさまに動揺する柚葉に、陸也は意地悪そうに口角を引き上げた。
「……と言って欲しかったですか?」
「なっ!」
何よそれー。そんなこと、全然言って欲しくなんかないですよっ!
「べっ、別にそんなことっ!」
乱暴に給湯ボタンを押したけれど、ポットはいたって冷静に静かにお湯を吐き出した。
「仕事のついでです」
ポットに負けないくらい陸也も冷静だ。
あー、そーでしょうとも! 分かってましたよ、そんなことくらい。
なんか、私ひとり動揺してバカみたいじゃない? 自分にイライラする。
プンプンしながら、柚葉は湯飲みを陸也の前にダンッと置いた。
横目でちらりと見やると、陸也は軽く口元を拳で隠している。
吹いたー。今、吹き出しましたよねー。
笑ってなんかいませんよ、と至極真面目な顔で応えた後、
「そうだ、うっかりしていました。お茶をいただく前にご両親にご挨拶をしてきます。仏間、あっちの部屋でしたよね」
と言い残し、勝手知ったる様子で陸也はダイニングを後にした。
あああああ~。も~、なんかイライラするっ。ってか、なんで私は、後見さんの言葉や態度にいちいち動揺しちゃうの?
もう、ほんとヤダ……。