第六話 キルトケット
自宅に戻って三日目。柚葉はひとりため息をついた。
二日目に水回りと外回りの掃除をしてしまうと、三日目にはする事が無くなった。しかも、今日は都合が悪くて佳乃は来れないらしい。さっき連絡があった。
朝からビーフシチューを仕込んでいたのに……。
ぽっかりと空いてしまった午後。
仕方がないので、日頃、寝るまでの僅かな時間を使ってこつこつと縫っていた趣味のキルティングを一気に仕上げてしまうことにする。
今作っているのは、善太郎さんにプレゼントしようと思っているキルトカバーだ。善太郎さんは奥さんと一緒に「星霜軒」という名の和風小料理屋を営んでいる。音だけ聞くと宇宙っぽいけど、店内は小じんまりした懐かしい感じのお店だ。夜だけの営業で、お昼間は店を閉めて、アトミフーズの名で弁当の仕出しをしている。かつて星霜軒が経営危機に陥ったときに切り替えたこの営業形態を、善太郎さんはもう十年以上続けていた。
短大時代には、柚葉もよくこのお店を手伝ったものだ。善太郎さんは元々日本料理の板前だったらしい。お店でもお弁当でも、美味しい和食をリーズナブルな値段で食べさせてくれる。
店で一番人気の銀鱈西京焼き定食は、ヒジキの煮付けと青海苔の味噌汁もついて九百円。冬になると、それに刻んだ柚子とすり胡麻まぶした白菜漬けがつく。おかみさんが自ら漬けたものなのだけど、これが程良く漬かっていて絶品なのだ。これを目当てに定食を食べに来る人もいるくらい。お酒も飲めるので、夜遅くまで結構お客さんで賑わっている。
星座の意匠をアップリケしたキルトカバーは、星霜軒の席の座布団カバーに使ってもらえたらいいなと思って作っている。残りあと五枚。全部で二十枚作る予定。
夢中で縫っていると、あっと言う間に時間が経つ。気がつくと、西側の窓から差し込む陽射しに夕方の気配が色濃くとけ込んでいた。季節的に鳴く虫の声はなく、空をゆく鳥の姿も見あたらない。
「静か……だねぇ」
そう呟いたことで、逆に静寂がきわだった。
夕暮れは寂しい。
ふと言いようのない不安に襲われて、何かに急き立てられるように柚葉は台所へ向かった。午前中から煮込んでおいたビーフシチューにもう一度火を入れる。
命を養うものの匂いは、少しだけ柚葉を落ち着かせる。
「作り過ぎちゃったな……」
ほとんど泣きそうになりながらお玉をかき回す。
寂しい。哀しい。
夕方になると孤独を強く意識してしまうのは、両親の訃報を知ったのが夕方だったからだろうか。それとも、単に日が沈む時刻だから心細く感じてしまうのだろうか。
夕飯は、作るのも、食べるのも、とても気力のいる作業だ。自分の為だけなら、作らないで簡単に済ませたって構わないのだ。誰かの為だからこそ、誰かが一緒に食べてくれて、美味しいねと言ってくれるからこそ、作る気にもなるし、食べる気にもなる。生きていく上で、求めてくれる誰かの存在は、本当に大きいと思う。
今ここに、お母さんとお父さんがいたら、私の作った料理を喜んで食べてくれただろうか。
きっと喜んでくれたよね。
佳乃、遅くなってもいいから、食べにくれば良いのに……。
唐突に、以前陸也が問いかけた言葉が脳裏に浮かんだ。
「あなたは以前、そういう方法ではなくて、四角い布をツギハギにしたような布を作っていませんでしたか?」
リフォーム期間中、夕飯の後に仮宿でこのキルトカバーをちまちまと縫っていた時のことだ。
「ツギハギって、もしかしてパッチワークのことですか?」
問い返すと、彼は、柚葉がデザイン用に用意してあった色鉛筆を使って、広告の裏に四角い図を描いた。ブルー系の色使いのパッチワーク。
「あぁ、これなら、やはりパッチワークですね。確かに作ってましたよ。これはパッチワークの基本形なんで、キルトを始めたばかりの頃によく作ってました」
四角い布を組み合わせて縫い合わせていくのは、基本中の基本、ナインパッチと呼ばれる手法だ。確かに、キルトを作り始めた頃、柚葉はこの手法のパッチワークキルトをよく作っていた。最近ではもっぱらアップリケに凝っているけれど。 でも、そのことを、なぜこの人が知っているんだろう。ってか、それよりも……。
柚葉は、色鉛筆で描かれたその図の配色に、少し首を傾げた。
どこかで見たことがあるような……。
「そのパッチワークのキルトとやらを、いつか私にも作ってもらえませんか?」
え?
思わぬリクエストに、柚葉は驚いて陸也を見上げた。
「もちろん、それを……」
と言いながら、柚葉が手にしていたキルトカバーを指す。
「作り終えてからで構いませんし、無理にとも言いません」
柚葉は意外な気持ちで頷いた。
柔らかく家庭的なイメージが強いパッチワークキルトは、硬派なイメージの陸也と対極にあるような気がしたからだ。
「はい。全然無理ではないですよ。何を作ってほしいですか? ベッドカバーのような大きな物だと、多少時間がかかりますけど……」
「できれば、このくらいのサイズの……」
と言って陸也は一メートル四方の広さに手を広げて見せた。
「膝掛けのような布をお願いしたいのですが……」
「キルトケットですね」
そのくらいのサイズならば、さほど時間はかからない。柚葉は二つ返事で請け負った。
求められて作るのは嬉しい作業だ。俄然やる気になる。求めてくれる人の存在の大きさは、食べるものを作る時だけに限らない。
なのに……。
あれから、もう三ヶ月近く経つのに、ナインパッチを二ピースしか作れていなかった。
ナインパッチを一つ作るのに何日も何日もかかってしまう。何故か頭が痛くなるのだ。直線に縫い合わせていくだけなのに。善太郎さん用のアップリケなんて、曲線も多いし、枚数も多いので、作業的にはこちらの方が負担は大きいはずなのだ。だけど、こちらの作業は特に頭が痛くなることはない。
「すみません。すぐできますなんて安請け合いしたのに。なんだか頭が痛くなってしまって……」
目頭を押さえながら謝る。頭がガンガンして目を開けていられないほどだ。
「だから、無理はしなくていいと言ったでしょう?」
無理をしているつもりは無いのだけれど……。 どうしてなんだろう。どうしちゃったんだろう、私。
釈然としない。
微かに焦げ臭いにおいがして、柚葉は我に返った。
あ! ビーフシチュー。
慌てて火を止める。
火を止めてもなお、ビーフシチューはぐつぐつと文句を言い続けた。
釈然としない。
突然ぶわっと涙がこみ上げる。
分かってる。釈然としない理由に、本当は気づいていた。何故私はこんなにも不安なのか。
日頃は忙しくて思い出さないだけなのだ。
それは、私が何か大事な記憶を失っているからだ。
両親が事故で亡くなったあの日、現場に駆けつけて倒れたあの日から数日の記憶を、私は失っていた。病院で目覚めた後の混乱の数日間。
妖精王の夢をみた後、気づけば私は喪服を着て、葬儀の場に座っていた。隣で佳乃が泣きはらした目で私の手を握っていた。
一週間ほどの記憶の空白。その間に何があったのか。
いつの間にか、九州から会ったこともない親戚が駆けつけていたし、初対面のはずの善太郎さんが、まるで親戚のように私を気遣ってくれていた。私の知らない人たちが、私のことをよく知っていた。それは、後見さんも同様だ。
彼も、私が知らない間に、私のことを知っている人の一人だった。
ショックなことが起こったときの記憶が曖昧になるということは、よくあることなのだと医師は言う。
その一週間の間に何があったんだろう。
記憶って、ここまできれいに忘れてしまうもの?
確かに両親の事故はショックだったけれども、駆けつけて倒れたところまでの記憶はあるのだ。それよりもショックなことがその後に起こったとはあまり考えられない。
親戚や友人、当然、善太郎さんにも訊いてみたけれど、みな首を振るばかり。私に何があったのか、知る人は誰も居なかった。しかも、記憶がない期間のことを思い出そうとすると、頭が痛くなる。
心療内科の医者は、生活に支障がないなら無理に思い出さない方が良いと言った。恐らくそれはあまり良くない記憶で、私は自分の心を守るために、忘れた記憶である可能性が高いからと。
釈然としない。
私は何を忘れているの? どんな悪いことがあったのだろう。
心の中の不安が膨れ上がって、息が苦しくなった。パニック障害を発症する前兆だ。
私は矢も盾もたまらず、キッチンを出ると、裸足のまま玄関を飛び出した。
息が苦しくて、堪らなかった。外の空気を吸わないと窒息しそうだ。
玄関から転がりでて、僅かな段差を埋めるほんの数段の階段でつまづいた。転んだ拍子に膝をしたたかに打ち付け、とっさについた両手の平を擦りむく。しかし痛みに気をとられたことが逆に幸いして、息苦しさが遠のいた。
痛った……い。
うつむく瞳に、涙がじわじわと滲んで透明な膜をつくる。にじむ視界。立ち上がる気力もない。 このまま声を上げて泣いてしまおうか。誰も見てないんだし、いいよね。
しかし、顔を上げた途端瞠目した。意図せず、溜まっていた涙が一筋こぼれ落ちる。
「どうしました?」
見上げた先には、見慣れたサングラス。
「泣いてるんですか? 転んで泣くなんて、あなた子どもですか?」
呆れたような口調に、ムッとして立ち上がる。同時に、不覚にもこぼれ落ちた涙を手の甲でごしごしぬぐった。
意地悪サングラスに一瞬でもホッとした自分を殴りたい。
「これは転んだからじゃありませんっ。た、玉ねぎを刻んでいたんですっ!」
「へぇ、そうですか」
肩をすくめる黒スーツ。
なんかムカつくんですけどぉぉ。