第三十一話 柚子の木
薄闇が包む旧後見邸の奥庭で、柚葉は一人ぼんやりと佇んでいた。
今日、柚葉が磨き上げた浴場の御影石が月明かりを弾く。センサーになっているらしく、近づくと暖かな橙色の灯りがともった。
陸也から事故現場で起こった話を聞いた後、梶井と佳乃を見送って、その後、なんとなくぶらぶらとここまで歩いてきた。
放心状態……とまではいかないけれど、うまく考えがまとまらなくてぼんやりする。
話し終えた陸也は、柚葉にこう言った。
「私の話には、何一つ証拠がありません。信じるか信じないかは柚葉さん次第です。拒否権は、あなたの手にありますから。私が許せないなら、迷わず行使してください」
拒否権、つまり離婚届のことだ。
そして陸也は、柚葉に向き直り、深々と頭を下げた。
もしあのとき、陸也が柚葉の父親のふりをしていなければ、柚葉の母は自分を犠牲にしてまで陸也をかばわなかったかもしれない。意図したわけではないが結果として、柚葉から母親を奪ってしまったと、彼はそう言って、詫びた。
それに対して、柚葉は小さく首を振ることしかできなかった。
そんなの、陸也さんだってどうすることもできなかったことだろう。それに、母がどんなつもりで彼をかばったのかなんて分かりはしないのだ。陸也さんの言うように父と間違えたのかもしれないし、陸也さんだと分かっていてかばったのかもしれない。
私は、ただ驚いていた。陸也さんと母が出会っていたことに。母の最期の瞬間に、一緒にいたのが陸也さんだったことに。
そして何よりも、母の思いが温かく切なく、ありがたかった。
――約束しましたから。
約束は、母とのものだったんだ。
泣き虫で寂しがりの私を、ひとりぼっちにしないという……約束。
ツキンと胸の奥が痛む。
結局、私は両親からもらうばかりで、何も返せないままで……。
奥庭にある桧の露天風呂の床に、また柚子の花がハラハラと散っていた。
黒い御影石の上に散った一面の花びら。丸みを帯びたそれは、母のふっくりとした頬の色に似て、白く、儚く、優しげで……。
「柚葉さん、ここにいたんですか。探しました」 背後から声がした。ホッとした様子の声。
「陸也さん、ごめんなさい。なんだか、私……私と母、親子ともどもすっかり陸也さんに迷惑かけちゃってたみたいで……」
しかも、私はそれ忘れてるし……。
陸也は弱く首を振ると、たくさんの白い花をつけている柚子の木を見上げた。
「柚子の花が満開ですね」
嬉しげに頬を緩めて、陸也は続ける。
「この木は、五年前、あの事故の後、私がここに植えたものなんですよ。今まで花をつけたことがなかったのですが、この様子だと今年は実をつけそうだ」
え?
「そうだったんですか……」
私と同じ名を持つこの木を、五年前に植えたのは……偶然?
「……どうしてこの木を?」
陸也は柚葉の問いには答えず、小さく笑んだ。「柚葉さん、洗い場に座ってみませんか? この庭の木々は、そこから観るのが一番趣深いように植えてあるんですよ」
へぇ、そうなのか。
二人で御影石の洗い場に腰を下ろす。昼間、水で洗い流した御影石のタイルは、カラリと乾いてひんやりとしていた。
湯船を背もたれにして座ると、桧のいい匂いが微かに漂ってくる。陸也は庭の木々を指さしながら話した。
「春の桜、夏の青葉、紅葉、そして冬の柚子。四季を通じて植栽を楽しめるようにしてあります」 ふいに人感センサーがタイムアウトして、灯りが消えた。あたりが闇に沈む。逆に夜空では、星が活き活きと瞬き始める。
陸也は続けた。
「五年前、あなたが記憶を失ったと医師から知らされたとき、私はこの柚子の苗を植えました。もし、あなたが無くした記憶が辛いものなのなら、無くしたままで構わない。あなたの幸せだけを一番に考えよう、決して急がないでいよう、と決めたからです。何度でも二人で時間を積み重ねて、過ごした時間を積分していけばいいのだからと。その気持ちを忘れないためにこの木を植えました。柚子は実るまでに時間がかかると言いますからね。気長に行こうと」
そう言って悪戯っぽく笑う、冴えた翡翠色の瞳。
「……っ」
柚葉は隣の陸也を見上げた。
突然胸を熱くしながらこみ上げてくる感情に身を震わせる。
なんと返事をしたらいいんだろう。
そんなふうに時間や思いを込めて過ごしてもらった年月に、どんな言葉を使ったら、私は感謝を伝えられる?
感謝じゃ足りない。感動とも違う。
そもそも、私に、そんな貴重な時間を費やす価値なんて……ある?
目の前が滲んでかすむ。
「ありがとう陸也さん。私なんかの為に……。私、なんて言ったらいいのか分からないよ。感謝って言葉じゃ全然足りない……」
しかも経緯を考え合わせると、感謝よりもむしろ申し訳ない気持ちでいっぱいになってくる。いたたまれなくなって、柚葉は身を縮めた。
「だけど陸也さんは、そんなにしてまで母との約束を守る必要なんてないよ。もし私が負担なら……」
陸也さんはもう約束から解放されるべきだ、と続けるはずの言葉は、陸也に遮られた。ひときわ悲しげな強い視線にたじろぐ。
「では、拒否権を使いますか?」
柚葉は唇をかみしめた。
そんなの、使いたいわけじゃない。
視線が交差する。それぞれに痛みを堪えた視線。
ふと視線をはずして、陸也は続けた。
「勘違いしないでください。私は、お母さんとの約束だけであなたと居るわけではありませんよ。だから、あなたこそ自分が負担なんじゃないかなどと気にする必要などないんです」
うつむく頭にふわりと大きな手のひらが乗って、ぐりぐりと撫でられた。気持ちがふわっと温かくなる。安心する手のひら。
「私がそうしたかったからそうしているのだし、感謝しているのは、むしろ私の方なんですから」 優しくしないでほしい。じゃないと、私、また陸也さんに寄りかかってしまう。
「でもっ」
温かな手のひらをふりほどくように立ち上がると、柚葉の手を陸也が掴んだ。そのまま強く引かれて、陸也の膝に倒れ込む。
「きゃっ!」
「座って。まだ話は終わっていませんよ」
わ、わわわかりましたから、放してくださいよぉぉ。
膝から逃げようとする柚葉を陸也は背後から抱きしめた。
「あ、あのっ、陸也さん、重いですから、私……」
「ちっとも重くないですよ、重さを気にするところはお母さんそっくりですね」
陸也はひそかに笑う。
確かに、私と母は似てるとこ多かったですけどぉぉ、ってか、膝っ、膝の上とか無理無理。密着度高すぎっ。動悸がしますぅ。
膝の上で動揺する柚葉を宥めるように、陸也は髪を梳き上げる。
「私は、物心ついたときから、自分は何のために生まれてきたんだろうかとずっと考えてきました。この瞳のせいで、両親を不幸にし、家族を壊し、弟妹から普通の家庭を奪った。五年前のあの時も、実はまだ悩んでいました。何もかもが不透明ではっきりしなくて、何一つ確信が持てない。自分が何かをすれば、また何か悪いことを誘引してしまうんじゃないかと。だから、それまで私は、人から言われるままの人生を歩いていた。何しろ、自分の存在を肯定できる拠り所が、何一つ無かったものですから」
膝の上でじたばたしていた柚葉は、陸也の言葉に突然クルリと振り返って反論する。
「でもっ、それは陸也さんのせいではないですよね」
理屈ではね、と陸也は苦笑した。
そう、理屈では誰一人として間違いを冒した人などいなかった。だけど、一つの家族が壊れてしまったのは事実なのだ。
「事故にあったあの時、もしあなたのお母さんに出会っていなかったら、もしあなたのお母さんと私の母を重ねていなければ、自分の存在を肯定できていなかった私は、あの場から逃げられなかったと思うんです。自分の命はここで終わる運命だったのだと、さっさと諦めていたかもしれない」 悲しげに首を振る柚葉に、陸也は優しく笑むと、柔らかく頬を撫でながら続けた。
「私の母と重なったからこそ、彼女をそこから連れ出さなければという使命のようなものに突き動かされたんだと思うんです。そして、あなたのお母さんもまた、あなたという存在がなければ、恐らくあの場からあんなに早いタイミングで逃げることはできなかったでしょう。既に亡くなっていたとは言え、あなたのお父さんを置いていかなければなりませんでしたから。結果的には遅かったわけなんですけどね。すべての行動の引き金を辿ると、あなたに行き着く。私は……」
いたたまれなくなった柚葉は、陸也の首にしがみついた。
「もうやめて。陸也さんがあの事故に巻き込まれていたことを静香さんから聞いただけで、私、怖かったんです。逃げられなかったかもしれないとか、諦めていたかもしれないとか、そんな怖い話、聞きたくないです」
柚葉を強く抱きしめた両腕はすぐに解かれて、大きな両手のひらが柚葉の顔を包み込む。
まっすぐ自分に注がれた視線に、柚葉は目をそらせなくなる。
「ユズ……では教えてください。本当は私から無理に訊くべきではないと分かってはいるのですが、待てそうにありません。堪らないんです。あなたは拒否権を使いますか?」
不安げにのぞき込む翡翠色の瞳。
私の方が堪らなくなるよ。
無言のまま、柚葉はそっと口づけた。
切なくて、不安になる話をもうこれ以上、この唇から聞きたくなくて……。
「そんなの使いたくないです。これからもずっと陸也さんの傍にいたいです」
そう言った途端、良かったとため息をつくように零れた言葉。同時に、今度は逆に強く引き寄せられて深く口づけられた。
息が苦しくなるほどの口づけと抱擁。
「あなたが答えをくれたので、俺も正直に言います。離婚届を渡したとき、あなたはショックを受けた。正直言うと俺はそれがすごく嬉しかった。もっともっと悲しんでくれたらいい、そう思いました。ごめんなさい。結果的に試すようなことになりました。もちろん、傍にいます。あなたも、ずっと俺の傍にいてください」
試されていたとは思わない。結局はあれで、私だって自分の気持ちに気づいたわけだし。
そう言おうとしたのに、出てきたのは別の言葉だった。
「んっ……陸也さんっ、くるし……」
しかし、抱きしめる力が緩む気配はない。
「少し我慢してください。なにせ五年も待ったんですから。とりわけ一緒に暮らし始めたこの一年は、拷問のようでした。もう忍耐力の限界です」 え? 拷問? 忍耐力の限界? って、え?
「陸也さん?」
「こんなことなら、ルームシェアなんてバカなことを雇用の条件にするんじゃなかったと、何度も自分を呪いました」
「あの……」
「もう記憶をなくしたままでいい、そのままのあなたを抱いてしまおうと何度思ったことか……」 ひゃあ、いつの間にかシャツの中に手がぁぁ。 ぷつっと微かな音がして、胸に開放感が広がる。
「や、ちょ、ちょっと待ってくださいよぉ。ってか、ここ外……」
焦りまくる柚葉の瞳をのぞき込む翡翠色。
「室内ならいいんですか?」
や、そういうわけじゃ……ってか、それよりも、さっきから座った膝の上でお尻に硬いものが当たって、もう私、どうしていいのか分からないのですがっ。
パニック!
「じゃあ、すぐに戻りましょう。あなたが仕掛けてこんなことになったんですから、ちゃんと責任をとってくださいね」
ええええ~? 私が仕掛けたんです? や、確かに私からキスしましたけど?
ど、ど、どうしよう~ なんか地雷踏んだっぽい。
ってか、心の準備がぁぁぁ。




