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第二十八話 夏の気配

 離婚届を渡された翌日、柚葉の熱は下がった。 心も体も、雨上がりの空気のように澄みわたっている。

 戸惑い迷っていた昨夜が嘘みたいだ。

 ……といっても、悩みや迷いが無くなったわけじゃないけどね。

 一晩いろいろ考えて、柚葉の出した結論は、

 ――考えていたって仕方がない。今日からまた気合いを入れて働こう!

 だった。

 熱がひいてしまうと、ずっと寝ていた反動からか、体を動かしたくてうずうずする。

 とにかく働こう! 考えるのはあとあと!

 もともと、考えているよりも行動に移す方が得意なのだ。

 離婚届のことは、一先ず陸也さんの話を聞くまで保留にするつもり。

 昨夜、深夜ふと気づくと、背後で陸也が静かな寝息をたてていた。いつの間にか帰ってきていたらしい。

 気づかなかったよ。

 その無防備な寝顔をそおっとのぞき込む。

 ――何かを一人で勝手に決めることだけはしないでください。

 分かってますよ。今度こそ、きちんと約束を守りますからね。

 体を反転させて腕を絡ませ、陸也の夜着に顔を埋めた。

 陸也さんの匂い。ホッとする。

 話ってなんだろう。話すのに勇気が必要なことって……。あーダメダメ。考えない。考えない。 考えると不安になる。だから考えない。

 ただただ、陸也の存在を感じていられるように、柚葉は夜着の腕にしがみついたまま目を閉じた。


 翌朝、熱が下がったのならと、柚葉は後見家の朝食に招かれた。

 陸也と共にダイニングに行くと、お祖父様、お祖母様、海斗夫妻と瑠璃が既に席に着いていた。相変わらずお父様は姿を現さない。柚葉は陸也の隣に席を用意された。

 すっかり迷惑を掛けてしまったお詫びと、看病してくれたお礼を告げると、異口同音に回復のお祝いを返してくれた、ものの、瑠璃さん以外は目が笑っていないようなのは、私の考えすぎだろうか。静香さんは部屋へ来てくれた時と違って、目が合っても軽く会釈する程度で、何だかよそよそしい感じだし……。

 やっぱり招かれざる客なんだろうか。私は……。

 隣の陸也さんは……。

 あ~。

 柚葉は隣を見上げて小さくため息をつき、軽く天を仰いだ。

 ダメだ、いつものアンドロイドフェースだ。

 むしろ、いつもに増して無表情な気がする。

「さぁ、いただきましょう」

 お祖母様の声を合図に、みんなで朝ご飯をいただく。

 後見家の朝食は洋食なのらしい。

 クロワッサンにハーブ入りの小さなパン、デニッシュはアプリコットジャムがのったものと、ラズベリーがのったものの二種類があって、好きなパンを好きなだけとっていいようになっている。あとはレタス、ルッコラ、紫キャベツ、ニンジン、アスパラガス、トマトとツナを乗せた野菜たっぷりのサラダ、それから卵の焼き具合が絶妙なハムエッグ。飲み物は新鮮なミルクと搾りたてのオレンジジュースと香り高いコーヒーが用意されている。

 パンは焼きたてなのかさっくりとして香ばしく、野菜はしゃきしゃきと新鮮で、ハムエッグはハムも卵も滋味豊かなこっくりとした味わいだ。 柚葉は、フレッシュなオレンジジュースをコクリと飲み下し、食卓を囲む人々を見回した。

 料理は絶品なんだけど、何だか静けさが重いんですが……。

 静かな雰囲気の中、朝食は進む。

 ここの家は、いつもこんな感じで静かにご飯食べるのか?

 ふと隣を見ると、陸也はコーヒーしか飲んでいない。

 実家では食事をしないとか、もしかして反抗期ですか?

 だけど、コーヒーしか飲んでいない陸也に気づいているのかいないのか、誰も指摘しないし、食事を勧めることもしない。

 一方、朝ご飯さえしっかり食べていれば、その日一日がすばらしい日になると母に言われ続けて育った柚葉は、それが何だか落ち着かない。

 余計なことだとは思いつつ、意を決して隣の陸也に声を掛けた。

「陸也さん、このアプリコットのデニッシュ、すっごーく美味しいですよ? 食べてみました?」 静けさの中、柚葉の声が響く。

 朝食の席で声を出すのに勇気がいるなんて初めてだよ。静かにしてないといけないのが後見家流なのかもしれないけど、気になるのだから仕方がないよね。

 だって、このままだと陸也さん、何も食べずに済ましちゃいそうだもん。

「……いえ」

 困惑気味に答える。

「味見で少しあげますよ」

 そう言うと、柚葉はデニッシュをちぎって、陸也に差し出した。

 困ったように柚葉を見つめる陸也。見て見ぬ素振りで静かに成り行きを見守る人々。

 柚葉は、黄色いクマキャラのような不自然に無邪気な顔で首を傾げて見せた。

 陸也は眉を下げて小さくため息をつくと、しかし次の瞬間、柚葉の手から直接デニッシュを口にした。

 思いっきり指先まで口に含まれる。

 指先に触れる陸也の唇。絡め取っていく舌の感触。食卓に響きわたるリップ音。

 きゃわわわ! 直接いきましたかっっ!

「本当だ。美味しいですね」

 ぎょっとする柚葉に対して、陸也は余裕の、というよりもむしろ、勝ち誇った笑みを浮かべている。

 わざとだ! 今のわざとなんですね!?

「で、でででしょお?」

 ひきつりながらも、何とかほほえみを返した。 ビックリした、ビックリした、ビックリしたぁぁ。

 その時、ごほん、と咳払いの音がした。

「はしたない。陸也もパンがほしいなら自分で取りなさい」

 しかつめらしい顔をしてお祖父様が(たしな)める。

 しゅん、とうなだれる柚葉。肩をすくめてデニッシュに手を伸ばす陸也。

「お祖父様ったら、堅っくるしいのね」

 間髪入れず、瑠璃が空気を和らげるべく助け船を出してくれる。

 意外な人からも援護射撃があった。

「あら、仲がよろしくて、いいじゃありませんか。若いんですもの。それに、うちで陸也さんがコーヒー以外を口にしているのを久しぶりに見ました。さすが柚葉さんだわね」

 とお祖母様言うと、お祖父様は、ふんと不機嫌そうに鼻を鳴らした。

 横目に、海斗がぶはっと吹き出し、つられて自らも口を押さえながら海斗にナプキンを渡している静香が見えた。

 なになに? そんなにうける場面だった?

 後で聞いたら、女性陣にやりこめられるお祖父様ってのは、かなりレア物だったらしい。

 お祖父様ってば、厳格さんキャラだったんだね。

 絵本を持ってきてくれたことを話したら、陸也さんは更に驚いていた。熱のせいで、誰か他の人と間違えたんじゃないかとまで言うし。

 お祖父様ぁ、私に対してだけキャラ変するのやめてくださいよぅ。信じてもらえないじゃないですかぁ。

 何はともあれ、実に緊張感漂う朝食だった。

 はぁぁ。疲れた。


 食後、静香から部屋に寄ってほしいと耳打ちされて、静香と一緒に二階に上がる。海斗夫妻の部屋は、二階にあるのだ。

 明るい色調の壁紙に、凝った彫りを施した木製の家具。ソファに無造作に置かれたペアクッションが新婚夫婦らしい。

「これを差し上げようと思ったのよ」

 静香は部屋の隅に固めて置かれたバッグや服やアクセサリーボックスを指した。

「あの……これは?」

「これは、私が陸也さんの婚約者だった時代に彼からいただいたものなの。今、柚葉さんに貸してさしあげているガウンもそう。あれも差し上げるわ。というか、あなたに返したいの」

 え……。

「いえ、そんなわけにはいきませんよ。それは静香さんがもらったものですし……」

 いやいや、返すって、それ、もともと私の物ではないですから。

「アクセサリーやバッグはわからないけど、服は陸也さんが作ったものだと聞いているわ。うちの会社は衣料品のデザインも手がけているから」

 え? 陸也さんが服を作った?

 静香さんは、クスリと小さく笑って続けた。

「陸也さんは、もともと家業を継ぐはずじゃなかったから、あまり衣料品に関しては興味が無かったみたいなの。服を作ったと言っても、素案はアトミのデザイナーさんが描いたものよ。素材とか縫製とかの発注を任されたんですって。で、結局、コストパフォーマンスが悪すぎるって、製品にまでならなかったものらしいの」

 はぁ……。

 ってか、陸也さんってば、売り物にならなかったそれを婚約者にプレゼントしたのかい?

 苦笑する。

「でも、よく見てみて。素材も縫製もとてもしっかりしているわ。オートクチュールとしてなら申し分ないでしょうね。だけど、季節ごとに、年ごとに流行が変わる衣料品の世界では、そこまで素材や縫製にこだわる必要がないのよ。一生物の洋服なんて、礼服くらいでしょ?」

 まぁ、そうだろうな。デザインが古くなってしまったものは、あまり着たくないものね。長持ちする必要性はあまり高くない。

「なのに、品質にこだわってしまうのが陸也さんなのね。だからこそ、一生物の建築物を扱えるアトミハウジングにいる方が、彼は生き生きできるんだと思うの。もちろん、柚葉さんが居ることも重要なファクターなんでしょうけど……」

 いや、そこは、私は関係ないと思います。

 だけど……。

 一生住める家。一生居て、落ち着く家。

 一生つきあうものですから、といつも口にしながら対応している陸也さんなら、ありえる話だ。

「だからこれは、陸也さんを一番理解している柚葉さんがもっておくべきものなんだと思うの」

 静香がそこまで言ったところで、奥の部屋から海斗が出てきた。スーツを着込んで、すっかり出勤モードだ。

「柚葉さん、どうかもらってやってください。俺としても兄貴からのプレゼントなんて、彼女に身につけてほしくないですからね」

 あ、まぁ、そりゃ、そうか……。

 結局、それらの品を柚葉はいただくことにした。

 結構かさばるので、宅配便で旧後見家の職場に送ってくれるという言葉に甘える。


 客間に戻ると、大急ぎで仕事着に着替える。

 陸也さんが出かけるときには一緒に出たいからね。

 ブラにつけられた絵の具のシミも、シャツのボタンも完璧に直っていた。

「本当にもう大丈夫なんですか?」

 張り切って準備をしている柚葉に、心配そうに問うサングラス。

「はいぃ。もうすっかり元通りです。今日から、また、よろしくお願いしますっ」

 柚葉の勢いに僅かにたじろいだようすの陸也は、しかしすぐに柔らかく微笑んだ。

「こちらこそ、よろしく」

 おぉ~? 微笑んだ。

 なぁんだ、陸也さんってば、ちゃんとこんな風に柔らかく笑うこともできるんじゃん。

 柚葉もつられてにっこり微笑む。

「あ、あのぉ、昨日いただいた離婚届の件なのですが……」

 一先ず、離婚届のことは、陸也の話を聞いてから考えようと、一晩考えて結論を出した。

「まずは、陸也さんの話を聞いてからと考えていまして……」

 みなまで言わさず、陸也が答える。

「そうでしたね。今夜話します。できるだけ早く帰りますから」

 待っています、と柚葉は神妙に頷いた。


 後見家の人々に挨拶を済ませると、陸也が運転する車の助手席に乗り込んだ。

「ところで、今日はまたサングラスなんですね」 助手席から隣を見上げる。

「あぁ、これですか? これは、サングラス無しだとあなたがちゃんと私を見てくれないからですよ」

 あ~、昨日、サングラス無しの瞳に慣れなくて逸らしちゃってたからな~。

 しかし、鋭いなぁ……。恐るべき観察眼。

 苦笑する。

 柚葉は、窓を半分ほど下ろして外の空気を胸一杯に吸い込んだ。早朝の空気はみずみずしくて少し青っぽい。

 それは夏の訪れを告げていた。


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