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第二十七話 北極星

 ――非常口のような人。

 自分の妻のことを、かつて彼はそう言った。

 その時の私が、そうだったのだとしたら……。 今の私は、陸也さんの……何?

 逆に、陸也さんは私の何なのだろう。


 離婚届を前に、思考停止している柚葉に、陸也は緊張した面もちで、それでも淡々と続けた。

「あれからずっと考えていたんです。五年前のあの日、私は、あなたがすっかり状況を分かった上でサインをしたのだと思っていました。だからあなたの記憶さえ戻れば、何もかも動き出すのだと信じていた。しかし考えてみれば、当時あなたはまだ高校生で、しかもご両親の訃報で混乱していました。一方、私はあなたの誤解力の高さを当時知らなかったし、私自身事故の後でいつもよりも冷静さを欠いていました。だから、あなたがあれは単なる誤解だったのだと言うのならば、契約を白紙に戻す必要があるだろうと思ったのです」

 回らぬ頭に、切れ切れのワードが引っかかる。 契約を白紙に戻す必要がある。

 誤解だったから……。

 そして途方に暮れる。

 ワタシハ ヒトリニナラナクテハ ナラナイ ノ カモシレナイ。

 こんなにも大切で、かけがえのない人だと、ようやく気づいた今になって……。

 遅かったの? 私が気づくのが遅かったから……。

 目に映るすべての物が色を失っていく。

「柚葉さん? 聞いてますか?」

 放心して俯いていると、顎を掴まれて顔を上げられる。

 見慣れない翡翠色の瞳。

 心配そうに見つめるその目は、柚葉の知らない人だ。無意識に、いつものサングラスを探す。

「柚葉さん、ちゃんと私を見てください」

 言われて、柚葉はのろのろと陸也の瞳を見つめた。

「あなたがそんなにショックを受けるとは思っていませんでした」

 少し焦った様子で陸也が言う。

 ショックを受けてる? 私、ショックを受けてるの? そんなことさえ、よく分からない。

 ジブンガ ワカラナイ。

 どんな顔をすればよいかも分からなくって、ただ言われるまま、力なく翡翠色を見つめる。

「こんなことなら、こんなもの、あなたに今渡すんじゃなかったな。いったん返してもらってもいいですか?」

 そう言って手を伸ばした陸也から、柚葉は離婚届の紙を反射的に遠ざけた。

「ごめんなさい……少し考えさせてもらってもいいですか? 私、今ひどく混乱していて。実は、あの契約書が婚姻届だったってこともまだ実感がなくて……だって、誤解で結婚するなんて……ねぇ」

 誤解で結婚しちゃった人なんて、日本中、ううん、世界中探したって私くらいじゃないだろうか。

 虚ろに笑う。

「もちろんです。元々は私が悪かったんです。軽はずみだったということは、重々承知しているつもりです。もしあなたがどうしても嫌だというなら、私は……」

 苦渋の表情を浮かべて続ける陸也に、柚葉はのろのろと考える。

 ……軽はずみ。

 陸也さんにとっては軽はずみ。

 私にとっては誤解。

 そんな結婚に意味はある?

 私との結婚を白紙に戻して、きちんとした家柄の人と結婚すれば、陸也さんは後見家の跡継ぎとしてここに戻れるんじゃないだろうか。あるいは、たとえ跡継ぎとして戻らなくても、もっと良い条件の人と結婚すれば、アトミハウジングはもっともっと楽にやっていけるんじゃないんだろうか。陸也さんが働きづめなのが解消されるんじゃないだろうか。だったら、ここは、私が身を引くべきなんじゃないだろうか。

 ――非常口のような人。

 彼はそう言った。その時の私が非常口だったのだとしたら、もうその役目は終わったってことなんじゃないだろうか。

 非常口が必要なのは非常時のみだ。

 今の私は、ただの重荷なのかもしれない。

 考え込む柚葉の顔を陸也が心配そうにのぞき込む。

「柚葉さん、私はもう行かなければなりませんから、行きます。続きは帰ってから話しましょう。お願いですから、何かを一人で勝手に決めることだけはしないでください。その離婚届は、あくまでも、あなたには拒否権があるという証左(しょうさ)なのです。その為だけに用意したのだということを忘れないでください」

 柚葉が頷くと、不安そうな顔をしながらも、陸也は出かけていった。


 陸也を見送った後、ぼんやりした頭に、つい最近の出来事がいくつもいくつも去来した。天井を見つめながら、思い返す。

 ――問題です。リビングの床で眠っているあなたを私が襲った場合、否、もっと正確に言いましょうか。鍵付きの部屋を用意しているにも関わらず、それを使用せずに無防備な状態で眠っているあなたを私が襲った場合、悪いのは一体どちらでしょうね? あなたか、私か……。

 法律上は夫婦だったというのに、陸也さんはいつだって理性的で……。なのに、だからこそ、鈍い私は何も気づかずにいた。知らない間にたくさんの無理を彼にさせてしまったんだろう。

 一つ、深いため息をつく。


 ――もし自分の夫がよそで下の名前を呼ばれていたら、あなたは嫌ですか? そうですか……では気をつけます。

 だからあの時、陸也さんは、名前で呼んだ里見さんをたしなめたんだ。

 形式ばかりの妻である私を不快にさせないために。たくさんの気を使わせて、なのに、私はそれを知らないままで……。

 もう一つ、深いため息をつく。


 ――抱きしめて頭を撫で撫でするのは、私だけにして置いてください。

 陸也さんってば、あんなこと、まじめな顔で言ってたっけ……。

 どんな気持ちでそう言ったの?


 ――関係ないわけがないでしょう! あなたは私のっ……。

 妻なんだから……。

 続くはずのその言葉を呑み込んだのは、私のためだった? きっとそうだよね……。

 三つ目の深いため息をついて、両手で頭を抱え込んだ。


 前夜の寝不足からか、はたまた下がらぬ微熱のせいか、思い返しているうちに、気がつくとふと眠りに落ちている。

 意識と無意識の間を行ったり来たりしながら、堆積した記憶の中へ沈んでいく。深く深く。記憶は深度を増して……。

 両親の葬儀の日から今に至るまでの、陸也が語ったたくさんの言葉や、彼がとった様々な行動が、いくつもいくつも脳裏に浮かんで、妙に納得したり、自分の鈍さに絶望したり、ため息をついたりして、柚葉は、その日一日をベッドの上で過ごした。

 それらの記憶の断片は、正しい場所に置かれたパズルのピースのようにパチリパチリと噛み合わさって一つの世界を形作っていく。

 あの日、世界が崩れ去ったあの日から、柚葉を支えてきたもう一つの世界が、徐々に姿を現す。 それは、甘く、優しく、息苦しいほどの安心感で縁取られていた。


 進路選択で柚葉が短大を選んだ時、四年制の大学にしなさいとうるさかったこと。

 ――お金の心配などあなたがしなくてもいいんですよ。私がなんとでもします。

 結局、私は言うことを聞かず、少しでも早く社会人になって自立したいからと言い張って、短大に行ったのだった。


 学費の足しにと、こっそり始めたアルバイト先の喫茶店に、陸也が突然現れたこと。

 バイトをするなら善太郎さんの店でしなさいとひどく叱られたっけ。

 ――こんな遅い時間にバイトして、帰りの夜道でなにかあったらどうするんですか。

 誰にも内緒で始めたバイトだったのに、いきなりバイト先にサングラスが現れた時にはビックリしたよなぁ。


 毎晩必ず連絡をよこして、その日一日の出来事を問うこと。

 ――今日は何か変わったことはありましたか?

 私はいつも思っていた。

 一日の終わりに、陸也さんの声を聞くこと、その日あった出来事を報告することは、私の気持ちを落ち着かせる安定剤のようだと。

 叱ったり、嫌味なことを言ったり、でも、時には慰めたり、励ましたり。

 なぜ毎日連絡をくれるのかと問う柚葉に、彼は後見人代理だからと言ってたけど、後見人でさえ、ここまで面倒を見ることなんか普通はないはずなのだ。

 彼は記憶をなくしたわたしの為に、たくさんの時間と労力を惜しみなく割いてくれたのだ。

 こんな私なんかのために……。

 陸也さんの存在を感じない日など一日だってなかったし、就職してからは、尚更、意識しない時間さえなかった。

 なんてうるさい人だろうと思ったこともあったけれど、一日の終わりに、彼と話すと安心した。 それは、真っ暗な夜の海で、北極星を見つける作業に似ていた。

 船人が、大海原であの揺るぎない星を見つけて自分の進んでいる方向を確認するように、彼は、ともすれば迷い、道を失い、途方に暮れて立ち尽くす私の、北極星だった。


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