第二十六話 離婚届
「柚葉さん? どうしたんですか? 誰かに何か言われたんですか?」
困惑した声で、それでもしっかりと抱きしめ返しながら、陸也は気遣わしげに柚葉をのぞき込んだ。柚葉は陸也のスーツに顔を埋めたまま首を振る。
「陸也さんはっ、死んではっ、うううっ、駄目っ、っく、ですよっ」
「はい?」
陸也は首を傾げる。
「突然どうしたんですか?」
「陸也さんはっ、五年前の事故現場に、い、いたんですね。あの時の、妖精王が陸也さんなら、陸也さんも、事故の被害者で、だからあの病院にいたんでしょ? 私、ちっとも気づかなくって、さっき、静香さんから聞いて……」
あぁ、それでですか、と陸也は小さくつぶやくと、柚葉の顔をのぞき込んだ。
「まだ死にませんよ。たぶん。それに、あなたの傍にいて守ると、約束しましたしね。あなたが望むような妖精王ではありませんが……」
柚葉は、その存在を確認するかのようにしがみついた。そんな柚葉を宥めるように、頭を撫でつつ陸也は続ける。
「……柚葉さん。しかし、あの時のことについては、実は、少し話しておかなければならないことがあるのです」
話さなければならないこと?
「なんですか?」
「本当は、あなたの記憶が戻ってから話そうと思っていたのですが、あなたが自分の立場を知った以上、話さなければならないことだと思っています。ですが、私自身、話を少し整理したいし、具合が悪いあなたに話すのも心配なので、熱が下がって、職場に復帰してから話したいと思っています」
「なんですか? 気になりますよぉ」
抱きついたまま見上げて、サングラスの奥をのぞき込む。
「治ってからですよ」
陸也は苦笑しつつ、愛おしげに柚葉の髪を何度も梳きあげた。
「しかし、理由は何にせよ嬉しいものですね。あなたから抱きしめてもらえるなんて。家出していた猫が帰ってきたような気分です」
笑い含みでそう言うと、サングラスを外し、柚葉の額に唇を押し当てた。
ひゃあ!
ひひひひひ額に、ちゅーされた? 猫? 私が猫だから?
動揺する柚葉を抱きしめたまま、陸也は耳元で囁く。
「柚葉さん、その話をする前に、一つ、願い事を聞いてもらえませんか?」
願い事?
動揺のあまりカクカクした動きで見上げる柚葉に、陸也は続けた。
「キスをしてほしいんです。あなたから」
え? キ、キスぅ?
えっと、あの、え~?
更に動揺する。動揺マックスだ。
だって、自分からキスなんてしたことない。更に言ってしまえば、されたこともない。今の額にちゅーでさえこれだけ動揺しているというのに、キスって、やっぱり、あの、その、唇にです? いやいや、でも、それって、つまり、私にとってはファーストキスなわけで……。
うわぁぁ……どうしよう。
どうしたらいいの?
「話す前に、勇気がほしいんです。あなたに嫌われていないと信じさせてくれませんか?」
嫌いなわけない。だけど……。
あぁ、どうしよう。
混乱した瞳で見上げる。
「それって、ゆ、勇気が必要な話なんですか?」 陸也は頷く。
そ、そうか……。勇気が必要なのなら仕方がない……よね? それに、知らなかったこととはいえ、私たちは夫婦なんだし、キスくらい普通のことなんだよね。
いや、でもでもぉ。
それでも躊躇う。
躊躇ってしまうのは、嫌っているからじゃない。嫌うわけがない。今まで何も知らない柚葉を守り導いてくれた陸也に、感謝こそすれ、嫌うなどと言うことがどうしてあるだろう。
躊躇ってしまうのは、単に経験がないからだ。 上目遣いでちら見すると、陸也は待ちの様子。 あわわ、どうしよう。
勇気がほしいのは私も同じだ。
キスするのが嫌なわけじゃない。むしろ、抱きしめてあげたいと思う。どんな思いで自分の瞳の色と向き合ってきたのだろうかと考えると、いろいろ辛かったですねと、抱きしめてあげたい。心からそう思う。
躊躇ってる場合か? 柚葉! 私がキスすることで勇気が出るなら……。
何度も指先を伸ばしては引っ込め、引っ込めては伸ばす。指先がどんどん冷たくなっていく。
「やっぱり無理ですか?」
哀しげに問う陸也に、ぶんぶんと首を振ると、柚葉はぎこちなく陸也の頬に唇を寄せ、軽くチュッと口づけた。
「頬じゃ駄目ですよ」
不満そうにのぞき込む翡翠色の瞳。魅入られたように見つめ返す。
その瞳……サングラスよりも邪悪ではないですか? 強制力高過ぎです。クラクラしてきました。熱が上がってきたかも……。
「だ、駄目ですよ。そんな……。風邪を移してしまいますか……ら」
うわごとのように呟く
「構いません」
「ね、熱がでると辛いですよ?」
「私が熱を出したら、看病してくれますか?」
「そ、それはもちろんしますけど……」
混乱して、息の仕方さえ分からなくなる。胸の奥から熱くて水っぽい感情がこみ上げて、溺れてしまいそうだ。苦しくて……でも目をそらせない。
潤んだ瞳で見上げる。
「では、あなたの熱を移して」
そう言うと、陸也は柚葉の顎を指先でそっと持ち上げると口づけた。
唇から伝わってくる熱。電流が流れたのかと思った。頭の中がショートする。
何度も角度を変えて口づける。
軽く触れられただけで体中がビリビリと痺れているというのに。頭の中が真っ白になって、何も考えられなくなっているというのに。
「りっく……やさ……んっ、んんっ」
口づけはますます深く激しくなっていく。
気づけば、いつの間にかベッドの上に押さえつけられていた。
絡み合う舌。混ざり合う吐息。時折漏れる甘いため息さえ絡め取ろうとしているかのような激しい口づけ。
柚葉の手首を押さえつけ、封じ込めるように何度も口づけながら、ささやく睦言。
「……ずっと、こうしたいと思っていました。もう、あなたが何も知らないままで構わない。あなたの何もかもを奪い取って、自分のものにしてしまおうと、何度も、何度も思いました」
陸也さんって、こんなに感情的な人だったっけ?
せっぱ詰まった声。乱れた艶声。
「陸也さんっ……」
やっ、それは、まだ、心の準備が……。
混乱する頭で無意識に抵抗すると、しかしあっけなく拘束は解かれた。
「でも、駄目ですね。きちんと話をしておかなければ、きっと許されない」
許されない? 誰に?
息を乱して呆然と横たわっていると、掛け布団をふぁさっと掛けられた。
外していたサングラスを掛けると、急に陸也の声のトーンは冷静になった。
「とにかく、早く治ってください。あなたの熱が下がらないと話せませんから」
そして、翌朝。
ぴぴぴぴ。
音とともに手のひらが差し出されて、自分では確認する間もなく体温計を取り上げられる。
「七度五分。まだ熱がとれませんね」
陸也は眉根をぎゅっと寄せた。
さっきまで隣で私を温めていてくれた彼は、すでに黒スーツに身を包んでいる。いつもと違うのは、サングラスは掛けずに胸ポケットに差し込んでいるところだ。
熱が下がらない?
そうでしょうとも。だって、昨晩から熱が下がる要素なんか一つもなかったと思うんですよ、私。
契約書と呼ばれていた婚姻届を確認し、大混乱している私に、キスさせるとか、夫婦だってことが分かったのだから問題なしですね、などと言って一つのベッドで眠るとか、いきなりハードルあげすぎだと思うんですよ。
いえ、何をしたわけではないですよ?
あの後、熱、絶賛上昇中につき、悪寒で震えていた私を温めてくれただけだったし。それに、陸也さんは疲れていたらしく、あの後は、大した会話をすることもなくすぐ寝ちゃったし。
背後から聞こえてくる穏やかな寝息。
お陰で温かかったですけど……ね。
柚葉の手を包み込む大きくて温かい手のひら。 柚葉の冷えた両足を挟み込む温かな脚。
体は素直に解けていくのに、気持ちがあわあわと硬直する。
眠れたんだか、眠れなかったんだか、自分でもよく分からない。
「柚葉さん、私はそろそろ出かけます。今日も一日、大人しくしていてください。それから、出勤前ですが、一先ず、これを渡しておきます」
「なんですか?」
柚葉は首を傾げる。
陸也は、懐から折り畳まれた紙を取り出した。手渡されたその紙を広げてみて、柚葉は息を呑む。
離婚届。
それには既に陸也の名前が記入されていた。
「……」
これって……これって……。
頭の中が真っ白になった。




