第二十二話 妖精王の正体
瑠璃と話したり、ポーズをとっているうちに、すっかり陽は落ちてしまった。ブラインドを下ろした部屋の中、ひとりライトに照らされる。
「瑠璃さぁん、これ、後どのくらいかかりますか? もうそろそろ、私、終業時刻なんですが……」
祈りのポーズをしたまま、泣き言を並べる。
さっきからポーズをとりながら、早く服が戻ってきますようにとずっと祈っているのだけれど、祈り方が悪いのか、なかなか願いは叶わない。
瑠璃は、紅茶を持ってきた人に人払いを命じてくれてはいたが、誰か来るんじゃないかと内心気が気じゃない。
こんなところ、人に見せられないよぉ。
薄衣は、冗談抜きで薄いので、光の加減によっては透けて見えてしまう。つまり、ほとんど裸も同然なのだ。
無意識に背中を丸めてしまう。
「柚葉さん、もっと背筋を伸ばして! 背中を丸めないの。あと、腕をもっと上げて」
瑠璃さんってば、聞いてないよぉ。いつ終わるのかって、私の質問、ちっとも聞いてないよぉ~。
その時、ドアをノックする音がして、外から年輩の女性の声がした。
「瑠璃お嬢様、家庭教師の先生がお見えですよ。すぐにお部屋へいらしてください」
「あら? もうそんな時間? いっけなぁい」
終わり? 終わりなの?
救われた気分で、喜々として瑠璃を見つめる。 しかし瑠璃は慌てて画材道具を片づけているばかりで、柚葉のことなど忘れているのでは、と首を傾げたくなるような様子だ。案の定、そのまま部屋を出て行きそうな勢いの瑠璃に、柚葉は慌てて声をかけた。
え~、ちょっとぉ、私の服ぅぅ。
「瑠璃さんっ、私の服は?」
「あ、そうだった。小野田さん、柚葉さんの服はどうなってるかしら?」
そうだった、じゃないよぉ。
「それでしたら、染み抜きに苦戦してまして、ようやく今乾かしているところなのですが、もう少しかかるかと……」
柚葉はたまらず声を張り上げた。
「もう、生乾きでいいですから返してくださいぃ~」
「そうですか? では、担当の者に伝えますので」
「そう言うことらしいわ。じゃ、私、行くわね。ご苦労様でした。またね」
ちょ、ちょっとぉ。
「この格好で置き去りですかぁ? 誰か来たら、私は一体どうすればいいんです?」
ほとんど泣きそうだ。
「大丈夫よ、このプレートをドアに掛けておくから」
そう言って、瑠璃は『立ち入り禁止 入っちゃだーめ』という文字の下に、ウサギがしーっと口指を当てているプレートをぶら下げて見せた。
なに? そのちっとも効果がなさそうなプレートは……。
不満気に瑠璃を見つめる。
「大丈夫よぉ。このプレートが掛かっている時には誰も入らないから。今までもそうだったし」
それ、瑠璃さんがこの部屋にいないってことを知ってる人には何の効果もないんじゃ……。
「じゃ、もう行くわね」
瑠璃はそう言い残すと、柚葉を残してさっさと部屋を後にした。
ええええ~。そんな! 瑠璃さぁぁぁん!
容赦なく夜は濃くなっていき……一人うずくまるアトリエの隅っこ。
どうしよう。戻ってこないよ~。
もうかれこれ三十分は経ってるんだけど、ブラどころか、ボタン付けだけのはずのシャツさえ戻ってくる気配がない。しかも、何の作業もないはずのズボンまでなぜ持って行っちゃったのか。
もぉ~さっぱり分からないよ。
お母さぁん、私の服、どこに行ったんでしょうね。
「だいたいさぁ『またね』って何よぉ。もう二度とこんなことしないんだからぁ」
一人ぶつぶつと文句を言う。
薄い布でもかき集めれば透けないだろうと、たぐり寄せてみたり、足音がする度に耳をそばだてみたり。今か今かと待っているのだが、アトリエのドアをノックする人は誰もいない。
これは、もしかして忘れられてしまったんじゃないだろうか。
しだいに心細くなってくる。
どうにかして星霜軒に連絡取れないかなぁ。
柚葉は星霜軒に少しばかりだが着替えを置いてある。ふいのお泊まり用なのだ。
同じ都内だし、おかみさんに、替えの服を持ってきてもらえないかな。でもここ何区だっけ。あ~、でもでも、今忙しい時間だしなぁ。
とはいえ……。
そもそも、携帯を部屋に置いて来ちゃったんだよねぇ。
佳乃と話したときに、電池残量が少なくなっていたのに気づいた柚葉は、昼休みにいったん部屋に戻り充電しておいたのだ。そのまま置きっぱだ。
まさか、こんな状態でこんな場所に放置されるなんて、想像もしなかったもんなぁ……。
誰か事情を知らない人が入ってきたらどうしよう。こんな格好してるなんて、何も知らない人が見たら変態みたいじゃない?
どうしよう。万事休すだよぉ。
もぞもぞと部屋の奥へ奥へと移動する。部屋の奥には、今まで瑠璃が描いてきたらしい絵画がたくさん保管されていた。その絵に隠れるように身を潜める。
どうしよう。大声で助けを求めるか、もうこの際だから、どこかの部屋に忍び込んで誰かの服を拝借しちゃおうか。……いやいや、やっぱそれはダメでしょ。せめて何か大きめな布でもあればなぁ。
ふと思いついて窓を見るが、ブラインドなので使えそうにない。
なんでカーテンじゃないのよぉ。
そう愚痴ったところで盛大なくしゃみがでた。 はっくしょーん。
あたりはすっかり夜の気配に包まれている。気温が下がってきたようだ。
くしゃみをした弾みで、身を寄せていた絵が数枚、バタバタッと倒れた。
あーあ。あ~、もう本当に今日はついていない。涙目になりながら元に戻していると、ふと一枚の絵に目が留まった。
あれ? あれれれれれ? これ……。
その絵はやはり肖像画だったのだけれど、丘の上に佇むその人物には見覚えがあった。
少し茶色がかった柔らかそうな髪に、翡翠の瞳。
妖精王!?
どうして彼の絵がここに? いやいや、だって、あれは私の夢の中の登場人物のはずで……。 これは一体……誰なの?
呆然と絵と対峙する。
その時、ドアをたたく音が聞こえた。
はっと我に返る。
服持ってきてくれたんだぁ! 良かった。忘れられてなかった。
薄衣をかき集めて引きずりながらいそいそと奥から出ていく。
「もぅ~、遅いですよぉ。私、てっきり忘れられたのかと……」
そう言いながら、部屋の中央まで進み出たところで、入ってきた人と目があった。
いや、目と言うよりも……。
瞠目して立ち止まる。
それは相手も同様だったようで、口を半開きにしたまま佇むサングラス。
え? なんで? なんでここに陸也さんが?
ぎゃぁぁぁぁ!
慌てて再び絵画の森の奥に身を潜めた。陸也の背後には運転手の竹本さんもいる。
「あれ? 柚葉さん居ませんか? 瑠璃お嬢さんのアトリエに連れて行かれたと聞いたんですが……」
竹本さんの声がした。
約束をきちんと果たしてくれたのは感謝しますが、竹本さぁん、タイミング悪すぎですよぅ。
次いで困惑した陸也の声が聞こえてきた。
「居た。居たんだが……竹本、すまない、少し外してくれるか? しばらく誰もこの部屋に入らないように外で見ていてほしいんだが」
「え? あ、はい。分かりました」
怪訝そうながらも、理由を問うことなく竹本さんが部屋の外に出て行く気配がした。
陸也さん、人払いしてくれたらしい。
よかった。……いや、待てよ? 良くないよ! そうだよ! どどどどどどどーしよう。私、陸也さんと対峙する心構えが……。
できていなかったのを思い出す。
蔵に幽閉されていたという噂。佳乃に旧後見家のことを話してしまったこと。
自分が知ってしまったことや、してしまったことを今どうしても話さなきゃいけないってわけじゃない。だけど知ってしまった以上、どんな風に接するべきなのか、皆目分からなかった。
そんな状況なのに、こんな身ぐるみはがされた状態で……。
混乱する。
そもそも、身ぐるみ剥がされて懲らしめられるのは陸也さんの奥様のはずだったんじゃないの? そうだよ。奥様の……はず。あれ? いやいや。まさか!
ひとりパニクっていると、うずくまっているすぐ真上で声がして、柚葉は文字通り飛び上がった。
「柚葉さん。これはどういう状況なんですか? できれば説明いただきたいのですが」
「陸也さんっ、あの、その、これはっ……」
柚葉の返事に、おや? と陸也は首を傾げた。「どうしました? あなたが私のことを名前で呼ぶなどと……」
あっ、今、無意識に名前っ。
かぁぁ、と顔が熱くなった。真っ赤になる。
「こっ、ここで、後見さんって呼んだら、みんな後見さんで、さっきひどい目にあっちゃって……」
動揺しすぎだ。自分。落ち着け!
「私を、呼んだんですか?」
幽かに喜色を掃いて首を傾げる陸也に、ますます動揺する。
「あのっ、それはっ、そのっ、つまりっ……陸也さんは私の上司でっ、だからっ……助けを……その……必要としたもので……あの……」
しどろもどろの柚葉の説明に陸也が苦笑する。「別に、状況を説明しなさいとは言っていませんよ。もっとも、その呼び方はここを出てもそのままでお願いしたいですね。それで?」
この格好は? と問いながら、陸也は柚葉の前にしゃがみこんだ。
視線が、柚葉の肩から胸、床にぺたりとつけた膝まで滑るように流れる。最後にサングラス越しの視線が、もの問いたげに柚葉の目をのぞき込んだ。
「み、見ないでくださいぃっ」
視線が、薄衣を透して突き刺さってくるみたいだ。顔が火照る。なのに、体はカタカタと小刻みにふるえた。
無駄とは知りつつ、薄衣を胸元にかき集める。 今までの経緯を話さなきゃと、あわあわしながら頭の中で話をまとめていると、思いもよらない言葉が降ってきた。
「綺麗だ」
はい?
「あの……?」
ふと見上げた柚葉の顎を陸也の長い指が掴まえる。
「震えてますね。寒いですか?」
え……?
「い、いえっ」
寒いんだか、単なる動揺なんだか、もうすっかり自分でも分からなくなっていた。潤んだ瞳でサングラスの闇をのぞき込む。
触れられた指先から溶け込んでくる熱。ホッとするような、ドキドキするような、二律背反の感情。混乱する。
なのに、更に混乱を誘うように、指が肌の上を滑り落ちていく。顎からうなじのラインをとおり、首筋を伝って肩へ。肩から胸のふくらみへ。撫でるように。なぞるように。体の奥底にひそむ本能を目覚めさせるかのように……滑り落ちる。指。
「あ、あの……?」
ガチんと硬直する。
「布を透した肌の色も見たいけれど、サングラスをはずさないといけないから……」
「そっ、そそそそ、そんなの見なくていいですっ! そんなことではずさないでくださいっ。それよりも、早く私の服を持ってきてもらえるように頼んでくださいっ」
「なるほど、服をクリーニングにでも出しているという状況ですか」
「そうですよっ! ってか、それ以外にどんな理由があると思うんですかっ! 私が好き好んでこんなところで服を脱いでるとでも?」
「てっきり私に見せるために脱いでるのかと期待したのですが……」
そう言って小さく笑うと、陸也は自分の黒スーツを脱いで柚葉に羽織らせた。
「なっ、何を言って……」
はいぃ? なんでそんな風に思えるのでしょうか。そっちの方が不思議なのですが……。
動揺を必死に隠しつつ、しかしありがたく上着を借りた。
しかし上着を借りられてホッとしたのも束の間、羽織らせたついでのように、温かな手のひらが腰のS字カーブを撫でていく。
「……っ」
動揺して見上げると、上着の上からぎゅっと抱きしめられた。
え? ええっ?
再び硬直したまま腕の中。
紡がれたのは謝罪の言葉だった。
「すっかり体が冷えていますね。遅くなってすみませんでした。クレーム処理で出かけていたのですが、どうやらそれも瑠璃の仕業だったらしくて、戻ってくるのに時間が掛かってしまいました」
単なる謝罪の言葉のはずなのに、なんだか柚葉は、頭がクラクラしてきた。
抱きしめる力が強すぎるんじゃないでしょうか。酸欠が疑われるのですが……。
必死に酸素を取り込む。だけど一向にクラクラもドキドキも収まる気配はなかった。
どうしよう、ちっとも冷静になれないよ。
空回りする思考で必死に考える。唯一、今の言葉で分かったことがあった。
つまり、陸也さんは何もかも瑠璃さんの仕業だと分かっているということ。
そして、心に湧き上がる疑問。
瑠璃さんがそこまで計画的に私をここに連れてきた理由って何? そもそも、どうして瑠璃さんは私のことを知っていたの? それに、あの妖精王の肖像画は……。
どうしても行き着いてしまう結論は、柚葉を更なる混乱へと落とし込む。
目眩がするよぅ。
もしあれが夢じゃなかったんだとしたら、陸也さんはあの時の妖精王?
「……陸也さん」
「なんですか?」
スマホを使い、柚葉の服を担当している人を探していた陸也を見上げる。もう一方の彼(陸也)の腕は、守るように柚葉の肩を抱きしめたままだ。
契約を結べば、私を守ってくれると彼(妖精王)は約束してくれたじゃない。
推測が確信に変わる。
「サングラスをはずしてもらえませんか?」
柚葉の言葉に、陸也の顔に軽い動揺が走った。