第二十話 アトリエ
「あのぉ、瑠璃さん? 私、仕事中なんですよ。後見さんに叱られますからっ」
自己紹介もそこそこに、ちょっと来てと手首を掴まれたまま門へ向かう。柚葉の言葉に、瑠璃は面白そうに振り向いた。
「あら、私も後見さんよ? いいわ。私が許可します」
いや、そうじゃなくってぇぇ。
「瑠璃さんじゃありませんよっ、り、りっく也さんのことですっ」
呼び慣れてないし、この前練習させられたことを思い出して逆に噛んじゃったし。も~、あの練習、ぜんっぜん練習になってないからぁ。逆効果だからぁぁ。後見さんめ~。
「ねぇ、あなたは誰に雇われているの?」
「り、陸也さんですっ」
よしよし、今回は比較的スムーズに呼べた。
「じゃあ、その陸也さんは、今どこからの依頼でリフォーム作業をしているのかしら?」
そ、それは……。
「今回の施主は後見本家。そうでしょ? その本家の人間が用事があるからちょっと来てほしいと言っているのよ? それを聞くのはあなたの仕事ではないの?」
いや、まぁそれはそうなんですけどぉ……。でも、私の本業はお掃除なんだし……ね。
「でも、私は施主様と直接交渉するような仕事は任されていませんし……」
「あなたじゃなきゃできない仕事があるから、来てほしいと言っているのよぉ」
瑠璃は楽しげに歌うように言って笑う。
天使なんだか小悪魔なんだか分からない魅惑的なほほえみ。
ってか、この子、本当に中二? ああ言えばこう言うところは、さすが後見さんの妹。
困惑したままずるずると手を引かれ、ついには車に連れ込まれる。
ええええ~、ちょっと、車はヤバいでしょ? どこに連れて行くつもりなんです?
「あの、あまり時間がかかるようなら、私、許可をいただかないと。勝手に職場を離れるわけには……」
瑠璃は軽快に「分かったわ」と言い、車のドアが閉まるやスマホを取り出した。
「中川? 私よ。しばらく柚葉さんを借りるわ。お庭にいて暇そうだったから。構わないでしょ?」
携帯端末の向こうで、慌てた中川さんの声が聞こえた。
――瑠璃お嬢様! いけません! 陸也様の許可なしに勝手なことはお控えくださいっ!
ガタタンッ と椅子が倒れるような大きな音がして、通話がとぎれる。
「竹本、出してちょうだい」
「ええっ? でも……」
運転手は困惑したような声で振り返る。まだ若い竹本という運転手は、柚葉と目が合うと軽く会釈をした。
「いいから、早く!」
瑠璃は再度命令する。彼女は命令することにとても慣れているようだ。
今、中川さんは、旧後見邸の事務室に連絡要員として詰めている。たぶん今、後見さんは席を外しているのだろう。中川さんは瑠璃からの電話で、慌てて出てきているのかもしれない。
走り始めた車の後部座席からリアウィンドーを振り返ると、果たして、慌てた様子で駆けだしてきた中川さんのごま塩頭が見えた。
あ~、危ないよ。中川さん、いい年なのに、転んじゃう。
「止めて! 中川さんが転んじゃう!」
あああ~。こんな子供みたいに簡単に車に連れ込まれちゃいけなかったんだ、きっと。
柚葉は頭を抱える。
「行って」「止めて」「行って!」「止めてっ」 を繰り返し、スピードがゆるんだ車の窓を開けて、柚葉は叫んだ。
「中川さん、ごめんなさいっ。用事が済んだらすぐに戻りますからって、後見さんに伝えておいてくださいっ!」
瑠璃と柚葉を乗せて、後見家の車は都内を疾走する。
「瑠璃お嬢さん、勘弁してくださいよぉ。俺、陸也さんに殺されますよぉ」
運転席から情けない声が聞こえる。
「竹本、そんな情けない声出さないの。殺されそうになったら、さすがに私が何とかするわよ」
瑠璃は不機嫌そうに口をとがらす。その一方で、柚葉に視線を戻すと、上目遣いで媚びた笑みを浮かべた。
「怒ってる? ねぇ、柚葉さん、怒ってるの?」 むっとした顔で黙り込む柚葉を瑠璃がのぞき込む。さっき手首を掴まれていた方の腕に腕を絡ませ、覆い被さるようにのぞき込んでくるさまは、犬のアンジェロに襲われた時を彷彿とさせる。
なんだか慕ってくれているようなのは伝わってくるのだけれど、もう少し離れましょうよ。圧迫感ハンパないし、きれいな顔が近すぎですっ。
やっぱ絶対、彼女は天使じゃなくて、小悪魔の方だ~。
都内にある後見本家は、洋館風のかなり歴史を感じさせる建物だった。エントランスに車を横付けすると、竹本さんが甲斐甲斐しくドアを開けてくれる。
「ありがとう」
瑠璃に手を引かれるまま車を降り、竹本さんに礼を言うと、彼は少し弱ったような笑顔で、陸也さんには柚葉さんの居場所を俺から伝えておきますからご心配なさらず、と耳打ちした。
初対面の割に竹本さんって人は、いろいろ心得ているお人らしい。
ってか、後見さんが細かくてうるさいってことは、きっと周知の事実なんだね。
何はともあれありがたいことだと、柚葉が再度礼を言うと、瑠璃が嫌そうな顔をして竹本さんを手で追い払った。
「竹本は余計なことをしなくていいからねっ」
後見本家の長い廊下を奥へ奥へと進む。途中で会った幾人かの人は、瑠璃を見かけると、立ち止まって丁寧にお辞儀をする。
もしかして、あの人達って使用人? つまり社員ってこと? ってことは、私もあんな風にしなきゃいけないってことじゃないかい? 後見さん……じゃなくて陸也さんに対して、私はあまりにも普通に接していた気がする。
ひとり青くなる。
瑠璃に手を引かれているので、当然彼らは柚葉にもお辞儀をする。
やばいよ~。私、やばいよね? 私なんかにお辞儀しないでくださいよぉ。私もただの使用人ですからぁぁ。
居心地の悪さに体を縮め、なるべく顔を見られないように俯いて歩く。
「瑠璃?」
張りのあるバリトンの声に瑠璃が立ち止まる。下を向いて歩いていたせいで、柚葉は瑠璃の背中に追突してしまった。
いたた。
「あら、海斗兄様ごきげんよう。こんな早い時間にどうなさったの? 珍しいわね」
海斗? 後見海斗! 後見さんの弟だ~!
驚いて視線をあげると、後見さんとは対照的ながっちりした体型の大男が立っている。後見さんも背が高い方だけれど、すらりとしている後見さんとは、骨格の造りが違うんじゃないかと思うほどのがたいの良さ。
後見海斗は訝しげな顔で柚葉を見下ろすと、顎をしゃくって問う。
「そちらは?」
「柚葉さんよ。連れてきちゃった。いーでしょう!」
瑠璃は得意げに柚葉の腕に絡みついた。柚葉は困惑して心持ち身を引く。
いや、いーでしょう、じゃないでしょう!
海斗は一瞬目を見開いてから、眉間にしわを寄せた。心なしか怯えているようにも見える。
気のせい……かな?
「そんな爆弾を持ち込んで、どうするつもりだ?」
海斗はうなった。
爆弾? 私が爆弾なんです?
柚葉はぽかんとする。
「爆弾ですって? いいわね。その表現いいわ~」
そう言いながら瑠璃が爆笑する。一方の海斗は苦いものを飲み下したような顔になった。
「笑っている場合か? 陸也を怒らすとどんなことになるか……」
ど、どんなことになるのですか?
柚葉は唾をごくりと飲み込む。一方、瑠璃は鼻で笑った。
「ふふん、海斗兄様は臆病ね。爆弾の存在意義はね、爆発してこそなのよ」
え? 爆発してこそ? 爆弾が? ちょっと待って、さっき私のことを爆弾って言ってませんでした? 爆発? えぇ~?
行くわよっ、と柚葉の手を引いて再び歩きだした瑠璃に、海斗が言葉を投げつける。
「俺は警告したからなっ。後は知らんぞ」
瑠璃は、そんな海斗を振り向きもせずに後ろ手でバイバイをした。
「あのぉ、瑠璃さん? 海斗様もあぁおっしゃってることですし、やはり、私は後見さんが怒る前に帰った方が……」
「あら駄目よ。帰ったら後見さん、つまり私が怒るから~」
「いや、だから、あなたじゃなくてっ……あの、その、り、陸也さんのことですよぉ」
私ってば、この期に及んで、名前呼んで照れてる場合か? ってか、無視ですか? こんなに頑張って名前呼んだのに無視ですかぁ?
相変わらず手を引かれたまま、ずるずると瑠璃の後についていく。
連れて行かれたのは、アトリエだった。
ドアを開けたとたん学校の美術室の匂いがした。
油絵具の匂い。そして壁一面に飾られた、たくさんの肖像画。風景画や静物画もあるけれど、圧倒的に多いのが人物画。
走り、跳び、踊る、躍動的な人物たち。大胆な構図。だけど繊細で緻密な筆遣い。
「これ、全部瑠璃さんが描いたんですか?」
「そうよ」
へぇぇ。すごい上手なんだ~。
感心してキョロキョロと見回す。
部屋の中央には、描きかけのカンバスが置かれていた。そこには薄い鉛筆で、体の構図だけをデッサンした絵が描かれている。
座っている女の人の絵……かな?
その女性は薄衣を纏っていた。その下は何も身につけていないらしく、露わになった鎖骨。胸元で合わされた布からのぞく双丘。布はぎりぎり胸の頂を隠していて、そこから床までドレープを作って豊かに波打っている。脇からウエストにかけたサイドの布はぴっちりと体の線に沿うように巻かれていて、見事なS字ラインを描いていた。
ぺたりと床に座った足が布からはみ出していて、それがひどく繊細で、彼女がまだ少女であることを主張していた。
少女は……祈っていた。
布が肌蹴ているのにも気づかぬほど一心不乱に、なりふり構わずに、少女は祈っているように見えた。胸が痛くなるほどの祈りの姿勢。
どうしてこんなにも胸に迫ってくるんだろう。まだ線だけなのに……。
何か神々しいものを見たようで、シンとした気持ちになる。
「瑠璃さんは、絵がお上手なんですね」
感動のあまり、賞賛の言葉が自然と口をついて出た。しかし瑠璃は、嬉しそうな様子もなく、険しい瞳で、悔しそうに唇を噛みしめながらこう言った。
「その絵のモデルの子ね、死んだの」
えっ?
「死んだと思うことにしたの」
はぁ?
つまり、死んでないの?
「だから、代わりのモデルが必要なのよ」
はぁ……。
「あなた、ちょっと服を脱いでそこに座ってくれる?」
ええええ?
何言ってるだ? このお嬢様は?
「わ、私は絵のモデルなどやったことがないので……」
たじろぐ柚葉に、瑠璃はイライラした様子でカンバスの前にある壇上を指さす。
「経験なんかいらないわ。ほら、さっさと脱いで、そこに座りなさいっ」
わー、でた! お得意の命令口調!
「わ、私は施主様である後見さんが、ご用があるからということで来たのです。ご用がないようなので、これで失礼させていただきますっ」
あたふたとドア口へ駆け寄ると、背後から羽交い締めにされた。
ぎゃー!
「ご用は脱いでそこに座ることよっ。あなたじゃなきゃできない仕事って言ったでしょ?」
「放してくださいぃぃ。そんなご用は私の仕事ではありません。助けて! 後見さぁぁん!」
そう言って、ドアの外に転がり出た瞬間、ぶちぶちぶちっ、と嫌な音がして、シャツのボタンが全部弾け飛んだ。作業着といっても、暑かったので着ていたのは開襟の綿シャツだ。シャツは景気よく肌蹴て、中のブラが露わになった。
ぎゃー、普通はなすでしょ? ボタンが飛ぶ前にはなすでしょぉ?
しかも、廊下には私の助けを呼ぶ声に反応して、家中の後見さんが何事かと顔を出したので、堪らない。
「何事だ?」
「何事じゃ?」
「何事ですの?」
上から海斗氏、後見家当主の父親つまり祖父、祖母のようだ。
ぎゃわわわわ、ここで後見さんと呼んではいけなかったよ。もっとちゃんと真面目に後見さんを名前で呼ぶ練習をしておくべきだったよ。
ごめんなさい、陸也さん。私が悪かったです。陸也さんの言うことを聞いておくべきでした。おぉぉぅ。
「……な、なんでもありません。お騒がせしましたっ」
胸元をかき合わせ、慌ててアトリエに引っ込むと、満面の笑みで瑠璃が立っていた。
「さぁ、大人しくシャツを脱いでね。ボタンをつけなきゃでしょ? 着たままだと、私、間違えて刺してしまうかもよ?」
その指先には銀色に輝く縫い針。
脱がなきゃ、間違えなくても刺す気満々なんじゃない?
呆然としたまま、柚葉は手を引かれてアトリエの中に戻ったのだった。