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第十八話 蔵の家

 高い位置にある窓は小さくて、朝なのに部屋の中は薄暗い。僅かに差し込む早春の光は、白く、儚く、弱々しい。世界から切り離されてしまった気分になる。

 蔵なんかに住むもんじゃないな。

 ほの暗い水底に沈んでいるみたい。あるいは、静謐(せいひつ)な鳥籠の中でまどろんでいるような……。

 大事なことを忘れたまま、何もかも諦めて、永遠に眠ってしまいそうだ。

 後見さんから渡された金色のごつい鍵は、蔵の鍵だった。

 今回柚葉が寝泊まりする部屋は、旧後見邸の庭の一角にある蔵を改装した住まいだ。蔵といっても、快適に過ごせるように改修してあって、キッチンもトイレも今どきの使いやすそうなものが付いている。もっとも風呂は付いていないので母屋のを借りなければならない。

 機能的には普通の家とほとんど同じなのだけれど、さすがに蔵だったせいで、窓らしい窓がなく、壁が厚い。

 昼でも暗いという欠点を除けば、蔵の家は、しかし存外快適なのらしい。壁が厚いせいで、夏はさほど暑くはならず、冬も寒くなり過ぎないのだと、後見さんは言った。


 今現在改装中の母屋は、離れを入れれば十部屋以上あろうかという、古くて大きなお屋敷だ。昔、旧華族の別邸だったのだとか。

「ううぅ……」

 目覚まし時計をのろのろと止めて、柚葉は呻きながらベッドから這いだした。朝は苦手だ。

 ご飯が炊きあがる前に、今朝は鮭を焼く予定。昨夜星霜軒(せいそうけん)でもらった塩鮭。脂がよくのっている。塩加減も絶妙。ふっくらと炊けたご飯と一緒に頬張ることを考えただけで涎が出る。それに小松菜とおあげの味噌汁と、これまた星霜軒でもらってきた白菜漬けをざっくりと刻む。味噌汁は滋味豊かな味わいだし、白菜漬けはほどよい酸味が食欲をそそる。

 脳内では、あっという間に理想的な朝食ができあがるんだけどなぁ。あ~だめだ。もう起きなきゃだ。

 理想の朝食はひとりでやってきてはくれない。 リビングに行くと、後見さんは、既に自分で淹れたコーヒーをソファで飲みながら新聞を読んでいた。オフホワイトの皮張りソファ。新顔だ。

 今までは食卓用の椅子しかなかったので、後見さんは毎朝そこでコーヒーを飲んでいた。

 でも、このソファは新顔でありながら、祖父の代からあります的な威厳を放ってここにあった。

「おはよーございます。今日も早いですね」

 きちっと整えられた髪とサングラス。彼は朝が強い人なのだ。羨ましい。

「おはようございます。もうすぐご飯が炊きあがるようですよ?」

 わわわ、急がなくちゃ。

 柚葉はあたふたと台所に向かう。


 結局、残りの休暇を星霜軒を手伝うことで過ごした。休暇最後の日、柚葉は星霜軒の座席の座布団カバーを付け替えた。ようやく縫い上がったアップリケ付きキルトカバーだ。藍色に星座をモチーフにしたアップリケ。星霜軒が成層圏になった気がしないでもない。星座はまずかったかな。

 実はこのカバー、地の生地を防炎にしてある。いざという時には、お客さんに被ってもらって避難誘導するという計算なのだ。

 善太郎さんは喜んでくれた。でも、一番感心してくれたのは、後見さんだったかもしれない。

 その場に後見さんが居たのは、休暇最終日に旧後見邸の宿舎へ連れて行ってもらう約束になっていたからだ。もっとも、彼はほとんど毎日のように星霜軒に現れて、まるで久しぶりに帰ってきた息子のようにもてなされていたけれども。

 あなたはいつ自宅に帰っているんですか? 奥様は怒らないんですか? と心配になったほどだ。

 後見さんは星座柄の座布団を手にして、素材を確認するように何度か表面に手を滑らせた後、感心したように呟いた。

「なるほど、カーテンで使う意外に、こんな使い方もあるのですね。そうか、だから燃えなかったのか……」

 と意味不明のことを呟いてから、

「火を扱う店舗にはうってつけですね。これはいいな」

 と付け足した。


 あのときの言葉は……。

 じゅわじゅわと脂を滴らせながら焼けている鮭をひっくり返しながら、柚葉は首を傾げる。

 防炎布と知らずに、それを使ったことがあるってことなのかな?

 柚葉は、あのタイプの布を使うのは今回が二度目だった。防炎布は、普通の布より値が張るし、カラーバリエーションも少なめなので滅多に使わないのだ。最初に使ったときも今回と同様、目的があって使った。前回作ったのはキルトケット。両親の結婚記念日に贈ったものだった。

 あれは結局事故の後、見つからなかったんだよね。燃えちゃったんだろうか。防炎といっても、あまり当てにならないものなのかもなぁ。あまり当てにしないでって、善太郎さんにも言っといた方がいいかも。

 味噌を溶いてサッとひと煮立ちさせると、火を止めた。

 ほどよく焦げ目がついた鮭の皮は、香ばしくカリッと焼けているし、ご飯もふっくらと炊けた。味噌汁をお椀によそう。もわもわと湯気を上げているご飯と味噌汁を、いつものダイニングテーブルに並べると新聞を読んでいる後見さんを呼ぶ。

 鮭には柚子の皮をおろしたものを振りかけ、白菜の漬け物にはすりごまをたっぷりまぶして軽く醤油をかけた。完成だ。

 いただきます。

 後見さんはお箸をとてもきれいに使う。何度見ても惚れ惚れするほどだ。

「この鮭はとても美味しいですね。星霜軒のですか?」

「そうですよ。塩加減が抜群なんですよね」

 これは善太郎さんの手作りなのだ。生鮭を仕入れて塩を振ってある。手作りのいくらの醤油漬けももらっている。あれは夕飯にいくら丼にする予定。今から楽しみだ。そう言ったら、後見さんは、それは楽しみですねと比較的嬉しそうな顔でそう言った。比較的ね。比較的なんだよ。

 後見さん、喜んでんだか、悲しんでんだか、今一つよく分かりませんよ。サングラスはずしませんか?

 そう言いたいのを、柚葉はぐっと飲み込む。

 里見さんには、どうしてサングラスをはずさないのか甘く訊いてみたら? などと言われたけれども、未だにそれはできていない。

 ってか、それ、かなり無責任なアドバイスだと思うんだ。

 柚葉は小さくため息をつく。

 まぁでも、人間関係は着実に進歩してるとは思うんだけどねぇ。

 ふと目の前に置かれたマグカップに視線を落とす。柚葉のために陸也が用意してくれたコーヒーには、ミルクと砂糖が入っている。猫舌なので、入れたては飲めない。だから入れておいてくれる。食後に飲むとちょうど良くなっているという寸法だ。

 柚葉が陸也の微妙な表情の変化を読みとれるようになってきたように、陸也は柚葉の味の好みを把握してきた。それこそが進歩の証だと思う。

 今でこそ、しっかりした朝食を柚葉は作っているけれど、初めてルームシェアした時は、そうではなかった。

 陸也はいつも、朝、コーヒーしか飲まない人だった。最初、朝食はどうするかと聞いたとき、彼がそう言った。

 緊張感漂うルームシェア生活。それは三日目のことだった。

 前の日に買ってあったクロワッサンを温めようとして、ふと柚葉は振り返った。

「あ、あの、後見さんも一緒に食べませんか?」 その朝、いつになく声をかける気になったのは、前夜見た夢のせいだった。

 両親の夢。母に呼ばれて、朝食の席に着く夢だった。

 ――朝ご飯だけはきちんと食べなさい。

 どんなに忙しくても、家族そろって朝ご飯を食べる。それは北村家の決まりの一つだった。

 朝ご飯さえしっかり食べていれば、その日一日がすばらしい日になると、母が信じて疑わない人だったから。

 だけど柚葉は、朝ご飯を一緒に食べた人が、そのまま帰らない事もあるのだと知っている。だから朝ご飯さえしっかり食べれば、すばらしい日になるなんて、今では、これっぽっちも信じていないのだけど、朝ご飯を誰かと一緒に食べるという行為はとても幸せな習慣だと、とても平和な一日の始まりなのだと信じている。今でも。

 たとえその相手が、アンドロイド系無表情上司アトミック陸也だとしても、一人で食べるより絶対に美味しいはずだと……心の中ではそう思っていた。

 だけど……。

 沈黙が痛い。

 彼は、単なる私の雇用主で上司なのだ。家族でもないのに、こんなの余計なお世話に決まってる。

「よ、余計なお世話でしたね、すみませんっ」

 慌ててトースターの蓋をパタンと閉めた。

 柚葉がぐっとタイマーを回したところで、背後からためらいがちな声が聞こえた。

「では……一つだけ、私にも温めてもらえますか?」

 え?

 一瞬何を言われたのか分からなかった。タイマーをつまんだまま振り返る。サングラス越しの視線は間違いなく柚葉に向けられていて……。

「あ、はいっっ」

 柚葉は、弾けたように勢いよく頷くとクロワッサンをもう一つトースターに押し込んだ。

 なんだか急に嬉しくなっている自分に、内心、動揺する。

 パンがほしいって言われただけだよ?

 私ってば、なんでこんなに喜んじゃってるの? 馬鹿みたい。

 で、でも、まぁ、いつも気になっていたことだからね。

 あの頃の後見さんは、食物摂取に対する執着が希薄すぎる気がいつもしていた。

 この人、ちゃんと食事をとっているんだろうかと。

 結局、その日一緒に食べたクロワッサンは、緊張と動揺が入り交じって、どんな味だったのかさえ覚えていない。美味しいと評判のお店で買ってきたものだったのだけれど。

 まぁ、あの頃に比べたら格段の進歩だよね。

 食事もきちんと摂るようになったし、以前よりいろんなことを話してくれるようになったと思う。だから、後見さんが洋食よりも和食、肉よりも魚の方が好きだってことも、今では知っているわけだし。

 サングラスをはずさないことくらい大したことないよ……たぶん。

 黙々と無表情なままご飯を頬張る陸也を見ながら柚葉はそう思う。

「柚葉さん」

 考え事をしながらそぞろに陸也を見つめていたものだから、突然名を呼ばれて柚葉は軽く椅子の上で跳ねた。

「はいぃぃ、なんでしょう?」

「私の顔に何かついていますか?」

「いえっ、いえ、何も……」

 サングラスがついてます。

 心持ち首を傾げる動作をした陸也に、柚葉は続ける。

「あ、あの、最近私たちってお互いに理解が進んだなぁと思ったんですよ。私は後見さんの微妙な表情の変化が分かるようになったし、後見さんは私のコーヒーの好みとか分かってるなぁって。で、私たちって、家族? ってか、兄妹みたいかもなぁって。……なんてね。はは」

 照れてとってつけたように笑う柚葉に、陸也は困惑した表情を浮かべた。

「……それは困りますね」

 そ、それは……そっかー。そうだよね。私なんかが妹なんて迷惑だよね。

「兄妹だと、何かと不都合なことがあるものですから……」

 はい?

「不都合? 何がですか?」

 きょとんとする。

「兄は妹に手を出せないでしょう? もっとも、昨今では禁断の愛が流行りらしいですが……」

 ポロリと箸から鮭がこぼれ落ちた。

 いやいやいやいや、私の中ではそんなの流行ってないです。ってか、今、誰が誰に手を出すって言ったんですか?

 動揺する柚葉を華麗にスルーして陸也は続ける。

「妹といえば、今度の現場には私の本当の妹が現れるかもしれませんから、くれぐれも注意してください」

 へ? 実の妹さん? あぁ、年が離れていて今中学生だと言っていた妹さんですか? でも何をどう注意するのです?

「気をつけるって何をですか? 瑠璃さんでしたっけ?」

 何の冗談かと笑いながら問う。

「瑠璃は、典型的な振り回すタイプなのです。あれに関わるとろくなことがない。後見家最強の生き物だと言われてます」

 後見家最強の生き物……。

 後見瑠璃、どんな人なんだよぅ。


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