第十三話 オリーブオイル
別荘へと続く上り階段を軽快な足取りで上っていく。
「ハッマグリっ、カーキ。ハッマグリっ、カーキっ」
そうだよ。別荘なんかと縁がなくたって、私には蛤と牡蠣があるじゃない。
鼻歌交じりに別荘まで戻ると、エントランスには後見さんのものではない別の車が横付けされており、室内はざわざわとした空気で満たされていた。
うわ……しまった、もう施主様、到着してるみたいだ。
平身低頭の体で応接室をのぞくと、中からなにやら言い争っているような声が聞こえてきた。
「ありえませんわ。昨日ハウスクリーニングを終えたばかりなんです。私がきちんと確認したんですから」
さとみさんの声だ。少しイラついているように聞こえる。施主様相手にしては、少し剣があるような……。
「すみません。恐らく妻のせいだと思います。彼女は子供を産んで体調を崩してから、精神的にも不安定でして……」
申し訳なさそうにしているのは施主様の方らしい。
「その辺は、お話し合いができたと伺っていたと思うのですが……」
さとみさんの声を遮るように、後見さんの声が聞こえた。
「とにかく、二階のハウスクリーニングを早急にさせましょう。今日は休日ですから、担当の者がつかまるかどうか、今、確認してみますから」
そういうと、陸也が応接室から出てきた。柚葉の顔を見るや眉間にしわを寄せる。
「柚葉さん。どこに行ってたんですか。遅いので心配していましたよ」
陸也の視線が柚葉の靴に落ちる。
「海へ行ったんですね? ひとりで浜辺へ行かないでくださいと言ったのに……」
あわわ。やばい。靴に砂が……。
ってか、チェック厳し過ぎじゃないですか?
首をすくめる。
「ごめんなさいっ。いろいろあって遅くなりました。ところで、あのっ、何かあったんですか?」
柚葉の問いに、陸也は軽く肩をすくめた。
「二階の部屋が汚れているとクレームが出たのです。もしかしたら、今日の引き渡しは延期になるかもしれません」
そう言い残すと、陸也は足早に外に出て行った。携帯を使うつもりなのらしい。
応接室の中からは、困惑した施主様の声と、少し怒った様子のさとみさんの声が相変わらず聞こえてくる。
「いくらお体が弱っていて心が不安定だからと言っても、これはあまりな仕打ちではないですか?」とか、
「よく奥様とお話し合いくださいと、私は再三お願いいたしましたよね」
などと言う言葉が漏れ聞こえてくる。
二階の部屋で、一体何があったんだろ。ハウスクリーニングなら、私にも何かできるかもしれない。どれどれ、ちょっと見てこようかな。
これは、私でも役に立つってことを見せるチャンスじゃないですかぁ?
柚葉は外で靴の砂を素早く落とすと、愛用のお掃除セットを車から取り出して二階へ上がった。 二階の部屋をノックすると、はい、と鈴のようなかわいらしい、だけど少しせっぱ詰まった風の固い声が聞こえた。
「あのぉ、ちょっと失礼しますね」
部屋の中央、やや窓際よりに豪奢なベッドがしつらえられており、その上に、天使が横たわっていた。儚げな、病んでる天使。
十分後、柚葉はスーツの上着を脱ぎ這い蹲った体勢で、二階に上がったことを盛大に後悔していた。
あぁ、踏み込んではならぬ魔界に、入り込んでシマッタのです。
二階の部屋のいたるところがベタベタしていた。特にフローリングの床。油がこぼれているのだ。匂いからして、たぶんオリーブオイル。
念のためにと用意していたお掃除セットを、まさかこんな本格的に使うことになろうとは思いもしなかった。こんなことならスーツじゃなくて作業着を着てくれば良かった。いや、その前に、私でも何かできるかもしれないなどと考えて、二階に上がるんじゃなかった。軽はずみだった。
柚葉は心の中ですすり泣く。
キッチンペーパーで油を拭き取った後、重曹水を吹きつけて雑巾で拭う。それを何度も繰り返す。何度繰り返してもいっこうに床がきれいにならないのは、悪魔奥様のせいだ。
「ほら、北村さん、ここも汚れていてよ?」
極上の天使の笑みを浮かべながら、奥様が指を指す。さっき拭いたところだ。
悪魔の奥様はオリーブオイルの瓶を隠し持っているらしい。それをこぼしては拭かせるを繰り返していた。
むむむむむ。何が気に入らなくてこの人はこんなことをしてるわけ? 一瞬でも天使みたいだと思った自分がアホらしい。性悪悪魔奥様め~。
「このおうち、欠陥住宅なんじゃなくて? 油まみれの家なんて、私、住むの嫌だわ」
ここが欠陥住宅なんじゃなくて、あなたが欠陥人格なんですよ、と言いたいところだが、ぐっと堪える。相手は施主様だ。
「後見社長は、今までに欠陥住宅など仲介したことはありません。油田じゃないんだから、家が油まみれなわけありませんよね?」
油田だったら逆に大儲けだよ。
ふぅん、とつまらなそうに鼻をならした奥様は、ベッドのすぐ傍の床を指さした。
「でも、ここも汚れていてよ?」
柚葉は小さくため息をつくと、指さした床を拭く。
瓶の油を全部ぶちまければ気が済むのかな。まさか何本も持ってるわけじゃないよね。全部こぼし終われば終わるよね。よしっ、お掃除隊長の柚葉さんが全部拭き取ってやろうじゃないの!
一騎当千になった気分で張り切って拭いていると、頭上からタラタラと油が落ちてきた。髪やシャツに油が染み込んでいく。
ぎゃぁぁぁぁ。
慌てて立ち上がると、奥様は悪魔の笑みを浮かべてこう言った。
「ここ、油田なんじゃなぁい?」
オリーブ油田かいっ。そんなん出たらイタリアンレストラン開くわっ!
「奥様、あなたが何を気に入らなくてこんなことしてるのかは知りません。ですが、これだけは言っておきます。そのオリーブオイルは、美味しくいただく為に作られたものです。床をテカテカにするためにオリーブは実ったのではありませんよっ!」
そう叫ぶと、柚葉は再び床に這い蹲って猛然と拭き始めた。
騒ぎを聞きつけたのか、階下から上がってくる足音がして、ドアが開いた途端、後見さんの驚いた声と、さとみさんの悲鳴のような声が聞こえた。
「柚葉さん? あなた、何をしてるんですか」
「奥様っ!」
あ、やばい。見つかった! まだ全部拭き終わってないのにぃぃ。どーしよー。
「あ、あの、今ですね、しょう……」
性悪悪魔奥様の悪行の根源を空っぽにすべく奮闘中なのですっ、と言いかけて口ごもる。
いかんいかん、相手は施主様。
「しょう……類哀れみの令は、そもそも、人間の弱者を保護することを目的として始まった法だったのですよ。ご存じでしたか?」
は? と言いたげな人々の視線を痛い思いで受け止める。
しまった……全然誤魔化せてないよぉ。
「と、とにかくっ、ここはすぐにきれいにしますからっ」
勢いよく立ち上がり作り笑顔で宣言した途端、眉間にしわを寄せた後見さんが大股で近づいてきた。
ひょぇぇ、殺気! 殺られるっ。
思わず目を閉じ身をすくめていると、パサリと何かを肩に掛けられた。
え?
目を開けると、陸也の黒いスーツの上着だ。
あれ? やけに前を合わせて胸元を隠しているような……。
うわぁっ!
視線を落とすと、シャツに油が染み込んだせいで、ピンクのブラが透けて見えている。
これ、子猫ちゃんキャラのやつじゃん。持ってる中で一番子供っぽいやつ……。
まさかこんなところで、こんな下着で勝負することになろうとは。いや、別に勝負なんかしてないけどさ。
情けなくて涙目になる。
あ、でも、これじゃあ……。
「後見さんのスーツが汚れますから……」
「構いません。いいから着ておきなさい」
うぇぇん、後見さん、なんかすんごい不機嫌です? 何故あなたが怒っているのです? 怖いんですが……。
情けないやら怖いやらで涙がこぼれる。
一方で、施主様は奥様を問いただしていた。
「麗花! どうしてこんなことを? 説明しなさいっ」
奥様は頑なな表情で口を閉ざしたままだ。
「奥様、この家のことで何か気に入らないことがあれば、私になんでもおっしゃってくださいと言いましたよね? 今からでも遅くありませんよ? おっしゃってください」
見かねたさとみさんが、助け船を出す。
そんなさとみさんに奥様は、憎悪のこもった視線を向けた。
「あなたが気に入らないわ」
「え?」
「あなたが担当なのが気に入らないのよ。できる女ですって顔して、何でも分かってます、なんでもおっしゃってくださいって口では言いながら、心の中では何にもできない私のことを見下しているんでしょう?」
「そんなこと……」
「あなた言ったじゃない。こんな素敵な家でのんびりできていいですねって。私はね、のんびりしたい訳じゃないのよ。そんな老人みたいな暮らしなんてしたくないの。私は子どもを産んだのっ。母親なのよ。子育てをするのが普通でしょ? なのにこんな、遠く離れた場所にひとり隔離されて。これじゃあ姥捨て山だわ」
「そんな……姥捨て山だなんて……」
ショックを受けたようにさとみさんは沈黙した。
「あなたに私の気持ちなんて分からないでしょうね。ぜったい分からないわ。ひとりでは何もできない役立たずの癇癪持ちくらいにしか思ってないんだからっ」
まるで悲鳴みたいだ。
悲しかった。そう言って床を睨みつける奥様は、この場の一番の加害者でありながら、一番の被害者に見えたから。
分かるよ。失ってみて初めて、それがどれだけ大きいものだったのか気づいたんでしょう? それで混乱してるんだよね。
人の手を借りなければ生きられない不甲斐ない自分に……。
さっきとは違う理由の涙が、後から後からこぼれる。
「分かりませんね」
そう冷静に言葉を返したのは後見さんだった。 奥様の負の感情に呑まれていた柚葉は、はっと陸也を見上げる。
そんな、後見さん……どうして?
「あなたが、さとみの気持ちや苦労を知らないように、私たちもあなたの悲しみや苦労を知りません。ただ私たちは、ご主人から聞いた希望条件を満たす物件を探してきただけです。あなたが海を見たがっていること、桜の花が好きなこと、子どもと遊べる芝生の庭がほしいと言っていたこと。確かにここはご自宅からは少し離れていますが、夏になれば観光客が押し寄せるリゾート地です。決して姥捨て山などと呼ばれるような場所ではありません」
陸也の言葉に、ご主人が何度も謝罪の言葉を繰り返す。
「もちろん、気に入らないのであれば、今からでもこの契約はなかったことにできます。必要なのは、あなたの悲しみや悩みをご主人にきちんと伝えることではないですか? あなたの悲しみはあなただけのものです。あなたが怪我をしても、あなた以外の人はその痛みを感じないのと同じです。誰かに分かってもらいたいのならば、言葉で伝えなければ伝わりません」
陸也はそう言うと柚葉の肩を抱いて引き寄せた。
「我々は下に行ってますから、ご主人とよく話し合ってください」
あぁ、そうか。後見さんは手を伸ばしなさいと言ってるんだ。傍にいて助けてくれる自分の味方に手を伸ばして、助けを求めなさいって……。
一方の悪魔奥様は、後見さんの言葉に一言も反論することなく涙をこぼしていた。
おそらく足が不自由になってから、彼女を諫める人などいなかったんだろう。そのことが逆に彼女を追いつめていたのかもしれない。
普通の人のように扱ってもらえない自分にイライラして……。
でも、たとえどんな状況に陥っても、できることはある。何もしないで嘆いているだけなんて、もったいない。
一度だけの人生なんだから……。
いったん弛んだ涙腺は、景気よく涙を増産する。柚葉はべしょべしょ泣きながら肩を抱かれ、陸也に促されるまま部屋を後にした。