第十二話 駄天使
茨城県の阿字ヶ浦は、かつて東洋のナポリと呼ばれた美しい海岸線を持つ海水浴場だ。海を抱くように湾曲した浜は遠浅で、太平洋の力強い波に洗われて丸くなった砂や小石で一面を覆われている。とてもきれいな浜辺だ。
階段を下りた柚葉は、十分ほどで浜辺へ着いた。
うわぁ、気持ちいぃ~。
海から吹く風は東風。柔らかい素材でできたタイトスカートの裾が強い風に吹かれてはためいた。お陰で両膝の絆創膏が丸見えだ。
昨日すっころんだ足首は、捻挫したわけではなく単なる打ち身だったようで、痣になってはいるものの、朝にはすっかり治っていた。だからスーツを着たんだけど、いつもの作業服と違って、なんだかしっくりこない。
スーツなんて久し振りに袖を通したよ。就活以来じゃないかな。
パンプスも非常に歩きにくい。
なかなか、さとみさんのように颯爽とは振る舞えないものだね。まぁ、元が違うんだろうけどさ。
ひとりため息をつく。
さとみさんは身長もあり、ヒールのある靴を履いていたので、後見さんとちょうど釣り合うくらいの背丈だった。私なんて二十センチくらいある高下駄でも履かないと無理じゃん。
……お似合いの二人だったな。
はぁぁ。
もう何度目のため息だろう。
佳乃といい、さとみさんといい、なんで私の回りには容姿だの才能だのに恵まれた女性ばかりいるんだろ。
神様は不公平だよなぁ……。
せいぜい、さとみさんに誤解されないよう後見さんからは離れておこう。後見さんってば、女性の気持ちに疎そうだもん。きっとさとみさんの視線に気づいてないよ。
セミロングの髪が風に舞い上がるので片手で押さえつけながら汀を歩く。寄せては返す波までが気の毒そうに慰めている気がするのは、私の被害妄想なんだろうか。
季節がはずれているからか、まだ午前中だからなのか、遠くに家族連れが一組いるっきりで、浜辺は閑散としている。
そう言えば、後見さんにひとりで海岸に行くなと注意されていたっけ。
注意されたことをようやく思いだし、いかんいかんと回れ右をしたところに、そいつは突然襲いかかってきた。
真っ白なモップ! 否、モップのようなデカワンコ!
そいつは私に飛びかかり砂浜に押し倒すと、その巨大な体でのしかかってきた。
遠くで、ステイ! アンジェロ! という叫び声は聞こえた。が、その堕天使は、聞く耳など持ってないらしい。飼い主の命令などどこ吹く風とばかりに、私の体に覆い被さった。
ぎゃぁぁぁぁぁ! 死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ!
後見さんっ、助けてぇぇぇ。
「ははは。アンジェロ、やめろって」
近くまで来たのだろう、飼い主の声が真上から聞こえた。
何よぅ、その強制力なさげな命令はぁぁ! しかも、なんで笑ってんのよぅ。
ふと見上げると、その駄犬は、ただ私にのしかかっているのではなかった。怪しげに腰を振っている。そして、それを見て笑っている板前のような角刈り青年。
むっぎぁぁぁ! 人間と雌犬の区別もつかんのか、この駄犬はぁぁぁ。
「ちょっと! このエロ犬、あんたの犬でしょ? なんとかしなさいよっ」
「わりぃ、わりぃ。アンジェロ、やめとけ、コワいおねーさんに食いつかれっぞ?」
爆笑しながら、その男は駄犬を私から引きはがした。
誰がコワいおねーさんだっ。そんなケダモノに私が食いつくかぁぁ。駄飼い主めっ。喧嘩売ってんのかっ、コノヤロウ!
駄犬の飼い主は隼人といって、ここの海で漁師をしているのだと言った。
昨日すっころんだ時に血が滲んでいた柚葉の手のひらは、二度目のダメージについに耐えきれず、流血の事態と相成っていた。
浜から近いところに食堂を兼ねた隼人の家があるというので、絆創膏をもらうことにする。
スーツを血で汚したくないからね。
隼人と駄犬について行く。
隼人の家は、海岸沿いの道路に面した「海野食堂」というお店だった。店先には、小さな黒板を使ったメニュー板が掲げられている。刺身定食、フライ三種盛り定食、カレイの煮魚定食、アンコウ鍋もできるらしい。海の幸を扱った定食メニューが豊富だ。
準備中の札が掛かった店中に入ると、開店準備をしていた隼人のお母さんが、慌てて救急箱を持ってきてくれた。
「いちお確認しとくけど、おねーさんのその手は、最初っからだよな? 今怪我したんじゃねぇよな?」
えぇ、昨日からでしたよ。もっとも血が滲むくらいで済んでいたんですけどね。お陰で、同じところを再度すりむいて、とうとう流血しましたけどね。
仏頂面で昨日の惨事を説明していると、隼人のお母さんがやってきて彼の頭をひっぱたいた。
「バカたれ! 最初からだろじゃあないよ。若い娘さんの顔に傷でもつけたらどう責任とるつもりだい? だぁから、あのバカ犬は綱を外して散歩させちゃ駄目だっていっつも言ってるんでしょうが!」
次いで、柚葉に向き直って隼人母は何度も頭を下げた。
「うちのバカ息子とバカ犬が悪いことしたねぇ。ごめんなさいねぇ」
「あ、いえ。この怪我は本当に元々あったものなんですよ。二度も同じところを擦りむいたものだからとうとう血がでちゃっただけで……」
気にしないでください、という柚葉に、せめてお詫びに穫れたての魚介を食べてってほしいという。
え? マジ? 穫れたての魚介?
柚葉の顔が期待で輝く。柚葉の反応を見た隼人は嬉しそうに、
「おう、俺が今朝採ってきたばかりの蛤とか牡蠣とかがあっから、おまえ食ってけよ」
と言うと、奥へ走っていった。
牡蠣は殻付きのものをいくつか開けてもらった。ぷりっとした大ぶりの牡蠣にレモンを少々たらして、するりと口に滑り込ませる。新鮮で滋味豊かな味がする。蛤は網焼きにしてもらった。殻を開けてじゅくじゅくとあわ立っている汁に醤油を少し垂らす。醤油の焦げた香ばしい匂いと濃厚な貝の味が口いっぱいに広がる。牡蠣もいくつか焼いてもらった。生で食べるのも美味しいけれど、焼くと貝類のうまみ成分が凝縮されるところがいい。
「うっわぁぁ。美味しい。すっごい美味しい!」 何度もため息をつきながら夢中で頬張る。
「だろぉ?」
隼人が得意そうに高笑った。
「ねぇ、これ売ってよ。私買う!」
「はぁ? そりゃ……構わねぇけどよ……」
こんな新鮮な牡蠣や蛤を、買わずにいられようかっ! 善太郎さんにも訊いてみようかな、星霜軒でも使うかもしれないし。
早速、訊いてみようと携帯を取り出そうとして、はたと気づいた。
私、荷物、何にも持ってないや。華宮邸に置いて来ちゃった。
別荘に戻ったらすぐに電話をするから、番号を教えて欲しいと隼人に頼みこむ。
「えぇ? おまえ別荘の人なのかよ?」
信じられないと言いたげな顔だ。
えぇ、えぇ、違いますとも。
「違うよ」
柚葉はアトミハウジングという不動産屋の社員で、今日は勉強のために社長に付いてきたのだと説明する。
「なぁんだ。ただの社員かぁ。だと思った。こんなちびっ子だもんな?」
きーっ、ちびっ子だとぉ? 気にしていることをっ! そもそも、ちびっ子だから別荘に住めないとか間違ってるでしょ! そりゃ確かにちびっ子の私は、仕事以外で別荘なんか縁がないけどさぁ。
唐突にさっき見たさとみさんの笑顔を思い出す。
彼女なら別荘にいても違和感なさそうだ。実際、休暇にはそのような所で過ごしてるのだろうし。
誰と? そりゃ……二人で……だろう。
海が見えるバルコニー。ほほえみ合う後見夫妻の姿が脳裏に浮かぶ。
だぁーっ、もう、私ってば気にし過ぎだよっ。 ……私なんて、なんも関係ないじゃん。
散れーっ!
妄想の霧を追い払おうと、思いっきり頭を振る。
「どした? ちびっ子。だいじょぶかぁ?」
きょとんとした顔でのぞき込む隼人の両頬を、両手で思いっ切り摘んで引っ張った。
「うるさいっ! ちびっ子言うな。私にはちゃんと北村柚葉とゆー名前があるのだぁぁぁ」