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第十話 ドライブ

 翌早朝、まだ明け切らぬ白み始めた空の下、柚葉はたたき起こされた。寝ぼけたまま準備をして、陸也が運転する車の助手席に乗り込む。

「柚葉さん、シートベルトを締めてください。出発しますよ?」

 はいはい、と生返事を返しながらノロノロとベルトを締める。

 こんなに朝早く出るのなら、やめておけば良かったかも……。

 めっぽう朝が弱い柚葉である。

 一方の陸也は朝方気質らしく、カチッと髪をまとめサングラスとブラックスーツをビシッと着込み、てきぱきと行動する。

「柚葉さん、私はあなたの誤解力を甘く見ていました」

 そして、朝もはよから説教も全開だ。

 施錠できる部屋の件だの、リビングのソファで寝ていた件だのをチクチクと指摘し、そんなにひとりでいるのが怖いのなら、休暇中は善太郎さんの家に泊めてもらいなさいだの、自分が年頃の女性であることをもっと自覚しなさいだのと、お説教が続く。

 あなたは私の父親ですか?

 それらの小言を聞き流しながら、柚葉は、うっかりすっかり忘れていたあるものと戦っていた。 そのあるものとは、

 ずばり、車酔いである。


「柚葉さん、大丈夫ですか?」

 うううう……。

 オーシャンビューという晴れ晴れとした魅惑的な言葉に、うっかりすっかり忘れていた。トンネルとかパニック障害とかの以前に、私は車酔いがひどいのだったぁぁぁ。

 常磐道はほとんどトンネルらしいトンネルがないのにも関わらず、柚葉は真っ青な顔でうめく。

「大……丈夫……かな……」

 きっと。たぶん。いや、どうだろう……。

「あの……足手まといになるようだったら、駅の近くでおろしてもらえれば自力で帰りますから」 電車は比較的酔いにくい。

「そんなことしませんよ。辛いなら眠っていてください。あと一時間くらいはかかります」

 この前は自分の前で無防備に寝るなと言ってたくせに、今度は眠れって言うし、もう私のことなんか放っておいてくれたらいいのに。

 心の中で愚痴るが、言葉にする気力さえない。 何度かパーキングエリアに寄ってもらい、トイレに駆け込む。

 前屈みになって頭をかかえこんでいると、運転席から腕が伸びてきて頭をぐしぐし撫でられた。 うにゃ?

 ノロノロと見上げると、心配そうなサングラス。

「昔、弟が柴犬を飼っていたのですが、すぐに車酔いするやつでね。連れてくる度にぐったりしていて……あれは可哀想だったな」

 なんすかそれ。私は犬と同列ですか。

 ……ってか、弟氏はどこからどこへ犬を連れて行っていたんです?

 あ、そう言えば……。

「後見さんは小さい頃、弟さんとは一緒に住んでなかったんですか?」

「……」

 あれ? 沈黙が痛いぞ?

 あ、これはちょっと踏み込み過ぎたかも。

「あ、ごめんなさい。プライベートなことですよね。今の質問は取り消します」

「いえ、いいんです。昔からいるアトミの社員なら知っていることなんです。それに、あなたがお友達から聞くよりはずっといいです。正確ですしね」

 あわわ。佳乃から聞いたこと、実は気にしてました?

 首をすくめる。

「でも今から話すことは、かなり際どいこともあるかもしれませんから、お友達には内緒にしてくれると助かります。あなただから話すことですので……」

 え?

 柚葉は驚いて隣の陸也を見上げる。

「いえ私は、そんな内輪のことまで聞くつもりなど……」

 ないですから、と最後まで言わさず陸也は話し始めた。

「私たちの両親は、私が幼い頃に離婚したのです。私がものごころついた頃には既に、私は母と、弟は父と暮らしていました」

 え? そんな小さい頃から?

「離婚の原因は、母の不貞でした」

 ええっ?

 ってか、そんなことまで私に話さなくても……。

「後見さん、私、そんなことまで知りたいわけじゃ……」

 ないです、という柚葉の言葉は再度陸也に遮られる。

「母の名誉のために予め言っておきますが、それは濡れ衣だったのです。誤解だったのですよ」

「はぁ、それは……」

 なんと言ったら良いのやら。

「父は母をそれは深く愛していましてね、深すぎる愛情は、いとも容易く激しい憎悪に変わるのだということを、私は父から学びました」

「……」

「母と離婚して、別の人と再婚してもなお、父は母に執着しました。週末ごとに、父は母と私が身を寄せていた母の実家に来訪しました。母を抱くために。母を束縛するためだけにです。ほとんど復讐のような逢瀬ですよね」

 あうう。何という赤裸々な。クラクラしてきたのですが……。

 陸也は淡々と続ける。

「弟はその時に一緒に連れてこられていたのです。弟は口実でした。実の母親に会わせるためという……」

 そんな……。

 ということは、後見さんたち兄弟は、小さい頃から両親の都合で振り回されていたことになる。 悲しい気持ちで見上げると、陸也は柚葉の視線を受けて肩をすくめた。

「もっとも当時、何も知らなかった私たちは、単に兄弟で遊べる日としてしか認識していませんでしたけどね。弟は最後まで気づかなかったんじゃないかな。それは妹が生まれるまで続きました」 でも、それなら……。

「だったらどうして再婚なんて? それだと後見さんのお母様も、後妻さんも、後見さんたち兄弟も、みんな幸せではないですよね?」

 あんまりな話に車酔いが吹っ飛ぶ。

「元々父は、母と離婚する気も、他の人と再婚する気も無かったようなんです。今の時代なら、どのような選択をするかは当人同士だけで決定すれば良いことなのでしょうが、当時はまだ家の対面が優先されていた時代でしたから、回りが許さなかったのでしょう。ある意味、父も被害者だったんだと思います」

 なんてこと……。

 しかも、それが濡れ衣だったということなら誰もが被害者だったということになる。

 はぁぁぁ。なんか後見家、すんごい複雑で重いんですが。でも、だからなんだ。だから、後見さんは家が複雑だって言ったんだ。

 後妻さんが家を出る気持ちもよく分かる。妹さんも腹違いではないということは、つまり、後妻さんには実子がないってことで……。

 後妻さんの心痛が偲ばれた。

「……私はね、時々自分が怖くなるんですよ。愛しすぎるあまり母に執着し、苦しめることでしか気持ちを収めることができなかった父の気質を、自分も受け継いでいるんじゃないかと。どうでしょう、柚葉さんから見て、私はどういうタイプに見えますか?」

 えっ?……と、そんなことを私に訊きますか。「えっと、どうでしょう……」

 日頃、仕事人間の後見さんを見ている限りそんなタイプには見えない。だけど昨夜の奥様への溺愛話を聞けば、もしかしたら奥様の前では豹変するのかもしれないとも思う。

 首を傾げて誤魔化してみるが、どうやら後見さんは私の返事を待っているようだ。沈黙が重い。「あのぉ、そゆことはやはり、きちんと奥様に訊いた方がいいんじゃないかな、と思いますが?」「そうですね。で? 柚葉さんはどう思うんですか?」

 おーい。私の提案、ちゃんと聞いてましたかぁ?

 駄目だ。相変わらず返事待ってるし。

 柚葉は観念して、思っているままを口にしてみることにした。

「後見さんがそのようなタイプかってのは、よく分かりません。ごめんなさい。でも私が見たままで言うなら、日頃の後見さんはそんな風には見えません。だけど、もしかしたら奥様の前では違うのかもしれないとも思うし……」

 後見さんは黙ったままだ。

 私は、思い切って続けた。

「もし、後見さんの今のお話で、感じたままを言わせてもらえるなら、お母様は、後見さんが思っているほど不幸ではなかったんじゃないかと思います。むしろ、後妻さんの立場の方が辛く感じるんじゃないかと……私だったらそうだろうと、思いました。あと、小さな頃の後見さんを抱きしめて頭を撫で撫でしてあげたいと思いました。つらかったですよね。あ、えと……弟の海斗さんと一緒にね。……すみません、なんだか返事になってないかもしれないですけど……」

 私の言葉を生真面目な様子で聞いていた後見さんは、小さく首を振った。

「いえ、参考になりました。ありがとう」

 それから少し間をおいて、

「しかし、抱きしめて頭を撫で撫でするのは、私だけにして置いてください」

 と真顔で言う。

 ははっ。後見さんってば結構愉快な人だ。

 気づけば、常磐道もそろそろ終盤らしく友部ジャンクションの案内表示がでてきた。

 会話がとぎれると、再び気持ちが悪くなる。

 ううう。

 もう吐くものもないので、再び前屈みになって蹲る。

「大丈夫ですか? しかし、柚葉さんが、そんなに車酔いする人だったとは知りませんでした」

「……すみません」

 消え入りそうな声で謝る。いかにもすまないと思ってるように聞こえるかもしれないが、これはもう、ただただ気分が悪くて弱っているだけだったりする。

「気にする必要はありません。誘ったのは私ですし、それに、かなり余裕をもって出ましたから何の支障もありません」

 うなだれる柚葉に、少し躊躇いがちな声が問う。

「……もしかして、ご両親がトンネル事故に巻き込まれたとき、柚葉さんが一緒に乗っていなかったのは、車酔いのせいですか? ……あ、いえ、答えなくてもいいです。すみません、思い出したくないですよね」

「いえ、構いませんよ。実際、その通りだから……」

 事故があったあの日、両親は浜松にいる親戚の新盆の法要に向かっている途中だった。私が一緒に行かなかったのは、ひとえに、このひどい車酔いのせいだったのだ。

 今でも時々分からなくなる。あのとき、私は一緒に行くべきだったのじゃないかと……。

 一緒に行っていれば、私は両親を助けるために何かできたんじゃないだろうか。死なせずに済んだんじゃないだろうか。私は無理をしても一緒に行くべきだったんじゃないだろうかと。

 弱りきった状態で、そんな埒のないことをぼんやり考えていると、小さなため息とともに、密やかな声が聞こえた。

「よかった」

「え?」

 ゆるゆると隣を振り仰ぐ。

「本当はご家族全員が車酔いする性質なら一番よかったのでしょうけどね」

「……よかったんですかね?」

「もちろんです。あんな恐ろしい事故に、あなたまで巻き込まれていたらと想像するだけで恐ろしくなります」

 そう真顔で答える陸也を不思議な気持ちで見つめる。

「え……えと、そうですか?」

「えぇ。どんな手段にせよ、あなたを私に残してくれた神様に感謝したい気分です」

 そう言うと、後見さんは私の頭をぽんぽんと叩いた。

 えっと、単なる社員に、それはちょっと大げさではないですか? しかも、大した社員でもないのに……。

 苦笑する。

 だけど、自分の存在を肯定してくれる言葉というものは、どうしてこうも甘やかなんだろう。

 急に胃のあたりがじんわりと温かくなる。

 血の巡りが良くなったのかな? なんだかすごく温かくて、心地よい。ほっとする。

 そうか、少し気が楽になったんだ。

 心のどこか奥底で、私は今までずっと負い目を感じていたのだ。自分だけが生き残ったこと、しかも、ひとりでは何もできなくて周りに迷惑ばかりかけて生きていることに。

 もし誰かが、少しでも私を必要だと言ってくれるなら、こんな私でも生きてていいんじゃないかって、そう思えるから。

 鼻の奥がつんと痛くなった。

「あ、あの、ごめんなさい。少し眠ってもいいですか?」

 憮然とした声が返ってくる。

「私はさっきからそうしろと言ってますよね」

 はい、そうでした。

 助手席のシートを倒すと、拓けた空が視野に飛び込んできた。春霞にくすんだ薄青。関東平野の底から見上げた空は、どこまでも広く、大きく、包みこむ。

 柚葉はそっと目を閉じた。


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