第九話 トラウマ
そのままの格好で、リビングのソファで寝ると言い張る陸也に、柚葉は父親のパジャマを渡して風呂場へと追い立てた。
明日、物件の引き渡しの立ち会いだというのに、しわしわのスーツで行かせるわけにはいかないでしょお。私を抱えたときに汚しちゃったところもメンテナンスしないといけないしね。
奥様に叱られますから、と言ったら、急に素直になった。
奥様効果抜群だ。さすが!
着ていたスーツは、染み抜きをした後ハンガーに掛けておいた。後で風呂場の蒸気に晒しておくつもり。毛織物なら、それでしわが伸びるからね。
二階の部屋に客用布団を整えて、リビングでワインの残りを飲んでいると、陸也がお風呂から上がって来た。父親のパジャマだと少し丈が足りないようで、くるぶしがのぞいている。
「少し小さかったですね」
苦笑する。
いつになく恐縮した様子の陸也は、申し訳なさそうに頭を下げた。
「何だかいろいろすみません。あなたは休暇中だったのに」
丈の足らないマドラスチェックのパジャマにサングラス。洗い髪になってもサングラス。相変わらず、どうあってもサングラスをはずすつもりはないらしい。今まで見たミスマッチコーデの最高峰だなとひとり笑いをかみしめる。
そういえば、髪を整えていない後見さんを見るのは久しぶりだ。彼は髪を整えないと少し茶色がかって見える。それが嫌なのだと後見さんは言った。髪色に柚葉が初めて気づいた時のことだ。
染めているのかと訊かれるのが煩わしいのだと、彼はそう言った。昔からコンプレックスだったのだと……。
すまなそうにしている陸也に柚葉は首を振る。「私はいいんですよ。ちっとも構いません。仕事もないし、する事もないし、時間をもてあましてたんです」
陸也は少し首を傾げた。
「柚葉さん、一つ聞いてもいいですか?」
「何でしょう?」
「最近調子はどうなんですか? まだトンネルで発作が起きますか?」
両親の事故の後、柚葉はトンネル恐怖症になった。あの事故の悲惨さを目の当たりにした人は、多かれ少なかれトンネルに対して恐怖心を抱いたのではないだろうか。
比較的暢気で適当なタイプだと思っていたけれど、私は案外繊細なのかもしれない。実は繊細なのだと言われていた後見さんの奥さんにそっくり。
……なんちて。
実際のところ、事故の後二年ほど、柚葉はパニック障害に悩まされた。電車がトンネルを通っている時、急に息苦しくなって、パニック状態になってしまう。以前心療内科に通ったのも、それが大きな理由だった。かつて何度か発作を起こして、善太郎さんやおかみさんや後見さんまでをも駅まで呼び出したことがあった。身元引受人が他にいないから仕方がなかったのだけれど、後見さんが来た時には正直ビビった。善太郎さんもおかみさんも来られない状況だったらしい。
あの時は、これから気を失う場所は人気のない砂丘とか樹海にしようと思ったよね。八割がた天国に召喚されそうだけれども。
「いいえ。まだ全然平気という訳にはいきませんが、もうあんなひどいことにはならないみたいです。あの……その節は、大変お世話になりました」
「いいえ。酔っぱらったあなたを運ぶのに比べたら、全然大した世話ではありませんでしたよ」
真顔のサングラス。
「……」
うぐぅ、そうきたか。
こりゃ相当根に持ってますね。この前酔ってリビングで眠り込んだこと、ものすーごく根に持ってるんですよね。そんなに怒るくらいなら、酔いつぶれた私なんて、もう路傍の石だと思って捨て置いてくださいよぉぉぉ。
心の中で泣き濡れる柚葉にはお構いなしに、陸也は続けた。
「大丈夫そうなら明日、あなたも引き渡しに立ち会いませんか? 明日行くところは、高台にあるオーシャンビューの物件で、とても気持ちが良いのですよ。いろんな物件を見ることは、あなたにとっても勉強になると思いますし」
へぇぇぇ。オーシャンビュー!
青い海! 白い波! きっとおいしい魚介類がわさわさわさわさ……。
無理にとは言いませんが……と、陸也が、いつになく遠慮がちに付け足したところで、柚葉はすでに返事をしていた。
「行きますっ! 行きたいですっ!」
夜も更けた頃、ネットに接続できる部屋を借りて仕事を済ませた陸也は、寝室だと教えられていた部屋の前で首を傾げた。引き戸の部屋だ。
確か、引き戸の部屋は一つあると言ってなかったか。
ドアを開けて眉間にしわを寄せる。
引き戸の部屋の中央には、客用らしい布団が敷いてある。陸也は大きくため息をつくと、そのまま階下にとって返した。
階下はすでに明かりが落とされている。しかし常夜灯に照らされたリビングのソファの上、布団を被って横たわる物体に気づくと、陸也は眉間のしわを更に深くした。
「柚葉さん、起きてください。あなた勘違いしてませんか? あなたが鍵付きの部屋で眠るんですよ。私の部屋を鍵付きにしてどうするんですか」「ううん、いゃん……」
寝ぼけた柚葉に手をペチンと叩かれて、陸也は更に強く肩を揺すった。
「柚葉さん、柚葉さん」
「も~、後見さん、窓ならぜーんぶ拭きましたよぉ。言いがかりはやめてくださいよぉぉ」
「……柚葉さん、寝ぼけてないでください」
最早揺すっても、鼻を摘んでも起きる気配がない。
陸也は力なくため息をついた。
一度眠り込んだ柚葉が目を覚まさないのはいつものことだ。いつものことなのだけれど、いつものように運んで良いものか迷う。陸也のために用意してくれたあの部屋は、使っている気配がほとんどなかった。ということは、彼女の部屋ではないのだろう。知らぬ間にいつもの部屋ではない所に運ばれているのは、あまり良い気分ではないかもしれない。かといって、彼女の部屋を勝手に探すのも気が引ける。
どうするか……。
陸也は頭を抱え込む。時計は十二時をちょっと過ぎたあたりを差している。
陸也は諦めたようにその場に座り込んだ。
ソファで心地良さそうに眠り込む柚葉の顔をのぞき込む。その頬に、額に、唇に、陸也はまるでガラス細工にでも触れるかのようにそっと、愛おしそうに指を這わせた。
「そもそも、なぜあなたはこんなところで寝ているんですか。こんなことなら、私は車で寝るのだった」
しばらく飽きることなく寝顔を見ていたが、肌寒くて身震いをする。
早春の夜更けはまだまだ冷える。
陸也は、ふと思いついたように二階の部屋から毛布を持ってきた。そうしてそれにくるまるとソファにもたれかかる。
密やかな寝息。洗い髪の匂い。
布団からはみ出した柚葉の手に目が止まり、それをしまおうとして、しかし掴んだその手を陸也は両手で包み込んだ。
「柚葉さん、教えてください。あの日、何があったんですか? 忘れなければいられなかったほど辛い事って、何だったんですか?」
陸也は苦しげに顔を歪めると、柚葉の指と自分の指を交差させた。
「……その時のことを思い出したら、あなたはまた、私のことを忘れてしまうんですか?」
そう呟くと、陸也は絡め合わせた指を強く強く握りしめた。
真夜中に何故か目覚めた柚葉は、目の前にある毛布の固まりと、指を交差したまま繋がれた手に気づいて体を起こした。
ん~? なぁにコレ……。
よくよく目を凝らすと、陸也がソファにもたれたまま眠り込んでいる。
陸也を見、繋がれた手を見、それを何度か繰り返してから眉間にしわを寄せ首を傾げる。
なんで後見さんがこんなところにいるんだっけ? しかもこの手は一体……なに?
しかし次の瞬間、陸也の顔を見て瞠目した。
あれ? サングラス……掛けてない!?
ソファの脇にあるローテーブルに、いつものサングラスが置いてあった。
そ、そうだよね。さすがに寝るときは外すよね。
手は繋いだままで、そろりとソファを降りて陸也の隣にペタリと座りこんだ。
常夜灯に照らされた陸也の顔。思わず見とれる。
ふわぁ、後見さんってば、すんごい整った顔してるんだなぁ。そうだろうなぁとは思っていたけれど……。
サングラスを外すと、彫りの深い鼻筋や、精悍な眉が強調される。
高校の美術室にあった彫像みたい。
思わず手を伸ばして触れてみたくなる。
実際、指先で額にかかった髪をかきあげてみた。
サラリとした髪は、思った以上にさわり心地が良い。光の加減で金色の光を纏っているように見えた。
きれい……。
もっと触れてみたくなって更ににじり寄り、頬に手を伸ばす。
その瞬間、目が開いて鋭い視線が柚葉に向けられた。
「……っ」
慌てて手を引っ込めたが、ドキッとしたのもつかの間、瞳はすぐに閉じられた。
うわぁ、びっくりした。
後見さんって、実はすごい美形だったりする? 暗かったから、しっかりと見たわけじゃないけどさ。
ドキドキしながら、おっかなびっくり声をかける。
「あ、あの……後見さん? ちゃんと布団で寝ないと……。これじゃあ、うちに泊めた意味がないです……よぉ~」
揺すってみるが、反応がない。
困ったなぁ。布団を用意してある所から毛布を持ってきたようだから、場所が分からなかったわけではなさそうなのに……。
一体、後見さんに何が起こったの? 怖い夢でも見たのか? いやいや後見さんに限って、まさかねぇ。あのサングラスで睨まれたら、お化けの方が逃げ出しそうじゃない?
時計を見ると午前二時を差している。
うわ、丑三つ時。
ぶるりと身震いする。時間の問題だけでなく、実際寒い。早春の夜更けはまだまだ冷たいのだ。繋いでいる陸也の手が心持ち冷たい気がして、柚葉は不安になった。
風邪を引いちゃうんじゃないかな。
ソファの下の敷物は厚手の綿入りだからさほど冷たさは感じない。問題は掛けるものだ。
……そうだ。
ふと思いついて、ソファの上で自分が使っていた毛布と布団を陸也にかぶせると、自分もその中に潜り込んだ。
うんうん。これなら温かい。
そもそも柚葉がリビングで眠っていたのは、二階の自分の部屋でひとりで眠るのが怖かったからだ。自宅で寝る場合は、いつもそうしている。
魔除けみたいな後見さんが居れば、怖くもないし、これはナイスアイデアだ。
それに……今気づいたのだけれど、サングラスを掛けていない後見さんは、あの時の妖精王に少し似ている気がする。
実は後見さんが妖精王だったりして。
そう考えると何だか嬉しくなってきて、ひとり悦にいる。
後見さん、サングラス掛けなきゃいいのに……。でもまぁ、本人が掛けたいんだから……仕方がないか~。
ふぁぁ。小さくあくびをする。
程良く温もってきた柚葉は、トロリと目を閉じ、やがて気持ちよく眠りに落ちていった。
この後、自分にぴっとりとくっついて安らかに眠っている柚葉に陸也が気づいて狼狽えるわけなのだけれど、それはまだ数時間先のお話。