10 記憶のヤノと本当のヤノ
パピヨン逃走後の周囲の動きです。
***
ナタリーは縫製作業をやっていた手を止めた。時間を見る。あの人は今どこにいるだろうか。
ナタリーは自分のバッグからPCを出した。電源を入れて立ち上げる。
パスワードを入れてソフトを立ち上げた。
彼は今・・駅付近にいる。駅で何をやっているのかしら。
地図を拡大した。裏通り・・あの辺は物騒だから立ち寄らない。あんな場所になんで・・。
赤いランプはある建物の中で止まった。
ここで何をしているのだろう。ナタリーは気になった。
ナタリーは自分のやっていることは無意味だと思った。ただの片思いだ。そしてこれはストーカー行為だろう。
しかし最近ナタリーはこの仕事に少し不満を感じていた。というのも単なる縫製だけの仕事ではなかったからだ。
昔のあのデザイナーは自分でもデザインをしたが、ここ最近は補佐である自分に任せてばかりで若い男と遊んでいる。そしてナタリーの名前はいつも伏せられていた。
ほとんどのデザインはナタリーが携わっているというのに。
自分の見た目の地味さも影響があるかもしれない。
着飾ったモデルを見るのはそれなりに楽しい。自分もできたらああなりたい。しかしナタリーは忙しすぎた。
服を作るのが好きだった。それが自分の唯一の取り柄だと思っていた。
だから仕事は服を作る関係の仕事ならなんでもいいと思った。
そしてこのデザイナーと出会った。
自分の作品が形になる。世に出る。それは喜びだろう。
しかしデザイナーの名前のほんの小さなクレジットでいいから名前を出すことはできなかった。
その代りデザイナーは給料を多く出した。
住む場所、生活費も面倒をみてくれた。
それはそれでありがたかった。しかし、飼い殺しのようだとも思えた。
そして忙しく働いたせいか婚期を逃した。モデルとのフィッティングはあっても出会いにはならなかった。
溜息を付きながらもミシンで作業し、調整をする日々。
人のせいにしても仕方がない。自分を変えなければ・・・。ほんの少しだけ人との繋がりを深められれば
何かが変わるかもしれない。しかしどうやればいいのだろう。
そんな時デザイナーがいつもと違う様子でナタリーに話しかけてきた。
「ナタリー・・このモデルどう思う」
こういう時デザイナーはあまり良くは思っていない場合が多かった。
ナタリーはデザイナーの差し出した写真を見た。
何枚かある写真をナタリーは受け取った。
全身、上半身、フィットした服を着た写真、無表情、笑顔、動きのある写真などだ。
白人男性、身長はモデルの平均レベルだし、顔も良い。爽やかだ。
どこにでもいる、ちょっとカッコイイお兄さんの上級編ってところだろうか。
たしかに良いと思う。でも何か足りない。何だろうか。
「とても素敵な方ですね・・どんな服も着こなせそうです」
「彼・・今回のメインにしようと思うの・・どうかしら?」
「いいと思います。でも・・」
「でも?」
「素敵だと思いますが・・なんていうんでしょうか・・言葉にできませんが」
「そうね・・アナタの言うとおりね。でも他にいないのよ・・。雰囲気っていうかね・・空気感」
「そうです・・それです。」
「いつも的確なアドバイスありがとうナタリー。今回はこのモデルをメインにするわ・・仕方ないけどね」
「いい判断だと思います。彼と会い何度のセッティングしているうちに良くなると思います」
「そう・・なるといいわね」
どこか腑に落ちない顔をしたデザイナーを見るのは少し残念だったが、あくまでも写真だ。
そこに血は通っていない。
それにしても・・ナタリーは今更デザイナーを見た。
この人はそんなに悪い人ではなかった。ちゃんと意見も聞いてくれるし、尊重してくれる。
名前が表にでないだけでウジウジ考えている自分を戒めた。
それにしてもあの人があの服を着るのだろうか・・・。
自分なら彼を選ぶだろうか・・。多分選ばない。自分なら延期してでも納得のいくモデルを使う。
しかし大人の事情だ。準備期間を短くするとショーそのものに影響が出る。
あくまでも服が主役なのだから・・どこかで割り切らなければならない。
モデルが決まり、フィッティングと慌ただしい日が続いた。
何度もリハーサルをし、タイミングを確かめる。
小さなイベントのつもりだったが、デザイナーが広告費を多く出したので予想外な客の席上予約が入った。
デザイナーは緊張していた。それはモデルにも矛先が向けられた。タイミングを少しでもずらすと
厳しい叱責が飛んだ。メインのモデルは若くてそのプレッシャーになんとか耐えていたが、
潰れるのではないかとナタリーは思った。ムリもない。このデザイン事務所は赤字を抱えていて今回のショーを
テコ入れにしたかったのだ。
しかし本番当日、プレッシャーからかモデルと連絡がつかなくなった。やっぱり・・彼には荷が重すぎたのだ。
連絡が入るとデザイナーは発狂しそうになった。
しかし、準備時間ギリギリになりデザイナーの携帯電話が鳴ったあと、不思議とデザイナーは落ち着いていた。
デザイナーは落ち着きながら言った。
「モデルを変えましょう」
この人は何を考えてるのだ・・ナタリーは不思議そうにデザイナーを見た。
この自信はどこからくるのか。今更素人なんて採用するのか・・今いるモデルで対応するしかないだろう。
当然周りは騒然となった。他のモデルも対応できないではない。しかしタイミングを事前調整していたので、
一人来られなくなると、準備が間に合わなくなる。
その時ヤノが現れたのだった。ナタリーは舞台の袖の片隅でデザイナーの指を刺した方向を見た。
あの人・・・。
ナタリーはそれまでモデルを意識して洋服は作っていなかった。
自分の理想像はあった。しかしそんな理想的なモデルは存在はしない。
目の前にいるその男は自分の漠然とした理想に近かった。
私はこの人のために今まで服を作っていたかもしれない。そんな気持ちになった。
ヤノの前に出て、私がこの服をデザインしたんです・・・ってどれだけ言いたかっただろう。
ナタリーは舞台の袖に座った。
あの人の動きを目に焼き付けよう。この人が着た服を雑誌に載せたい。
あの洋服のデザインのほとんどだってナタリーが手を加えたものだった。
しかし表向きの光のあたる場所はあの男に独占されている。
この業界ならほとんどそうだろう。年寄の感性も底がつき斬新な服のほとんどは若いデザイナーが影で
支えている。
自分もそこを割り切っていたつもりだった。あのモデルに出会うまでは。
舞台の袖で影ながら見ていてその雰囲気に惹きこまれた。
自分がデザインした服を着こなし颯爽と歩くヤノの姿に一瞬で恋に落ちた。その後色々と考えついに行動に移すことにしたのだ。ヤノはモデル向きの性格ではなかった。控室のやりとりを聞いていて適性は分かるものだ
時間とともにこの世界は人の流れはつきものだ。
ヤノもいづれ離れていく。その時のためにナタリーは発信機を買ったのだった。金額は高かったが性能は優秀だった。小型で気づかれにくい。その発信機は自分のメールアドレスに届く迷惑メールから見つけたものだった。
普段なら、こんなもの絶対に買わない。浮気夫の行動・ペット捜索・老人徘徊などに最適と書いてあった。
その手の商品にしては珍しくお試し無料と書いてあった。興味本位でお試しを取り寄せると本当に小さい物だった。
感度も良好だった。試しに数キロ離れた町から自分宛てに郵便物を送った。
パソコンにソフトをインストールをし、仮のパスワードを入力する。
メールに書いてあるシリアルコードを入力すると地図が表示される。
リアルタイムに自分の出した郵便物がどこにあるのか分かる。
オプションをつけると詳しい住所、場所のストリートビューも分かる。
これはいい。これは買いだろう。今だけオプション機能が試せるとメールには書いてあった。
機能の中の場所の特定とストリートビューをクリックした。
場所が特定された。現在は郵便局の配送倉庫の中にあるようだ。郵便で送ったのだから当たり前かもしれないが、この感動は大きかった。
メールにはさらに、今なら50%OFFと書いてあった。
ナタリーはすぐにネットで注文をした。半額でも高いが・・・。
いつかあの人に洋服をプレゼントしよう。その洋服に縫い込んでしまえば分からない。
そして今、ナタリーはヤノの動きをモニターで愛おしそうに見ていたが場所が場所だけに不安がよぎった。
この場所はいわゆるホテルだ。安ホテルでしかも物騒な所、よく事件がある。
こんな危ない場所になんで・・もしかしたら事件に巻き込まれたのかもしれない。
いいえ、もしかしたら彼もそういう趣味があるのかもしれない。あのデザイナーのように。
だとしたらそれで、諦めもつく。でも人間そう簡単に割り切れるものではない。
ナタリーは気が気ではなかった。本当なら警察に通報したいところだが、事件性でもない限り警察は動かない。
どうしたら・・これは自分で行くしかないと思った。しかし・・自分がまきこまれても困る。
誰か人を使いたい・・。
ナタリーは考えたが思い浮かばなかった。こうしている間にあの人は殺されるかもしれない。
ナタリーは頭を抱えこんだ。ナタリーはバッグの中から雑誌を取り出した。
ヤノが初めて雑誌に載った広告を見た。無事でいてほしい。ナタリーはモデルの名前のヤノを見て気が付いた。
photo by Jhone Frank
ジョンフランクと言う人が撮った写真なのか・・。この人ならヤノ印象を覚えている。
そして私とつなぐ線はほとんどない。恐らくヤノとつなぐ線も。
ナタリーは出版社に電話をかけた。デザイナーの代理という立場を利用して仕事を持ちかけそこで
そのホテルに行き安否の確認をしてもらうのだ。正確には裏通りの設定で写真を撮って欲しいともちかけ
あのホテルまで誘導する。うまく行くだろうか?
出版社の電話はなかなか通じなかった。ナタリーはしびれを切らし電話を切ろうとした。
その時男が電話に出た。
ナタリーは雑誌のカメラマンを紹介して欲しいと依頼した。
次の服のイメージと合うかどうか背景イメージが欲しい。
場所はあの怪しい店付近を言った。
相手は非正規なので今呼び出せるか分からないと言った。なので撮影料は倍額すると言った。
電話の相手はしばらく考えたあと、すぐに連絡すると話した。
ナタリーは本人の連絡先を教えて欲しいと言った。
電話の相手はそれは困ると言った。仕方ないのであなたにも支払うと言うと電話の相手は分かったと言った。
ナタリーは電話の相手の名前を聞いた。男の名前はカシワギユウキと言った。
日本人なのか・・。ならば話が早いだろう。この人が行けばいいがこの人だとちょっと・・。
こういう場合はあとくされのないカメラマンの方が無難だ。
カシワギの銀行口座を聞き、前払いで半分入金の約束をした。
電話の間にナタリーはPCからカシワギの口座に送金をした。カシワギは送金を確認すると
カメラマンの電話番号を教えた。自分からも連絡するといいカシワギは電話を切った。
ナタリーはヘッドホンをつけながら縫製作業を始めた。右手で相手の電話番号を入れて待った。
出ない・・・。ナタリーはイライラしながらミシンを動かした。
ノックがした。ナタリーは一旦電話を切りヘッドホンを外した。ドアを開けるとデザイナーが立っていた。
何の用かしら。ナタリーは不機嫌そうな顔をして
「新しいデザインはできましたか」
と聞いた。デザイナーは明るい顔をしてデッサンを見せた。ヤノをイメージした新しいデザインの服だ。
いい感じだ。ナタリーは笑顔を向けた。いつものデザイナーとは違う一面を見た気がした。
いつもは丸投げなのに。今回はヤノのせいかデザイナーもイメージを掴んだのかもしれない。
初めて本当の仕事がこの人とできるかもしれない。ナタリーは嬉しくなった。
「いいでしょ・・貴方も気に入るでしょ・・」
「素晴らしいです・・これは早速サンプルに取り掛かります。」
「お願い・・後でまた出来上がったところを見せて・・あと・・」
「ハイ・・何でしょう」
「ヤノの服は今回で最後にしましょう・・。貴方にとって良くない」
「どういうことでしょうか・・。」
「彼のコトなにも知らなかったでしょ・・私・・彼を調べたの・・疑ってはいないけど」
「それで・・何が分かったのですか」
「あの人は、ここに存在してはいけない人なのよ・・いわば幽霊。このままだと私も貴方もあまり良くない結果が出る」
「あの人の着た服はものすごく売れたんですよ・・あのティストがこれからのトレンドなんです。
貴方は折角の成功を捨てるのですか」
「・・・あなたの好きにすればいい。でも、この服が完成したら、私のアトリエを退社していただくわ・・ゴメンナサイ。でもあなたがヤノを諦めるのなら、このまま考えてもいい。どちらを選択するかこの服が完成するまでに考えておいて・・。」
「分かりました。では、もう今日限りで。」
最後の仕事をできれば一緒にしたかった。しかし、それなら彼が消えるのは本当に時間の問題だ。
急がなければならない。
ナタリーはデザイナーに言い捨てるとそのままバッグを持ちアトリエを後にした。
茫然と立ちすくむデザイナー。デザイナーはナタリーを追いかけたがナタリーの姿はなかった。
デザイナーは溜息をつき、電話をした。
「もしもし・・・動きがあったみたいよ。彼女あの発信機買ってくれたでしょ・・まさかねぇ・・あのおとなしい女が。ええ、そうよ。もし借入ができるのなら他の情報を教えてもいい。」
「借入できるのね・・ありがとう・・彼女は今駅の裏通りの安ホテルに向かっている・・」
「え・・ふふふ。信用していないわよ・・誰も。この世界なんて誰も信用しないわ。モデルもね・・彼らは
旬が過ぎたら使い捨て。そうよ・・。貴方にも紹介してあげるわよ。あら、分かったわ。私の恋人だったけど、
あげてもいいわよ・・その代り倍額いただいてもいいかしら・・紹介料。これからも宜しく
」
デザイナーは半笑を浮かべ電話を切った。さっきまで天気がよく晴れ渡っていた空は曇り雨が降り始めた。
この季節は天気が変わりやすい。これから何が起こるか分からないが、しばらくはマスコミ対策のため入院しようとデザイナーは病名を考えた。
部屋の中を見た。たくさんのサンプル。彼女は良く働いた。
本当なら完成させたかった、一緒に。しかし、世の中待ってはくれない。時間もお金も。
退職金は倍額入金しようとデザイナーは思った。
もっとも彼女が生きていれば。死んだら身内に行くだろうけど・・。
冷たい・・男かしら・・フフフ。
良心なんてこの世界に入った時から捨てていた。そうしなければ、這い上がれない業界だ。
サンプルをデザイナーは肩に羽織り部屋から出て行った。ドアを閉め鍵をかけた。
部屋の中を見渡す。ここもいづれ引払う。引っ越そう。
デザイナーは不動産会社に電話をかけた。
***
ナタリーは車を路肩に停め電話をかけた。ジョンフランク・・電話に出てよ・・。
しばらくすると眠たそうに重い声でボソボソ話始めた。
「ハイ・・」
「カシワギさんから聞いたと思うけど、ヤノさんの写真を撮った人ですよね・・アナタに依頼したいの」
「どうして私に?」
「アナタならヤノさんが分かるでしょ?」
「ヤノさん・・あのモデルのことか?」
「そうよ・・彼が無事が心配なの・・でも私はあの場所にはいけない」
「なるほど・・それでどうしたいのですか?」
「彼が無事か確かめて欲しい。無事ならそれでいい」
「もしそうじゃなかったらどうするんですか」
「その時は警察に通報するしかないわ・・。」
「私に疑いがかけられるではないですか・・そんなの引き受けられませんよ・・リスクがあり過ぎる」
「報酬を上げると言ったら?」
「報酬は・・ナタリーさんの金額の10倍じゃないと引き受けられませんね。それも前払いで」
「そんな金額・・せめて5倍で手を打ってよ・・彼を好きなの・・守りたいのよ」
「5倍ですね。その代り前払いでお願いします。あと、アナタも来ること。それならやってもいいですよ」
「今送金するし、一緒に行くわよ・・。でも半額でいいかしら。残りは現地の調査後ということで。」
「では残りの半額は現地での調査後でもいいでしょう。もう一つ。どうしてヤノさんがここにいることが分るのですか?」
「彼の服に発信機をつけたの。彼かどこに行っても分かるように」
「どうして」
「私の前から消えるのではと思ったから。送金するわよ・・。」
ナタリーはジョンフランクの口座に送金した。
「確認したよ・・では30分後に駅前の駐車場で」
「分かったわ」
ナタリーは電話を切った。無事だといいんだけど・・。
***
ジョンフランクは預金残高を見て溜息をついた。フリーライターという響きはそれなりに良いが、フリーなので
定期的に収入があるわけでもなかった。そのためライターの他にカメラマンの仕事もしていた。
今回はその仕事もキャンセルが入ってさらにキツイ状況になった。
深夜までネットで仕事を探したりセールスもしたりして、その日の朝はもう一日中寝てやると決めていた。
ジョンフランクの思惑どおりどこからも連絡もなく安心していた。実際は眠ってはいなかった。
ジョンフランクは自分の撮った写真をぼんやり眺めていた。壁に貼られた写真は風景からポートレイトまで様々あった。
その中で最近のお気に入りの写真を見た。これは意外だった。あの男の写真だ。
まさか映画館で偶然一緒になり、その後何気に話をした相手がまさかランウェイに立つなんてことあるか・・。
男の写真は幾つかパターンがあった。遠くを見ている写真・・・そしてウィンク。
この時俺は狂ったかのようにシャッターを切った。あの男は何を見ていたのか・・。
その目を見る・・。特定の誰かに向けたサインだ。いや、デザイナーの指示かもしれない。
その後の笑顔。男の俺ですら、惚れ惚れとするさわやかな笑顔だ。
ターンをする男、颯爽と帰る後ろ姿。
次の写真は髭がなくなっていた。服が少し派手で若い印象を受ける。
表情は最初の一枚と違いすこしおとなしい印象だ。
ランウェイの端に来たとき、女が舞台に上がった。これには驚いた。女がクラッチバッグからタバコを取り出す。
男を見つめる・・。何か話をしている。男は少し屈みポケットからライターを出し火をつける・・
男が見つめる視線と女が見つめる視線は交差してはいるが、一つの世界を作り出している。
火がタバコについたとき男は女を見つめる。女も男を見つめる。ほんの少し男が唇を上げる。
女は笑い舞台から降りた。男はターンをし、そのまま歩いていく。
ほんのわずかな時間だったが、その雰囲気は他の誰もがマネできない何かを持っていた。
このデザイナーの話ではメインのモデルが都合が悪くなり偶然通りかかった男に声をかけたらしい。
それにしても、この男の雰囲気は独特だった。最初見た時はどこか少し寂しそうな影があった。
それからバーで少し話をした。多くは話をしなかったが、人柄は良く感じた。
俺は眠気があるというのに、この男の写真ばかりみていた。もしかして・・まさか。
俺は女の方がやはりいい・・。
時計を見た。何もしない時間というのは長く感じる。そしてついに眠気が出てきた時、電話がなった。
まったく勘弁してくれよ・・。寝ようとしたが電話の相手はあきらめなかった。
仕方ないので電話に出た。柏木からだった。
「イイ仕事が来るから電話に出てよ・・。かなり焦っているから金額弾むと思うよ・・。
・・・仕事は駅の近くのよく事件のあるホテルだよ・・。大方ダンナの浮気の現場ってことかなと思う。
詳しい内容は女から聞いて・・ナタリーっていう人・・。アンタのあの写真の雑誌だよ・・」
「そうですか。それはありがたいお話です。引き受けましょう。詳細はその女から聞けばいいわけですね・・。
報酬はどうなりますか」
「その女は切羽詰まっているから少し吹っかけてもいいよ。あとさ・・今更だけど」
「なるほど・・少し多く吹っかけてみますか・・。今更と言うのは?」
「正式に君をウチのカメラマンとして雇いたいと思ってね・・君さえ良ければ一度面談でもしないかな?
堅苦しくなく、今まで一度も顔を合わせていないからね。」
「それはとてもありがたいお話です。ぜひ、お願いします。柏木さんの都合に合わせます。」
「今回の仕事が解決したら連絡してね。こちらのスケジュール調整もしておくんで」
「ではできるだけ早めに片づけます・・。」
「じゃぁ・・今回の件宜しく」
「分かりました」
俺は嬉しかった。まさか正式に採用されるなんて思ってもみなかった。なによりあの写真のおかげだ。
俺は改めてあの男の顔を見た。命の恩人かもしれないな・・。
思えば連絡先など一切の個人情報を俺はあの男から聞いていなかった。
ライターとして失格かもしれないと思いつつも、あの男に会うとなんとも言えない気分になるんだ。
不思議だな・・・しばらくボーッとしていると電話が鳴った。
この電話か・・。
俺はワザと大あくびをして電話に出た。
女は案の定切羽詰まった声で俺に仕事を依頼してきた。
要は女の変わりにその場所に行き男が無事か確かめてきて欲しいというものだった。
その男の特徴を聞いた時、俺は驚愕したのだった。
命の恩人がそんな場所で何をしているのかと思うと残念な気もしたが、スクープが撮れるかもという商売根性が沸いてしまった。とりあえず、俺は条件を聞き受けた。
自分も巻き添えを喰うかもしれないが、柏木との正式な採用に向けてここは何としても成功しなければならない。
俺たちは駅付近の駐車場で待ち合わせをして一緒に行くことにした。
約束の時間になり女が現れた。女は地味な服にメガネをかけていた。あの男とは釣り合わないな・・。
俺はとりあえず挨拶をした。女は頷いた。口数が少ない・・。
「ナタリーよ・・ジョンフランクさん?こんなお願いしてすみません。」
「後半分の報酬を振り込んでくれればいいです。あなたとあのモデルの関係は?」
「話を少しする程度よ。完全に片思い。分かってる。でもあの人が好きなのよ。ファンなの。いけませんか?」
「なるほど。分かりました。恋愛は自由ですよ。」
俺はとりあえず引き下がることにした。通常報酬の5倍は美味しい。人の弱味というのは価値が高い。
さっさと終わらせて柏木の正式採用の打ち合わせをしよう。
「柏木さんに報告してもいいですか。今の内容。安全のために。俺一人の問題ではないんでね。これでも正式に採用が決まっているんでムダにしたくないんですよ。もしダメなら俺はおりますよ。」
「わかったわ」
俺は柏木に電話をした。
「柏木さん・・お忙しいところすみません。」
「どうしました?」
「ナタリーさんの探している人なんですが、モデルなんですよ・・ヤノという人です。私が以前撮影したモデルです。」
「ヤノ・・・。」
「どうかしましたか?」
「いや・・そんなところに何でいるのかと思ってね」
「私もそう思ったんですが、彼女がウソをついているようにも思えなくてそれに、
間違いないようなんです。それで念の為報告しておきます。引き受けてもいいですかね?」
「引き受けてください。お願いします。できれば詳細な報告が欲しいです。ライターもやりますか?」
「ライターですか。いいですが、その場合は別途料金をいただきますよ。まだ正式ではないので、調査費用ということで簡易報告でしたらお安くします。」
「いいえ・・できれば詳細な報告が欲しいです。」
「柏木さん・・失礼ですがあのモデルと何かあるんですか?面識でも?」
「・・いいえ。」
「どうしてそんなに・・。」
「私も彼のファンなんでね・・あと場合によってスクープにもなるでしょ。」
「そういうことですか。分かりました。では、引き受けます」
ナタリーはイライラしながら待っていたがジョンフランクが引き受けてくれたので安堵した。
その様子を見て俺は少なからず、ヤノというモデルに嫉妬した。
柏木も何故か惹かれているようだった。確かに良い男だと思ったがそんなに男女からモテるとなると少し引く。
まぁいい。柏木はライターの仕事を持ちかけてきたのには驚いたが滅多にないチャンスだ。
俺たちはカップルを装い男が消えたらしい店に来た。ホテル・・か。
ドアの向こうには痩せこけた老人が貧乏ゆすりをしていた。
「泊まり?それとも・・」
「ここにこういう人は来なかったか?」
俺は写真を見せた。できるだけ早く終わらせたかった。しかしライターの仕事のため調査をしなければならない。
老人は目を大きく開けて言った。
「さぁあね・・ワシラは大勢のお客さんを見ているんでね・・それに物忘れも激しんでそんなのいちいち
覚えていないよ・・。ワシらを採用しているのはそんなこともあるんじゃないかってね・・それにね・・」
「なんですか」
「この仕事も交代制なんでね、前のシフトの人ならなんか覚えているかもしれないよ・・」
「その人の名前か連絡先教えてください。」
「悪いがね・・物忘れが本当にひどいんだよ・・。ヒマな老人が順繰りやってきて職にありついているようなもんだからね。泊まる気がないなら、帰ってくれ・・営業妨害だ・・」
老人は突っぱねた。この老人も生活のために見たくないモノをこれまでも見てきたのだろう。
できるだけ関わりたくないに違いない。
「わかった。泊まりでの料金を払うから・・部屋見せてくれ」
老人は金という言葉に反応した。現金は強いなぁ。
「だれがどの部屋に入ったなんて、イチイチ書いていないんでね・・。でもまだチェックアウトしていない部屋がある。」
「合鍵を貸してください!!!」
今まで黙っていたナタリーが叫んだ。
「まぁ・・いいか・・。
普段おとなしい女ほど、怒ると変わるもんだ。こういう女には少し注意をしないとな・・。
「お楽しみ中の邪魔をするのかぃ・・・ずいぶんだねぇーお姉さん。その代わりワシも行くよ」
「わかりました」
事件に巻き込まれる可能性も出てきた。しかし、俺は正式採用のためここは逃げずにやるしかない。部屋の前に来た。部屋はとても静かだった。1345号の部屋の前で老人が鍵をまわしドアを開けた。
部屋には誰もいないがシャワーの音がしていた。部屋の窓は空いていて外から雨が入ってきていた。
ナタリーは恐る恐るバスルームのドアを開けた。
目の前には信じられない光景があった。全裸の男は仰向けになり横たわっていた。
老人はギャッを声を上げた。俺は冷静に男に声をかけた。
この男はヤノだろうか?そんな気もするし、そうでない気もする。俺の記憶のヤノとは少し違った。
シャワーはその男の顔・体に広く当てられて男の顔は少しむくんで見えた。
死んだ場合はこうなるのかもしれない。
ナタリーは悲鳴も出さずに茫然としていた。これから俺は何をすればいいのか。
老人は腰を抜かしそうになりつつも警察に電話をした。
男の顔を見る。命の恩人・・・。死んでいたとなると事件になるな・・そうなると俺の記事は意味あるものになるだろう。
ナタリーの顔を見た。ナタリーは不思議と冷静だった。そしてナタリーは視線を衣服に移した時震え小さく叫んだ・・。声にならない叫びだ。ナタリーはその衣服を抱きしめて号泣した。
ヤノだったのか・・。俺の知っているヤツで唯一の有名人だったのに・・。
しばらくして警察が来た。
「現状維持のまま動かないで」
「アンタ達は第一発見者?」
「そうです。」
「なんでこの部屋に来たの」
「私はこの人が好きでした。それでもう会えなくなる気がして洋服に発信機を埋め込ませたのです。」
「それで、結果この場所に来たということね・・この人の名前は」
「はい。それで一人で来るのも怖かったのでお願いしてこちらの人と一緒にきました。ヤノという名前しか知りません。」
「アンタの名前は」
「ナタリーです。まだまだ認知度のないブランドですがこの服の縫製をしていました。
この服モデルがこの人です。この人は・・」
「なるほどねぇ・・そちらさんは・・」
「俺はジョン・フランク フリーライターでカメラマンの仕事をしていて、この人のランウェイでの写真を撮ったことがあります。
今回の件は本来の案件とは別なのですが、出版社からの依頼もあり受けました。」
「・・・そうですか。貴方がたの連絡先、ここに記入してください。
しばらくの間、我々に協力してくださいね・・なにかあったら連絡しますので」
「わかりました。」
「もう一度伺いますが、この人はそのモデルさんなんですか?」
「・・・そうだと思います。むくんでしまっているので、少し違う気もしますがなかなかない顔です。」
ジョンフランクは男の顎あたりを見た。
違う・・似てはいるが、ヤケドの痕がない。あの男は小さなヤケドの痕があった。
しかし傷痕をキレイにしたのなら分からない。
「あの人ヤケドの痕がなかったっけ・・」
「ないわ・・綺麗な顔だったわ」
「それは撮影の際は化粧で消すよ。俺はこの男に会っている」
ナタリーは男の体を見た。全体にむくんでしまってよく分からない。しかし、体形はほぼ同じだろう。
ヤノの裸を見ていないのでそこまでは分からない。
「この人に間違いありません。この服が証拠です。この服はこの人のために私が作ったのです。」
ここまで断定されると打消しにくい。しかし違う・・。なんだろう・・
「なるほど。ではこちらで捜査してまた何かあったら連絡します」
「お願いします。」
俺たちはその場をあとにした。
俺は歩きながらナタリーにこれからどうするか聞いた。
「・・こんな結果になったが、これからどうしますか?」
「そうね・・とりあえず、あなたに残りのお金を振り込んだら、しばらく気持ちを整理したいわ。」
「仕事はどうなりますか?」
「私あのデザイナーから解雇されたのよ。なのでまた職探しするしかないわね。」
「そうですか。俺は正式採用が決まっていたけど今回の件で遠くなるかもしれないな」
「私からカシワギさんに、良くやってくれたと電話しますから。」
「ありがたいがね・・結構移り変わりの激しい業界なんで・・。とりあえず、これで」
「お金は振込ますから
ナタリーは言った。まぁ・・頼む。
俺は柏木に電話をした。
「例のモデルが死んでいました」
「・・・あの男が・・・」
「何か・・・」
「いやなんでもない。あの場所は事件が起きやすい場所だ。それが運命だったのだろう。」
柏木は少し悲しそうな声でそう言った。出版社の人間がそこまで無名のモデルに入れ込むのはなぜだろうと思った。
「あのモデルさんとなにかあるんですか?」
「いや・・別に何もない。キミの採用の件だが、話を進めさせてもらうよ・・。今週の金曜日はどうかな」
「大丈夫です。」
「悪いんだがね、出版社の方ではなくて地方なんだけど来られるかな?丁度別の取材が入ってしまって、
どうしても他に時間が取れないんだ。」
「大丈夫です。場所はどこでしょうか。・・・分かりました。」
いつもお読みいただきありがとうございます。