第1話 特別編 中 『夜』
篠原カオリから貰った名刺に書かれた真夜中探偵とは一体何だろう。トモユキが消えたことに加えて、新たな衝撃。入学して早々に向かえた衝撃はあまりにも大きすぎた。
「じゃあ、テストを返します」
女教師がそんなことを言っている。入学早々に行われた学力診断テスト。その解答が今、返されるのだ。トモユキと真夜中探偵の方が今の俺にとっては数倍大事なことで、ここで赤点だろうがどうでも良い。平常心の俺なら呆然と口を開けるか、わけのわからない擬音語を叫び続けるのだろうがそうは行かない。
「はい、12点」
えっ、漏れ出す感動詞。開いた口が塞がらないとはよく言ったもんだ。一応言ったよ、赤点だろうが関係ないってさ。でもさ、これには驚くもんだろ?
「補習、頑張ってね?」
可愛い顔で微笑んでも、女教師が憎く感じるね。
* * *
補習の内容は中学時代に習った範囲の復習だったが、正直公式すら危うい。何とか成し遂げ、予想道理のねちねちした眼鏡の監督教師の束縛から逃れたときは既に辺りは真っ暗だった。
暗くなる前に帰れよ、そんな事を言っていたその眼鏡教師を恨みつつ、俺は鞄に筆記用具らを仕舞っていた。
さて、まだ問題は解決していない。トモユキの消失と真夜中探偵事務所の事だ。トモユキは存在そのものが完全に消えている。俺の中でしか存在しない空想の人物のように扱われている。いや、もしかしたらそうなのか? そうじゃないだろ、あり得ない。あいつとは何だかんだで小学からの付き合いだ。そんな筈はない。
あれ、ちょっと待てよ? 篠原カオリはまだ早いって言っていたよな? ってことはやっぱり彼女はトモユキを知っている。だって、君は異変に気が付いたようだなとか何とか言ってたし、そう考えるのが妥当じゃないか。
頭で今日起きたことを整理しつつ、部屋から出た。廊下は月明かりに僅かに照らされている程度でほとんど先が見えない。窓ガラスは黒く反射して鏡のように俺を写している。人の気配もない廊下には自分のこんこん、いやどっちかって言ったらきゅっきゅって音が鳴り響いている。とりあえず、帰るか。頭の中の雑念を排除するとまた歩き出す。明日になればどうにかなるだろうし、今どう動いても変わらないと思う。そんな気楽な考えを持ち合わせるのが俺の唯一の長所なのかもしれない。
歩いて数十秒で広い玄関に辿り着く。人っ子一人いない校舎にやたら響く足音。部活の声とか、吹奏楽の音が聞こえても良いだろうに全く静かだ。
――えっ、ちょっとまてよ!
いやいやいや、おかしいだろ。おかしすぎるだろ!陰気な眼鏡教師の補習を、受けてた俺。陰気な眼鏡教師は暗くなったのに暗くなる前に帰れよと馬鹿なことを言って教室を後にした。当然、補習の終わった俺は帰るしかない。だけどおかしすぎるだろ!教室から玄関までの道程で、人に会ってないんだから! それに人の話す声も部活動のガンバーとかファイトーみたいな声も聞こえないじゃないか! まるで俺だけしかこの建物の中にいないみたいじゃないか!
思わず足が動いた。校舎内を走り回る一人の男子高校生である俺。一般教室に特別教室。渡り廊下に体育館。グラウンドなんて一望できた。それなのに、本当に人っ子一人いやしない。
――何が何だかんださっぱりわかない!
トモユキが消えて、名刺を渡されて、補習にあって、人が誰もいない。異世界に迷いこんだかのように混乱する。だってそうだろ? 誰一人としてここにはいないんだぜ? たんに消えちまったんだよ!
走り回っても校舎の中には人の姿はない。月の光を浴びると狂ってしまうらしいが、そんなもん西洋かどっかの迷信だろ? 子供に夜遊びをさせないためだとかなんとか。でもこうも不可思議な体験をしてしまうと、俺も狂ってしまったんじゃないかと不安になる。
――狂ってなんかいないよ。
えっ? 背後から声がした。
「篠原・・・さん?」
月明かりに照らされた一人の美少女。黒いロングヘアーが艶やかに月明かりを反射している。蝋人形のように白くて美しい肌はいっそう輝いて見える。
左手を腰に当てて、制服姿で立ち尽くす篠原カオリは表情一つ変えずに俺をじっと見ていた。
「もう少し時間が経っても良かったけどさ、まさかあんたが“こっち”に入ってくるなんて思わなかったししょうがないけどさ」
何か、イメージが違うな。もっと清楚で可憐な美少女だと思っていたけど、今目の前にいるこの美少女はツンとした態度で立っている。
「聞いてるの…」
――チビ。
なぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぉぁぁぁぁぁ! 何だ、この女は! 初対面の男に、一応会ってからは1週間経つんだけどさ。だけど、面識もないヤツの身体的なハンデを面と向かって言うかい? 普通言わないだろ!
「ちょっと聞いてるの、チビ?」
やっぱりだ、この目の前に立つ美少女は俺に向かって最大の禁句を連呼してやがる。
「あんたの名前なんて知らない。だから当然でしょ?」
あ、なるほど。そういうこ・・・、いや違うだろ! こんな当然があってたまるか!
「ごちゃごちゃうるさいわねー。チビはチビ。デブはデブ。いい? 身体的な特徴なんて人それぞれ。背が高い人は高いし、低い人は低い。私の目に映るだけ、まだましよ。ほら早くしなさいよ、チビ」
踵を返した篠原カオリ。もちろん俺は、当然のように困惑の表情だ。しかし、人の消失したこの校舎内に一人取り残されるのは嫌に決まってる。困惑しながらも篠原カオリに着いていった。
* * *
校舎内を歩いたのだが何故だか違和感を感じる。校舎の教室、廊下、体育館と全ての配置がずれているのだ。
「ずれてないわよ、頭おかしいんじゃないの?」
的確なアドバイスありがとう。
「もう、ほんとバカ、クズ、使えない。あんた何も知らないわけ?」
あなたが毒舌なのぐらいはわかっていますよ? 校舎内に響き渡る罵倒の連呼。もはやBGMのように聞き流すほどの量だ。心地よくなんてない、むしろ吐き気がする。
「いい? よく聞いて。この世界は私達が普段生活する世界とは真逆の世界。逆世界とか鏡世界とか呼ぶ人もいるけど、私達探偵は・・・」
――裏世界と呼ぶわ。
「ほら、見てみなさいよ」
篠原カオリは廊下に貼られた紙を指した。何だかおかしい。一見見るとただの文字の書いたA4サイズのコピー用紙。ただ、文字が読めないのだ。
「文字だけじゃないわ。建物とかそこら辺にある物とかの配置も逆なのよ。裏世界では私達がいる表世界とあらゆる物が逆に配置されてるわけ。でも安心してね、重力の方向はおんなじよ」
たぶん俺はぽかんとしてたのだろう。俺の顔を見て篠原カオリは、不満そうに
「冗談よ、笑いなさいよ」
と言った。
* * *
双葉学園には旧校舎というものが存在する。普段学生が利用する各クラスの教室がA棟と呼ばれる建物にあって、そのA棟に渡り廊下でT字に繋がっているのが理科室や音楽室などのあるB棟。そのB棟は三年ほど前に改築されたもので、改築前のB棟が旧校舎と呼ばれるもので、A棟とB棟に直接渡り廊下で繋がっている。
その旧校舎は既に使われていないもので物置として使われているその名の通り旧校舎なのだが、閉鎖された部屋も少なくない。
「ここよ」
普段、開かずの部屋となっている扉の前に立つ。篠原カオリは何の躊躇もなく扉を開けた。
目の前に広がる光景に目を疑った。人気のない真っ暗な学校と相反するように、華やかしい部屋が姿を現したのだ。教室ほどの大きさの部屋は大きく二つに区切られていて、手前の空間には客人が座るように背の低いテーブルを挟むように置かれた二つのソファーがある。床は紅の絨毯で敷き詰められ、左右の壁には本棚があり、無数の数の本が敷き詰められている。奥の空間には机が一つ。机の上には写真やらタイプライターやらが無造作に乗っている。
「ようこそ真夜中探偵事務所へ!」
机に座る一人の男。白いスーツの間から見える赤Yシャツ。深く被ったソフト帽の奥にある男の顔は満面の笑みを浮かべている。
「さ、座って座って」
男は席から立ち上がり、俺をソファに案内した。困惑する俺を尻目に男はかなり愉快そうにソファに座った。
「いや、まさかこっちも予想外でね? こんなにも早く君がここに来るとは思わなかったよ」
ニコニコしなが言う男の話しも、俺への罵りを間に挟む篠原カオリの話しも何一つとして理解できない。
「そりゃあそうさ、君は何一つとして真夜中探偵の事を知らないんだからさ。まずは自己紹介からかな? ここの事務所、真夜中探偵事務所の所長の・・・」
――Mr.ハードボイルドだ!
は? 思わずこぼれた呆れ声。
「Mr.ハードボイルド。一応名前はあるんだけどさ、カオリ君にも、こっちの世界でもこれで通ってるからさ。君もMr.ハードボイルドって呼んでくれたまへ」
「はぁ・・・」
「とりあえず、君には色々と教えないといけないからね」
Mr.ハードボイルドは前屈みになって腕を組んだ。
「真夜中探偵、裏世界で依頼を受けて達成する表世界の探偵と何にも変わらない探偵だよ。活動場所が裏世界ってだけで、わかるだろ? 君をここに案内したカオリ君、そしてこの僕はこの事務所の探偵。真夜中探偵だよ」
カオリは口を曲げている。
「そして君は真夜中探偵に選ばれた」
えっ? もう一度、感動詞が漏れ出した。
「いや、ちょっと待ってくださいよ! 何がどうなってるんですか! ここは異世界で真夜中探偵事務所で、あなたたちはその探偵で僕はその探偵に選ばれた!? 言ってる意味がわかりませんよ! 僕はトモユキが存在そのものが消失してそれが知りたいだけなんです、それなのに・・・」
「まぁ驚くのも無理はないか。いいかい? 君たちが生活する表世界の反対が裏世界。裏世界は表世界と文字とか配置とかが全て逆になっている世界で、人も動物も住んでいない異世界なんだ。裏世界と表世界は連動していて、裏世界で起こった現象は全て表世界に反映されるんだ。もちろん逆もだ。ほら、例えば道の落ちている石が裏世界でずれたとしよう。そうすると表世界の石も同じようにすれるんだ。今回のこの事件はそんな表と裏の共通事項じゃない。君の友達の相澤トモユキ君、彼は突然として表世界から存在そのものが消失した。裏世界に元々存在しないから共通事項は通じない」
なんとなくわかってきた。表世界と裏世界は連動しているのだ。こちらで起こったこと、あちらで起こったこと。共にそれぞれに反映される。
「でも君は覚えているだろう? 真夜中探偵は裏表の一切の記憶が連動せずに存在する、唯一の存在なんだ。だからカオリ君と僕、そして君の記憶にはトモユキ君か残っているんだ? 何でって聞かれたら、今は答えることは出来ない。とにかく、君がトモユキ君を助けたいなら、裏世界で動くしかない」
「どうすれば、トモユキを助けられますか!」
Mr.ハードボイルドは今までの明るさが一変し、渋い表情になる。
「トモユキは恐らく、こっちの世界に入っている。人は表世界の存在だ。本来行き来できない人が裏世界に入るとその存在は消失してしまう。まるで最初から居なかったかのように。でも、人が裏世界に入ることは僕らを除くとまずあり得ない。入ることが出来ないからだ。唯一、人をこちらの世界に呼ぶことができるのは・・・」
――惡魔だ。
悪魔? 思わず首を傾げる。うんそうだ、とMr.ハードボイルドは重く頷いた。
「一般的な悪魔は黒くて翼か生えていて、地獄に住んでるサタンの使いみたいなイメージだけど、僕らが呼ぶ惡魔はちょっと違う。悪の象徴なのは確かだけど、ヤツらは実体がない。真っ黒い煙みたいな姿をしてるんだ」
まさか、そいつが?
「そうだね、可能性は実に高い」
Mr.ハードボイルドは突然立ち上がった。
「カオリ君、彼を頼む。僕は行かなきゃならない所がある」