私のプロレス
実鈴が目を覚ましたのは、丸一日が経ってからだった。
ベッドの上の実鈴は、傷口を押さえるための包帯やガーゼ、計測のための機材や点滴がいくつも体を覆っていて痛々しかった。医師の話によると、運動機能には問題は無いだろうが、脳波やバイタルが時折不安定なため、精密検査が必要だそうだ。明後日に迫った興行の最終日での試合は難しいとのことだった。
一般に、プロレスラーが試合で怪我をして病院に運ばれるというのは何ら珍しいことではない。一昔前は病院に行かないことが美徳とされていたが、だいぶ意識も変わってきているようだ。スタ女では現役生活を長く続けてもらうためにも必要な時は迷わず行くように勧めている。
ただ、プロレスラーは社会保険は入れるが、生命保険などの保険は保険会社が嫌がる。相当高いリスクを見て保険料を高額に設定するため、加入する選手や会社は少なく、手術や入院をすることになると、会社と選手の負担額が大きくなるのが常である。そのため、怪我をしても行くことを嫌がる選手も多い。
「実鈴・・・・・・」
「・・・・・・祐子・・・・・・。ここは?」
「病院。丸一日寝てたのよ」
「そっか・・・・・・。やっぱり、私、負けちゃったか」
「ごめん。私がやりすぎた。何も考えず、格闘技みたいにしちゃった。実鈴を怪我させちゃった。試合も塩試合にしちゃった・・・・・・。本当っごめん!」
「そう・・・・・・。で、私は今、どんな状態なの?」
私は簡潔に、少し異常が見られること、精密検査が必要なこと、結果がわかるまで試合はドクターストップであることを伝えた。
実鈴は少し寂しそうな顔をしたが、私が落ち込んでいることが声色から伝わったのか、全てを悟ったような顔をして、すぐに作り笑顔を私に向けた。
「社長が社員を怪我させるなんて、とんでもないブラック企業だね」
実鈴は静かに笑った。私は笑えなかった。
「・・・・・・ってことは、山倉に不戦敗になるでしょ。トータルで私は・・・・・・ウソ!これって自動的に最下位じゃない!」
「ごめん・・・・・・」
「あーあ、プライド傷つくなぁ」
「ごめん・・・・・・」
しょぼくれた返事しかできない私に、実鈴は肩をすぼめてふーっと大きくため息をついた。
「祐子」
「・・・・・・はい」
「しょげすぎ」
「・・・・・・はい」
「今度ワッフルおごってね」
「・・・・・・はい」
「いつまで呆けてるの?」
「・・・・・・はい」
「って、こらー!」
拳を振り上げて実鈴がベッドから起き上がろうとするが、ずっと寝ていたために体がうまく動かない。また、体につけられた医療機器がその動きをぎこちなくしていた。
一呼吸遅れて、慌ててベッドに実鈴を押し戻す。
「だめ、ちゃんと寝てなきゃ・・・・・・」
近づいて目が合った瞬間、バシッ、と大きな音がした。実鈴が私の頬を張った音だった。
「祐子、いい加減にして!」
実鈴の目は、その状態とは裏腹に力を宿していた。さげすむような、怒るような目。冷たく熱い視線を外さず、実鈴は毅然とした態度で言った。
「プロレスラーである以上、試合での怪我はつきもの。いちいち神妙な顔されたら困るの」
わかっちゃいる。わかっちゃいるけど、それでも、この手と足に残った感触が、試合後のぐったりとした実鈴の姿が、そして、押し寄せる後悔が、試合後から私にまとわりついて離れてくれない。
目を合わせるのも何だか辛くて、目線を床に落とす。
「でも・・・・・・」
「いいの。受けられも避けられもしなかった私が悪いの。祐子が気にすることじゃないわ」
力なく言い訳をしようとしたところを、実鈴が制する。
「謝りたいなら、もう謝ったでしょ?他に何か言いたいことがあるの?補償でもしてくれるっていうの?祐子は勝った。私は負けた。それ以上、他にあの試合に何があるっていうの?私たちはプロレスラー。他に何も無いわ」
実鈴の言う通りだ。プロレスラーに怪我はつきものだ。怪我をさせたことに対して申し訳なく思うのは当然にしても、それで気落ちしていたら続けることはできない。謝るには謝った。実鈴は結果も受け入れようとしている。
しかし、私の気は晴れない。心に引っかかるものがある。
「あのさ・・・・・・、祐子はさ、スタ女はさ、日本一になるんじゃなかったの?」
「え?」
唐突な実鈴の質問に、思わず顔を上げる。
「あれはウソだったの?」
「ウソじゃ・・・・・・ない!」
「じゃあ!日本一になるなら、こんなことで立ち止まらないでよ!」
いつもクールな実鈴が激昂していた。目には涙が浮かび、語気が荒々しくなっていく。
「私は、祐子がそう言ったからついてきた。私も日本一になるつもりでいた。そのためにはどんな障害も乗り越えてやろうと、どんな相手でも倒せるようになろうと思ってたし、今も思ってる!なのに祐子はっ!私を怪我させたくらいで立ち止まるの?一回しょっぱい試合しただけでもう終わりなの?これからは世の中終わったみたいな辛気臭い顔して、お通夜みたいな顔してリングに出て行くの?これじゃまるで、試合した私が悪いみたいじゃない!」
「違う!実鈴は悪くない!」
「じゃあ何でそんなにしょげてるのよ!悔しいのは私なのよ!負けて。怪我して。リーグも最下位で。不甲斐無くて。団体にもファンにも心配かけて!それなのに、勝って。元気で。トップに手の届く位置にいて。最終日にメインで決着がつけられる一番いいところにいて!そんな祐子の何が問題でしょげてるの?」
実鈴の涙と怒りと迫力に面して、反射的に、考えてもなかった言葉が口をついた。
そしてそれは、紛れもない私の真意だった。
「でも・・・・・・、でも、私がやりたかったプロレスはこんなのじゃない!」
私がやりたかったプロレスはこんなのじゃない。
手に、足に残った感触、試合後の後味の悪さ。実鈴を怪我させたことはさほど大きな問題ではない。一番引っかかっていたのはまさに、プロレスとしてのあの試合だった。
口に出してみて、気付いてはっとした。顔を上げると、実鈴が優しく微笑んでいた。
「だったら見せてよ。・・・・・・祐子のプロレスを、今度こそ、さ」
「私の、プロレス・・・・・・」
「それでさ、超高速王道プロレスでさ、日本一になろうよ」
実鈴の方が、私のことをずっとわかってるのかもしれない。
目から涙が出て、やっとの思いで強くうなずいた。
「・・・・・・うん」
「よしよし。じゃあまずは、スタ女でトップにならないとね」
実鈴の掌が私の頭をポンポンと叩く。
「うん。前田さんは、みんなの分も私がやっつけてあげる」
「お願いね。そしたら私が祐子に挑戦するから」
「うん」
何だか私が子供みたいだ。傍目には、きっと実鈴が上司に見えているだろう。
「病院出たら、ワッフル、よろしくね」
「え?私の優勝祝いは無いの?」
「おあいにくさま。今度の試合の分はファイトマネーが入らないからお金無いの」
「え~!」
二人でふふっと、小さく声を出して笑った。
やっと、一日ぶりに、自然に笑えた。
少し間が空いてから、実鈴は布団に包まって、しっしっと手を振った。
「じゃ、お忙しい社長さんはもう帰って。私も何だか眠いの」
「うん。そうね。そろそろいい時間ね。社員、愛してるよー」
「はいはい。今度焼き鳥でもおごってね」
病室を出た時から、急に気が引き締まったような気がして、プロレス脳が働き出した。イーグル前田相手にどんなプロレスをして、勝つのか。これは日本一に向けての試験問題だ。必ず自分の答案を出さなければならない。やってやる、やってやるってば。
後日、看護師さんに実鈴の様子を聞いたら、やはり色々とショックだったらしく、その夜は眠れずに、時折泣いていたらしい。
ありがとう実鈴。必ず、私、勝つからね。




