(三)
この日遅く、藤井邸に沙織が帰ると、真っ先に安摘が飛び出してきた。安摘は沙織の手を取って、強引に居間に引き込んだ。
「まだお休みではないの? もうこんな時間ですよ」
「沙織お姉様をお待ちしておりましたの!
いったいどういうおつもりですの? あんな、おバカな男を庇い立てなさるなんて、香瑠お姉様がお可哀相ではありませんの? お姉様!」
「安摘さん。あの者には、二度と手出し無用ですよ」
穏やかにソファに安摘を座らせるが、表情は堅く、言葉は決定の意味を持たせていた。
「……でも…………」
こうなっては、我が儘放題の末妹であっても、なす術はない。怯えの走った妹を、チラリと眺め、
「安心なさい。あなたが手を汚す必要はありません。時が来れば、私が命を下します。それまで、暫くは好きな夢を見させておきましょう」
「……お姉様……?」
「あなたも早くお休みなさい。今夜はよく眠れそうだこと。騎士殿のお陰で」
一人ごちると、沙織は自室に引き取った。
「よくわからないけど。沙織お姉様のなさることなら案ずることはないわ。
んー。ちょっと、つまんないけど」
姉の胸の内も知らず、無邪気な妹であった。
「お姉様が、そんなことを? 時が来ればと……」
「はい。大層お堅い決意が感じられました」
藤井香瑠の居室であった。和装で、背に緩く黒髪を束ね、文机に向かう姿は、日本画の如く静謐な風情であった。
「なぜそのようなことに。騎道のどこがお気に召されぬのか……。姉君だけは、私を信じて下さると思っていたのに」
守護者である蛍峨には、主の落胆は、更に深い痛恨として胸に沈んだ。
「差し出がましいのは承知しておりますが。
香瑠様。あの者は、あなた様には相応しいとは……」
「なぜか?」
主は従者に視線を向けることはなかった。彼らは従者以前に、主の影である。
「異なるもの。人ではあらぬ者と、感じました」
「恐らく、触れざる力。そのことは、騎道の星が語っておりました。その上、私には見えました。本当に美しい、青碧の光をもっていらして……」
「ご存知なれば、何ゆえに? 香瑠様」
視線を落とし、主ははっきりと口にした。
「……あの御方の為です」
蛍峨はびくりと肩を震わせ、手を付き深く頭を垂れた。
「先走ったことを。お許し下さい」
「せんなきこと」
蛍峨は少しばかり、頭を上げ、
「やはり、お心は、彼の方に?」
「引き離しようもなく、困り果てている」
溜め息にさえ、仄かに色付きそうな妖艶な苦悶があった。
「騎道とのことも、別段気にも留めては下さらぬご様子。お優しいお顔で、残酷なお方。憎んでも呪いたくとも、させてもくれずに。
愚かしく、我は舞うばかり……」
香瑠の想いは、騎道が読む通り他にあったのだ。
憂えた中から香瑠は我に返ると、文机の古びた書物を丁寧に閉じた。
「それで、騎道は真っ直ぐに帰ったのですね?」
「はい。理事長宅に入ってゆきました。新しい住まいに決まったらしく」
「新しい? それはどういう?
あの学園長代行が特別権限とかで、後見人を兼ねて引き取ったから、学園に転入できたという話しを聞いている。教師たちにも知らされていないことだが」
「ご存知ではありませんでしたか? 元は、先日火事で消失した、呉四丁目の関山荘に越していたのです」
「関山……? あの久瀬光輝の居た?」
「あ、はい。同じ部屋を。何でも、知り合いだということで、そっくりそのまま部屋を借り受けていたと」
「それよ!」
一言、凛と叫んだ。
瞳は驚愕と予感に大きく見開かれていた。書物に乗せた指が、堅く握り締められた。
「久瀬光輝! どこまでも、姉上を苦しめれば気が済むのか。あっさりと死んでくれて、安堵したものを……! 死しても尚、あの方を狂わせようというのか!
口惜しいこと、呪わしいこと」
意味のわからぬ主の怒りに、蛍峨は青ざめていた。
「香瑠様……!」
「奴は、姉上をあのように変えてしまった。それであの方が、家と奴との狭間に立たされ、どれほどお苦しみになったか。この私が誰よりも良く知っている。
関わらずに静やかにお暮らしでいれば、何の謗りも受けずに、総領とおなりだったのに」
蛍峨は、香瑠の激情が理解できなかった。総領の地位を失い、いずれは家風にそまぬ者として断絶されるだろうが、沙織はそれを少しも惜しむ風はなかったのだ。
かえって、生き生きと優美に、この古臭い屋敷を歩いていたのだ。愛されているという誇りに満ちて。それを幸福と呼ばず、どう言えばいいのか?
「恐らく、騎道の口から、光輝に関わりのある者と知ったのだ。それがなぜ時が来ればと、あんなことを決意なさるのか、解せぬが」
悲しげに、眉を寄せた。
「お引止めせねばならぬ。これ以上、ご自分を貶めたりはさせられぬ」
香瑠は、蛍峨に問い直した。
「写本は、確かに騎道の手に渡ったのですね?」
「はい。仰せの通りに」
「ならばよい。時が来たのです。
姉上の為にも、おの御方の為にも。巡る星がそう語る」
香瑠の手元にあるのは、表書きのない古文書である。香瑠の命により、蛍峨はこれをもう一冊、写本に造ったのだ。
藤井家総領にのみ伝えられる秘伝の書。方位学の権威者、祖父より受け継いだ知識をもって、ようやく解読可能となった、最強の布陣を伝える品だった。
「六角白楼陣を成そうとは、神をも恐れぬ行為よ……。
陽気に触れれば正と成り、陰気と合えば邪に落ちる。あれはまさしく両刃の剣。恐らく、悪しき輩の狙いは邪であろうが。
これを騎道が、討つことが出来るかどうか。私などでは、そうあってほしいと願うばかり」
香瑠の願いに、蛍峨はただ息を飲んで、香瑠の面を見守るだけであった。次期総領が、門外不出の布陣の書を、一介の学生に委ねようというのだ。
「すべての陣が、今年の二月から、動き始めたのです。
この私が、必ず止めてみせましょう。太破の合を」
太破。全てを破壊へと導く、天の布陣であった。
「光輝……? あれがあなたの『弟』なの?
あなたを私から取り上げに来るはずだった、憎らしい人なの?」
自室へ引き取るなり、沙織はやり場のない感情に体を震わせた。鉛のように重い全身を、ようやくベッドに運び、すがるように伏した。
『どうしたって、埋めようがない。どうしても』
騎道の凍り付いた悲しみの表情が、瞼に浮かぶ。
「……おかしいわね。同じことを考えてた。
信じられないわ。もっと冷酷な人だと思っていたのに……」
すぐに自分の甘さに、彼女は唇を噛み締めた。
小刻みに首を振り、全身で否定する。
「あなたが気に掛けていた子でも、私は彼を許さない……! 私からあなたを奪うはずの人間なんて、誰だって認めないわ! 生きていてほしくない……!
あなただって許してくれるでしょう……?
私は彼ら全てを、死ぬまで憎むは……。……あなたを、あんな目に合わせたのは彼らよ! あの騎道だわ……!」
意識が錯乱していた。彼女にもわかっていた。久瀬光輝を死に至らしめたのは、騎道のせいなどではないのだ。
ただ、いずれ彼女にとっては同じほどの悲しみ。光輝との別離を、騎道、もしくは別の人間が果たすはずであった。すでに光輝は全てを打ち明け、それを預言していた。
『沙織、よく聞けよ……。お前にここで出会えたのだって……』
『お願い、もう言わないで……』
『……。今の俺でなければ、きっとお前とは巡りあってないはずだ……』
『……はじめから、決まっているの? 私たちは、一緒にいてはいけないの?』
『諦めんのは早いぜ、沙織。早くその性格直せよ? 運命なんてもんは、簡単に変えられるんだよ。俺様を信じろって。俺に不可能なんかないんだ』
自信に満ちた光輝の笑み。なのに、彼は適えられずに、彼方へと旅立ったのだ。
「酷いわ……。最後にこんな嘘を付くなんて……」
『そうなったなら、たぶん、あいつが来るだろうな……。
賭けたっていい。目に浮かぶぜ、血相変えた奴の顔』
『誰のこと? あなたがよく話す男の子のこと?』
『ああ。とんでもなく危なっかしい奴。手の掛かるガキが。
……今頃は、少しは大人になっただろーが』
『わからないわ。あなたに何かおきたらって、何が起きるの? 恐ろしいことを言わないで……』
『……。悪い。心配するなって。例え話しだよ。そんなことになったら、ってさ。ほんと、ありえない話しだけどな』
『光輝……。そんなあなたは嫌いよ』
『わかってる。……わかってるよ、沙織。
何も起させない……。このまま、今のままで、何も変わったりしないさ』
沙織を引き離し、光輝はジャケットを取り上げ部屋を出ようとした。
『! 今夜も行くの? 一人にしないで私も連れていって』
『何だよ。寂しいのか? すぐに帰るよ。ちょっと、気になる場所があるんだ。
手は引いたけど、一応まだ俺の管轄だしな』
拒むように、沙織は光輝の胸に頭を押し当てた。
『相手が何だろうと、俺のテリトリーで好き勝手されるのは、我慢出来ねーんだ。お前なら解るだろう?』
『……あなたを変えられないのね……。ただの普通の男で居てほしいのに……。いつまでも、騎士で』
『……すまん。でも、この件で最後だよ。
あのお姫様の片がついたら、全部手を引く。クリオンの俺は、全ての宇宙から消えちまう。悔いはない。
そうして、藤井沙織の目の前にだけ、久瀬光輝が居てやるんだ。間違えるなよ? 久瀬光輝だ』
忘れもしない、事件の起こる一週間前のことだった。
光輝は死ぬ日まで、追いかけていた事件が終結したとは語らなかった。彼は、『クリオン』であるまま亡くなった。彼女のものだけになる、以前に。
「ねぇ? 香瑠お姉さまも、沙織お姉さまも、大丈夫なのかしら?」
沙織に言いつけられた通りベッドに入り込んだが、なぜか胸が重く安摘は眠れなかった。
「お二人して、安摘に何もおっしゃってくださらないのよ?
隠していらっしゃるけど、安摘にだってわかるわ……。いつも悲しい目をしてらっしゃるんですもの……」
器用に修繕された、クマのプーさんの耳の傷を、安摘は何度も指先でたどっていた。帰宅した狩峨に繕わせたのだ。
プーさんを抱え上げて、安摘は言い聞かせた。
「お前は羨ましいわね。いつも一人ぼっちなんですもの。誰かのことを、気に病むこともないのよ? 耳の一つがちぎれるくらい、丁度いいバツだわ」
プーさんの無表情さが安摘を慰めた。
「お姉さま方が大好きなのに、どうしてわかって下さらないのかしら……? 安摘が大好きなだけじゃ、足りないのかしら? もっと大切な方が、お在りなのかしら?」
くすん、と肩をしゃくりあげた。
「……だったら、お悩みになってばかりいないで、はっきりと何度でもおっしゃればいいのに。好きとか嫌いとかっ。
そうしなければ、誰にもお気持ちなんてわかりゃしないのに……。違う?」
時の必然なのであろうか。思い悩み夜を過ごす、藤井の三人の女神たちであった。
『ノクターン 完』