(一)
藤井家は、室町時代より連なる公家の血筋を引いている。
いわゆる、良家である。その良家の子女というものは、絵にも描けないお嬢様と、世間の見方は決まっている。
世の常識に誤りは無い。ただ、認識が甘いだけ。
ここに一人、世が世なら末の姫。三女の安摘を、主と仰ぐ従者が居た。
「考えただけでも、胸が悪くなりそうだわっ。
狩峨。わたくしではないお前には、判りようもないことだろうけどっ!」
無下なる言葉も、主と仰ぐ人のものである。これで気が済むのならばと、守護者として、少年は黙って受け止めた。
安摘の白い歯が桜色の爪を軽く噛んでいる。幼い頃からの癖であった。
「香瑠お姉様も手緩いわ。あんな奴、もーっと厳しい制裁を加えておしまいになればいいのに……!」
パフン! と丸いクッションを戸口にたたずむ少年に投げ付けた。
ここは安摘の私室である。藤井邸の中では、最も西洋風な部屋だった。安摘が掛けるソファの反対側には、くまのプーさんが知らぬ顔を決めている。
狩峨の胸には、熱いものが込み上げてきていた。
八つ当たりは毎度のことだが、ここまで安摘の関心を独占し、その上癇癪を起させ続けられる人間に、彼は抑えようのない怒りを感じていた。
彼も、安摘から事細かに話は聞いている。奴が、眼鏡を取った顔をさらすことを拒否したいきさつも、何もかも。
「……侮辱だわ。あいつが平然として学園に居ることだけでも、藤井家に対する挑戦よ! 家なき子の分際でっ」
そ、それをいうなら天涯孤独の身とか、孤児とか……。しかし、訂正の口を挟むことは、彼には当然できない。
無表情なプーさんの足を鷲掴みにして、安摘は切実な金切り声を上げた。
「ガマンできないっっ! あんな奴、ケチョンケチョンにしてやんなきゃ……。
安摘……、お姉様が可哀相で、悲しくて眠れないわ……」
逆さ釣りのプーさんを抱き締め、打ちひしがれて長いまつげを伏せた。
「安摘さまっ!!」
見た目は大人びているが、声はまだ少年のテノールである。安摘と同じ年齢くらい、中学三年生というところか。
狩峨は足元に駆け寄って、膝を付いた。その膝頭に何かが転がり落ちた。
よく見ると、くまの耳、である。
「狩峨っ……、あいつを何とかして……!!」
耳を千切り捨てた白い手は震えている。
「お言葉ですが、その件は香瑠様とお約束をなさったとか」
とっさに、耳無しプーさんが飛んできた。
「お前……、あたしとお姉様と、どちらが大切なのっ。
あたしの従者なら、とっとと騎道を叩きのめしてきてっ」
狩峨は深く頭を下げた。
「殴る蹴るだけじゃ物足りないわ! 痣なんかあちこちに作ってやって。軟弱そうだから、あんなの簡単よね。狩峨って、強いしぃ。それとそれとっ」
不穏な企みに、安摘の瞳はきらきらと輝いた。
「どうぞ、お心安らかに。かならずや」
狩峨の胸も踊っていた。是非も無い好機である。その上『強いしぃ』などと褒められてしまった。ここで、お嬢様の分と己の怒りを、晴らそうではないか。
「うん! 早く行ってきて?」
無邪気なバイバイが、燃える少年の背を送り出した。
閑静で平均的な住宅が立ち並ぶ路地を、騎道は足早に軽き過ぎていた。時刻はすでに、九時を回ろうかという夜半のことであった。
昨夜、『ストーンベイ』に現れたクリオンの正装とはうって変わった、芥子色の綿シャツと細目のパンツ。彩子に改めて言われなくとも、光輝の好みは『派手』の一言で済む。好きこのんであんな成りをしていたのではないのだ。
だが、折角の地味な綿シャツも、今は胸の部分を十字に切り刻まれていた。
柄のない、短刀の似た薄い刃を持つナイフが、街灯に鈍く閃く。
物騒極まりない代物を操る相手は、騎道よりは年下なのは明らかな少年だった。黒いコットン・パンツと黒いTシャツ。装飾らしいものといえば、首筋に光る細い銀のチェーンのみ。全身が研ぎ澄まされた、忍びに近い気配があった。
「結構、楽しませてくれるじゃないか」
顔立ちは衣服同様、過酷なまでに余分な肉を落とし、中性的な美しさへと昇華していた。その口元が、騎道の反撃をなんなくかわして、残忍に笑った。
少年はいきなり闇の中から仕掛けてきた。気配を殺して、殺気だけが白刃のごとく一閃したかと思うと、手刀と足蹴が間髪居れず襲い掛かってきた。
第一撃は、受け止めた。第二波は、奴は攻め手を素早く変えていた。騎道はまともに食らって、コンクリートの壁に叩き付けられたのだ。
とはいえ、彼の機嫌はかなり悪い。原因は、初めの騎道の受け身にある。
軟弱者とタカをくくっていた狩峨の計算では、一撃で騎道は路上に這いつくばっているべきだったのだ。高すぎるプライドが傷付けられたというところだ。
「……痣だらけになるのも、足腰立たなくなるのも、二目と見れない顔になるのも、僕は御免ですけど……」
よーくわかってるじゃん。狩峨は顔に、ありありとそんな感情を浮かべた。
騎道は、狩峨との距離を保ちながら、密かに肩に昇る痛みを堪えていた。
コンクリートに叩き付けられた上に、狩峨が親切にも、騎道の動きを封じてからナイフのこじりを埋め込んだのだ。
骨に異常は無いだろうが、しばらくは麻痺が続く。騎道には不利である。
「問答無用。秋の夜長だ。たっぷりと付き合ってもらうぜ?」
酷薄な表情で狩峨は唇を引いた。声音が、とろけるように甘美に響く。空いている右手をスッと振ると、もう一本、左手の獲物と同じナイフが現れた。
「!」
小刻みな動きで、二つの光を閃かせ、襲いかかってくる。かわしたつもりでも、瞬間的にさらに深く懐に踏み込まれている。全身がバネのように素早い。
これが素手の拳で、狩峨がもっと本気であったなら、何度、致命的なパンチを食らっているかしれない。
芥子色の綿シャツは、もうボロ布だ。この分では、体の方もガタガタにされるまで、そう時間はかからない。
「さあ、どうした? もう少し美的に踊ってほしいな」
低く笑いを噛み殺しながら、要求した。
騎道に反論はない。彼はもう一つ、闇の中に息を潜める影を見定めようとしていた。敵か、味方か。ここに至ってようやく、新手の影はゆらりと身動ぎを見せた。
「相変わらずの悪趣味だな、狩峨」
「フン。貴様の気配など、とうに読んでいたぜ。蛍峨」
「ならば、もっと早くに手を引くべきだろうに。香瑠様の御命だ、引け」
……藤井香瑠?
「愚かな。安摘様の御命で、そちらの恥辱を晴らしてやろうというのだ。手が貸せぬというなら、引っ込んでいろ!」
騎道は、事の次第を飲み込んだ。
「ほざくな。香瑠様は、いずれ藤井家の総領となられるお方、その御方の御命が聞けぬというのか」
「次期総領殿だろうが、我が主は安摘様お一人。聞く耳はもたん」
剣呑な気配が、更に深まった。両者とも、よく似た衣服、鍛錬された風貌。香瑠の配下の方が、悪趣味な手合いよりは、常識的のように見えた。
それでも、騎道に向ける視線は、切りつけるような憎しみにたぎっていた。
「不本意な話しだな。本来なら貴様になど任せずに、この私の手で、血を吐かせてやりたい相手だというのに。主君の命で、守らねばならぬとは」
「おもしろい。ならばまず、お前から叩きのめす……!」
似通った体つき、鋭い視線、誇り高い態度。どれをとっても、この二人の技量に差のないのは明らかだった。このまま対すれば、互角に攻めぎ合う力は、それぞれを傷付けあうだけに終わりかねない。
原因は騎道だ。よって見過ごす気にはなれなかった。
「見苦しいぞ、二人とも」
第三の影が、騎道の肩を抑えて前に出た。三人目の気配は、誰一人として察知できなかった。それほどの手練ということなのだ。
「邪魔をするな!」
誰彼構わず牙を剥くところは、主の安摘に似ていた。
「下がっていろ。お前には関わりのないこと」
「蛍峨。狩峨を追い払った後、この者をなぶる算段だろう。申し開きは、狩峨に擦り付けて。私が読めぬとでも思ったか」
一人胸を撫で下ろしたのは、騎道だった。
「二人とも引け。二度と、つまらぬことで拳を交えるな」
言い放つ声は、二人よりも年長の落ち着きが感じられた。スーツの後ろ姿には、男性的な強さが濃く漂っている。
「断る!」
「同じく!」
言い放たれた男は、少し眉をひそめ小首を傾けた。
「お引き。私の頼みでもか?」
ぽっと、闇の中から、開いたばかりの白い花のように、一人の女性が浮かび上がった。艶然とした微笑が、夜の女王のように妖しい光を湛えている。
その光に打たれて、対する二人は腰を引いた。
「引きや。でなければ、容赦はせぬ」
言葉通り、背筋の凍るような最終通告。下知することに慣れた階級の持つ、言外の言がここにあった。
「淕峨。二人を送っておやり。ちゃんと寝床に入ったか、見届けるのですよ」
優しい口調で、飛びすさっていく二つの影を見送った。
「しかし……」
「構いません。私は、この方に送って頂きます」
「いえ、僕はこれで……」
騎道に構わず、青年は無言で立ち去った。
「そんなお姿で? 夜通し歩き回るおつもり?
せめてもの、お詫びの記しですわ。着替えを用意いたします。騎道様」
彼女は、誰かに良く似た丁寧な口調でありながら、着ている服はいくらか大胆な、魅力ある肢体を十分に誇示したデザインだった。現代的に洗練されて、華やかだが、どこか寂しげな印象を隠し切れずにいた。
「僕の名前を?」
「知っていますわ。香瑠から、よく聞いていました。
藤井香瑠の姉、沙織です」
口調が変わった。堅苦しい言葉遣いより、ずっと彼女を人間らしい生気に包む。藤井三姉妹の中では、最も親しみやすい女性だと、騎道はほっとしていた。