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交代

作者: ポテト
掲載日:2025/10/29

  錆びた鉄の匂いがした。

 一日に数本しか来ない路線バスのブレーキが、軋むような音を立てて空気を震わせる。がくん、と体が前のめりになり、窓ガラスに額が触れた。ひんやりとした感触のすぐ向こうで、見慣れた、しかしどこか遠い風景がゆっくりと流れていく。

 バスは今、この水楢村へと続く唯一の道である、曲がりくねった峠道を下っている。窓の外には濃すぎるほどの緑が迫り、真夏の西日を浴びてぎらぎらと照り返していた。ガードレールはところどころ赤錆が浮き、アスファルトの裂け目からは生命力の強い雑草が顔を覗かせている。

 この峠を越えなければ、村の外へは出られない。そして、この峠を越えてくる者もほとんどいない。

 ――帰ってきてしまった。

 夏帆かほの胸に、懐かしさよりも先に、ため息に近い感情が静かに落ちた。


 バスのドアが、空気を圧縮したような音と共に開く。むわり、と生温かい空気が車内に流れ込んできた。草いきれの匂い、湿った土の匂い、そして、絶え間なく響くひぐらしの鳴き声。それらが渾然一体となって、夏帆の体を包み込む。東京の人工的な熱気とはまったく質の違う、生命そのものが発するような濃密な湿度だった。

水楢みずならー、終点、水楢ー」

 運転手の気だるげな声に促され、夏帆はリュックを背負い直し、たった一人の乗客としてステップを降りた。


 バス停の古びたベンチに、見慣れた人影があった。

 少し褪せたTシャツに、洗いざらしのジーンズ。数年会わないうちに、少年っぽさが抜け、青年らしい骨格になったその姿に、夏帆は少しだけ戸惑った。

「よう、夏帆」

 相手が先に気づいて、片手を上げた。日に焼けた顔に、昔と変わらない人懐っこい笑顔が浮かぶ。

「……いっちゃん」

 口をついて出たのは、昔からのあだ名だった。夏帆の言葉に、いつきは少し照れくさそうに頬を掻いた。

「やめろよ、その呼び方。もうガキじゃねえんだから」

「ごめんごめん。でも、久しぶり。迎え、ありがとう」

「いいってことよ。ばあちゃんの見舞いだろ? 大変だったな」

 樹はそう言って、夏帆が持っていた小さなスーツケースをひょいと持ち上げた。その自然な気遣いに、強張っていた心が少しだけ解けるのを感じる。彼だけは、この村で何も変わらないでいてくれる。そんな安心感が、夏帆の胸を満たした。


 実家までは、歩いて十分ほどの距離だった。道の脇を流れる用水路の、絶え間ない水音がひぐらしの声に重なる。

「相変わらず、何にもないところでしょ」

 樹が、自嘲するように言った。

「そんなことないよ。落ち着く」

 口ではそう返しながらも、夏帆は心のどこかで息苦しさを感じていた。峠という細いへその緒でかろうじて外の世界と繋がっているだけの、この山に囲まれた盆地は、まるで巨大な器の底のようだ。空は狭く、空気は淀んでいるように思える。誰もが顔見知りで、噂話は風よりも速く広まる。そして、村の大人たちが頑なに守り続ける、古いしきたりと禁忌。

 ――影見ずの淵。

 その名を思い浮かべただけで、心臓のあたりが冷たくなる。用水路の水音までもが、何かを責め立てるように聞こえ始めた。


 実家の引き戸を開けると、線香と湿布の匂いがした。祖母は、寝室の布団の上でゆっくりと半身を起こした。思ったよりも顔色は悪くなく、夏帆の顔を見るなり「まあ、遠いところをよう」と皺くちゃの手を伸ばす。その手に触れた時、夏帆はようやく、本当に帰ってきたのだと実感した。


 その夜だった。

 夕食と入浴を済ませ、歯を磨こうと洗面所に向かう。祖父母の家は古く、洗面所もひんやりとしたタイル張りで、裸電球が一つぶら下がっているだけだ。

 歯ブラシを咥え、何気なく顔を上げる。古い蛇口の、鈍く光るクロムメッキに、自分の顔が歪んで映り込んでいた。

 ――違う。

 そうではない。異変は、蛇口ではなかった。

 夏帆は、洗面台の上のコップに目をやった。祖母がうがい用に用意してくれた、透明なガラスのコップ。なみなみと注がれた水道水が、裸電球の光を反射して静かに揺れている。

 その、小さな水面に、夏帆の顔が映っていた。

 じっと、見つめる。

 次の瞬間、夏帆は息を呑んだ。

 水面に映る自分の目が、現実の自分よりも、ほんのコンマ一秒だけ早く、ぱちりと瞬きをしたのだ。

 気のせいだ。疲れているんだ。そう頭では理解しようとしても、背筋を這い上がってくる悪寒が消えない。

 夏帆は蛇口を捻り、コップの水を乱暴に流し捨てた。ごぼごぼと音を立てて渦を巻き、水が排水溝に消えていく。

 もう一度、空になったコップを見る。そこにはもう、何も映ってはいなかった。

 ひぐらしは、もう鳴いていない。夜の静寂の中、家のどこか、あるいは壁の向こう側から、ぽたん、ぽたん、と規則的な水滴の音だけが聞こえていた。


 翌日から、夏帆の奇妙な体験は続いた。

 それは、大声で騒ぎ立てるような派手な出来事ではない。日常の風景に、染みのように静かに、しかし確実に広がっていく、ごく些細な違和感だった。


 昼食の時だった。祖母が作ってくれた冷や麦を啜り、何気なく自分の使っているガラスの器に目を落とす。麺つゆの黒い水面に、天井の蛍光灯と自分の顔がぼんやりと映っていた。

 つゆを飲むために器を傾けた、その瞬間。

 水面に映る自分の口元だけが、夏帆の意思とは関係なく、にたり、と楽しそうに歪んだ気がした。驚いて器を置く。どきどきと脈打つ心臓を抑え、もう一度恐る恐る覗き込むが、そこに映っているのは、不安げな顔をしたいつもの自分だけだった。

 気のせいだ。そう何度も自分に言い聞かせた。東京での慣れない一人暮らしで、気が張り詰めているだけなのだ、と。


 昼食を終え、祖母が昼寝のために部屋に戻った午後二時過ぎだった。さっきまであれほどやかましかったひぐらしの声が、ぴたりと止んだ。空がにわかに暗くなり、生温かい風が畳の上を吹き抜ける。夏帆が縁側から空を見上げると、西の山の向こうから、黒に近い灰色の雲が猛烈な速さでこちらへ流れてくるところだった。

「夕立かねえ」と、隣の部屋から祖母の声がする。その言葉が終わるか終わらないかのうちに、ざあっと、バケツをひっくり返したような激しい雨が地面を叩きつけた。

 ほんの十分ほどの通り雨だった。あれほど激しかった雨音は嘘のように遠ざかり、空は再びまぶしいほどの夏の日差しを取り戻す。蝉たちは待ってましたとばかりに、一層声を張り上げて鳴き始めた。

 夏帆は、縁側でその目まぐるしい光景を眺めていた。あっという間に庭の土は黒く湿り、あちこちに大小の水たまりがきらきらと光を反射している。

 石灯籠の根本にできた、ひときわ大きな水たまり。粘土質の土に溜まった水は濁り、空の青とも緑の木々ともつかない、鈍い色を映している。夏帆は、吸い寄せられるようにその水面を見つめていた。

 不意に、その水面に映った自分の姿が、まるで水の中からこちらを観察するように、ことり、と首を小さく傾けた。

「うわっ」

 思わず短い悲鳴を上げて後ずさる。

「どうしたね、夏帆」

 声に驚いたのか、祖母が部屋から顔を覗かせた。

「ううん、なんでもない。虫が飛んできただけ」

 そう嘘をつくのが精一杯だった。祖母に、淵のことを話すわけにはいかない。幼い頃、あれほど固く「あの淵だけは、覗き込んではならん」と言われていたのに、それを破ったなどと、どうして言えるだろう。

 この恐怖は、自分一人で抱え込むしかない。その事実は、夏帆の心を重く沈ませた。


 夜になり、夏帆は風呂場に向かった。祖父母の家の風呂は古く、壁も床もひんやりとしたタイル張りだ。換気扇の低い唸り声だけが、湿気のこもった空間に響いている。できることなら入りたくなかったが、汗ばんだ体をそのままにしておくわけにもいかなかった。

 シャワーのノズルを捻る。ごう、という音と共に、熱い湯がタイルを叩いた。

 目を閉じて髪を洗いながら、夏帆は意識を聴覚に集中させた。水音、換気扇の音。それ以外の音は、何一つしないはずだった。

 なのに。

 シャワーの音の向こう側、すぐ耳元で、誰かが囁いたような気がした。

 水を含んで、くぐもった、低い声。

『……かほ』

 呼ばれたのは、確かに自分の名前だった。

 夏帆はシャンプーの泡が目に入るのも構わず、ばっと目を開けて振り返った。湯気で白く煙る空間には、もちろん誰もいない。古びたステンレスのタオル掛けと、壁に備え付けられた鏡だけが、ぼんやりとそこにあるだけだ。

 心臓が早鐘のように鳴っている。気のせいだ、きっと水音がそう聞こえただけだ。そう自分に言い聞かせ、夏帆は急いで髪をすすぎ、逃げるように湯船に体を沈めた。


 ざぶり、と音を立てて湯が溢れる。肩まで浸かると、ようやく強張っていた体が少しだけほぐれた。

 ――大丈夫。何もない。

 そう思おうとした、その時だった。

 湯船のなみなみと張られた湯の表面に、天井の裸電球と、自分の顔がぼんやりと映っているのが見えた。

 もう見るまい、と決めていたのに、視線が縫い付けられたように動かせない。

 水面に映る、自分の顔。その両目が、何の脈絡もなく、ぱちり、と瞬きをした。

 現実の自分は、目を固く見開いたままだというのに。

 ひっ、と喉から引き攣ったような音が漏れた。

 湯船の水が、自分という獲物を観察している、巨大な一つの「目」のように思えた。もう一秒たりとも、この場所にいられない。

 夏帆は悲鳴を上げることも忘れ、転がるようにして湯船から飛び出した。


 濡れた体のまま脱衣所に駆け込み、震える手でバスタオルを掴む。乱暴に体を拭いていると、ふと、自分の左肩に奇妙な痣のようなものがあることに気がついた。

 いや、痣ではない。

 それは、赤黒く変色した、濡れた手の跡だった。

 まるで、水の中から誰かが強く夏帆の肩を掴んだかのような、五本の指の跡。それは、夏帆自身の右手の大きさとは、明らかに違っていた。

 声にならない叫びが、喉の奥で詰まる。

 夏帆はその場にへたり込み、ただ震えることしかできなかった。濡れた指の跡は、まるで最初からそこにはなかったかのように、数分かけてゆっくりと肌に吸い込まれ、消えていった。


 その夜、夏帆はほとんど眠ることができなかった。

 布団に入り、固く目を閉じても、瞼の裏にあの濡れた手の跡が焼き付いて離れない。うとうとしかけると、自分が冷たい水の中に沈んでいく感覚に襲われ、はっと息を呑んで覚醒してしまう。水底から無数の手が伸びてきて、足首を掴んで離さない。そんな悪夢の残滓が、意識の淵にまとわりついていた。

 夜が明け、障子の向こうが白み始めても、疲労感は鉛のように体にのしかかったままだった。


 朝食の席で、祖母が心配そうに夏帆の顔を覗き込んだ。

「夏帆、顔色が悪いじゃないか。ゆうべ、よく眠れなかったのかい」

「ううん、大丈夫。ちょっと……そう、枕が変わったからかな」

 ぎこちない笑顔で嘘をつく。祖母の優しい視線が、今は針のように突き刺さった。淵のことを知られたら、この優しい祖母をどれだけ悲しませるだろう。そう思うと、胸が苦しくなった。

 自分一人で解決しなければ。いや、もう一人ではどうしようもなかった。

 頭に浮かんだのは、昔と変わらない笑顔で迎えてくれた、たった一人の幼馴染の顔だった。


 午前十時。夏帆は、村で唯一の喫茶店にいた。入り口のドアベルがカラン、と鳴り、待ち合わせをしていた樹が「悪い、待ったか?」と言いながら入ってくる。

「ううん、私も今来たとこ」

 席に着いた樹は、夏帆の顔を見るなり、その笑顔を曇らせた。

「……どうしたんだよ、夏帆。ひでえ顔だぞ」

 その気遣うような一言で、張り詰めていた糸がぷつりと切れた。

 夏帆は俯き、震える声で、ここ数日の間に自分の身に起きたことを話し始めた。コップの水面に映った瞬き、水たまりの不気味な動き、そして昨夜の風呂場での体験。肩に残っていた、あの濡れた手の跡のことまで。

 樹は、夏帆の話を一度も遮ったり、笑ったりすることなく、ただ真剣な表情で眉間に皺を寄せ、黙って聞き続けていた。


 全てを話し終えた夏帆は、泣き出しそうな声で訴えた。

「……私、どうかしちゃったのかな。疲れてるだけなのかな」

「疲れてるだけだろ、で済む話じゃねえよ」

 樹は、きっぱりと言った。その声には、夏帆の恐怖を微塵も疑わない、強い響きがあった。

「俺のせいだ。…いや、俺にも責任がある。あの時、お前が淵を覗くのを、俺がちゃんと止められなかったから」

「そんなことない! いっちゃんは悪くないよ!」

「いいや。二人でやったことだ」

 樹はテーブルの上で固く握りしめられていた夏帆の手に、そっと自分の手を重ねた。その手のひらは、少し汗ばんでいて、温かかった。

「だから、俺にも手伝わせろ。絶対に、夏帆を助ける。約束する」

 その力強い言葉に、夏帆の目から、堪えていた涙がぽろぽろと零れ落ちた。暗闇の中で、ようやく一本の光を見つけたような気持ちだった。


 その日から、樹は変わった。

 役場の仕事を終えると、彼はまっすぐ村の小さな図書館へと向かった。埃っぽい書庫の片隅にある郷土資料の棚。そこに、何か手がかりがあるはずだと信じて。

 彼は、村の歴史や民話、古い言い伝えが記された黄ばんだ本を、片っ端から読み漁った。ほとんどは子供だましの迷信や、農作業に関する記録ばかりだったが、彼は諦めなかった。

 数日が過ぎた。夏帆の衰弱は日に日にひどくなっていた。悪夢は続き、食事も喉を通らない。彼女は、昼間でも一人で家にいることができなくなり、樹が図書館で本を調べている間、その隣でただ黙って座っているようになった。


 そして、ある日の夕暮れ時だった。

 閉館時間を告げる音楽が流れる中、樹が「あった…かもしれない」と、かすれた声で呟いた。

 彼が見つけたのは、和紙を綴じた、かなり古い文献だった。表題は墨が滲んでほとんど読めず、ページは湿気でくっつき、あちこちが黒い染みで覆われている。無理に開こうとすれば、それだけで崩れてしまいそうだった。

 樹は、夏帆に「動くなよ」と目配せし、慎重にページをめくっていく。判読できる文字は、数えるほどしかない。

「…月の満ちる夜…供え物を…」

 樹は、息を詰めて、虫眼鏡でも使うかのように文字の残骸を追った。そして、ある一文の前で、彼の指がぴたりと止まる。

 そこには、かろうじてこう読める部分があった。

「…淵…静…儀…水神…解…」

 前後の文章は、染みと破れで完全に失われている。ただ、このキーワードだけが、暗号のように浮かび上がっていた。

「淵を…鎮める儀式…。水神を…解く…?」

 樹は、自分に言い聞かせるように呟いた。夏帆は不安そうに彼の顔を見つめている。

「『解く』って、どういう意味だろう…」

「普通に考えれば、呪いを解く、だろ」

 樹は、夏帆の不安を打ち消すように、力強く言った。

「見てみろ、ここに『静』っていう字も残ってる。淵を『静』める儀式なんだ。だとしたら、水神の呪いを『解』く以外に考えられない」

 それは、ほとんど希望的観測だった。しかし、日に日に衰弱していく親友を目の前にして、樹にはもう、この不確かな情報にすがる以外の選択肢は残されていなかった。

「次の満月は、三日後だ」

 樹は夏帆の肩を強く掴んだ。「夏帆。あと三日だけ、耐えられるか?」

 夏帆は、樹の真剣な瞳を見つめ返し、小さく、しかしはっきりと頷いた。

 暗闇の底で、ようやく見つけた、あまりにも細く、切れそうな蜘蛛の糸だった。


 三日後の夜。月が、青白い光を地上に投げかけていた。

 ひぐらしはとうに鳴き止み、今は草むらで鳴く虫の声と、遠くで聞こえる鹿威しの音だけが、夜の静寂に響いている。

 夏帆と樹は、村はずれの細い畦道を、懐中電灯の光を頼りに進んでいた。目指すは、村の禁足地、『影見ずの淵』。


 夏帆の足取りは、ひどくおぼつかなかった。この三日間、彼女はほとんど部屋から出ず、「東京の疲れが出たみたい」と言って布団にこもりがちだった。祖父母はそれを信じ込んでいるが、樹だけは知っていた。彼女の衰弱が、ただの疲労ではないことを。その青白い顔は、まるで生気そのものを少しずつ吸い取られてしまったかのようだった。

「大丈夫か、夏帆。もう少しだ」

 樹の声に、夏帆はこくりと小さく頷く。その仕草すら、ひどく億劫そうに見えた。


 やがて、二人の目の前に、木々が不自然に開けた場所が現れた。しめ縄が張られた二本の古い木の向こうに、満月を映して静まり返る、黒い水面。それが『影見ずの淵』だった。

 淵は、樹が想像していたよりもずっと小さく、何の変哲もないただの沼のようだった。しかし、その水は不気味なほどに黒く、月明かりを反射しているにもかかわらず、その底を窺い知ることはできない。まるで、夜そのものを溶かし込んだかのようなどす黒い水面が、ぬらり、と二人を見つめ返している。

 夏帆が、樹の腕を掴む手に力を込めた。無理もなかった。この場所に近づくだけで、まとわりつくような冷たい空気が肌を刺す。

「大丈夫。俺がついてる」

 樹は夏帆を安心させるようにそう言うと、リュックから古文書に書かれていた供え物――洗い米と、村の神社で汲んだ神酒を取り出した。彼はそれを、しめ縄のすぐ手前の、水際にそっと置く。

 そして、古文書の判読できた部分と、前後の文脈から自分なりに補完した祝詞を、震える声で唱え始めた。

「…水楢淵に鎮まりし、水神よ。…どうか、この者の過ちを許し、その呪いを…解き給え…」

 樹の祝詞が、静まり返った水面に吸い込まれていく。

 その時だった。

 それまで鏡のように静かだった淵の水面が、中心から、まるで息をするかのように、一度だけ、大きく、ゆるやかに盛り上がった。

 夏帆が、ひっと息を呑む。

 しかし、それだけだった。水面は再び元の静寂を取り戻し、あとはただ、虫の声が響くだけ。あれほど夏帆を苛んでいた、まとわりつくような悪寒や、視線のような気配は、嘘のように消え去っていた。

「…終わった、のか?」

 樹が、呆然と呟く。

 夏帆の顔を見ると、彼女の頬に、ほんのりと血の気が戻っているように見えた。強張っていた体からも、力が抜けていくのが分かる。

「…いっちゃん。…楽に、なった、みたい…」

 か細い、しかし確かな声でそう言うと、夏帆はまるで張り詰めていた糸がぷつりと切れたかのように、樹の腕の中で意識を失い、すう、と静かな寝息を立て始めた。

「夏帆! おい、しっかりしろ!」

 樹は慌てて彼女の体を揺するが、起きる気配はない。ただ、その寝顔は、ここ数日見ることがなかったほど、穏やかだった。

 樹は、心の底から安堵の息を漏らした。極度の緊張と疲労から、ただ眠ってしまっただけなのだ。儀式は成功し、親友は助かったのだ。

 彼は眠る夏帆を慎重に背負うと、月明かりを頼りに、村へと続く道をゆっくりと引き返し始めた。


 儀式から数日後。村のバス停には、すっかり元気を取り戻した夏帆の姿があった。

 見送りに来た樹と祖母に、彼女は明るい笑顔を向けている。あれほど濃く顔に浮かんでいた憔悴の色は完全に消え、帰ってきた時よりもむしろ健康的に見えるほどだった。

「ばあちゃん、元気でね。ちゃんとご飯食べるんだよ」

「お前もな。東京で無理するんじゃないよ」

 祖母は、心から安心したように孫の背中をさすっている。樹も、自分の力で親友を救えたという達成感と、少しの寂しさを感じながら、その光景を微笑ましく眺めていた。あの夜、眠ってしまった夏帆は、翌朝にはすっかり回復していた。その記憶が、樹の胸を温かくしていた。


 やがて、峠の向こうから、一日に数本しかない路線バスが、ゆっくりと坂を下ってきた。

 バスが停まり、ドアが開く。

「じゃあ、私、行くね」

 夏帆は祖母とハグを交わすと、樹に向き直った。そして、心の底から感謝するように、完璧な笑顔で、はっきりとこう言った。

「樹くん、本当にありがとう。助かったわ。元気でね」


 その瞬間、樹の笑顔が、凍りついた。

 ――樹くん?

 今、こいつは、俺をなんと呼んだ?

 なぜ? どうして今、そんな他人行儀な呼び方をするんだ? 昔からずっと、本当に心を許した時には、お前は俺を「いっちゃん」と呼んでいたじゃないか。

 脳裏に、あの淵のほとりで、意識を失う直前に呟いた夏帆の声が、雷鳴のように響いた。

 『いっちゃん、楽になったみたい……』

 あれが、夏帆の、最後の言葉だったというのか。あの眠りの間に、何かが、取り返しのつかない何かが、完了してしまったというのか。

 目の前にいるこの女は、誰だ?


 樹が何かに気づいたのを察したのか、「夏帆」は表情を変えないまま、すっとバスに乗り込んだ。

「っ、待て! 夏帆!」

 樹が叫びながらバスに駆け寄るが、プシューという音とともに無情にもドアが閉まる。窓際の席に座った「夏帆」は、こちらを一切見ようともせず、ただ静かに前を向いていた。

 バスはゆっくりと動き出し、徐々に速度を上げていく。樹はバスを追いかけ、窓を叩きながら叫んだ。

「降ろせ! 夏帆を降ろせ!」

 しかし、その声は誰にも届かない。バスは無情に角を曲がり、完全に視界から消えてしまった。


 ぜえぜえと肩で息をしながら、一人バス停に取り残される樹。何が起きたのか理解が追いつかない頭の中で、図書館で見た古文書の、あのバラバラの文字が、何度も何度も点滅する。


「…淵…静…儀…水神…解…」


 あの時、自分は信じた。淵を鎮める儀式だと。水神の呪いを解くのだと。

 だが、もし、違っていたとしたら。

 あの言葉が、途切れ途切れの単語ではなく、一つの、おぞましい意味を持つ文章だったとしたら。


 『水楢淵鎮静之儀とは、水神を解き放つ儀式なり』


 自分がやったことは、呪いを祓う儀式などではなかった。

 親友を救うどころか、自らの手で、親友の体を「器」として、あの得体の知れない怪異に捧げてしまったのだ。


 がくり、と樹は崩れ落ちるようにその場に膝をついた。

 ああ、と声にならない呻きが喉から漏れる。

 ひぐらしの鳴き声が、まるで彼の絶望を嘲笑うかのように、夏の終わりの空から、いつまでも、いつまでも降り注いでいた。

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