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~参幕~

縁談を嫌がって飛び出した黎華の行く先は───?

そして誠の取る行動は───?

清流川から少し離れた閑静な高級住宅街に建つ煉瓦造りの洋館には、エゲレス帰りの医師と数名の使用人が住んでいる。

毎晩遅くまで灯りがついているのは、館の主が帝都医大の教授だからというより、彼の生徒であり住み込

みの書生でもある男が、夜毎勉学に励んでいるゆえだという事を知る者は少ない。


「早蕨先生、この本も借りていいッスか?」

「かまいませんよ。私はもう読みませんからね」

早蕨教授の書斎で山ほど医学書を抱え込みながら、誠は嬉しそうに礼を言う。

元々勉強熱心な男だが、奨学金返済の為の日雇い労働に忙殺されて学業がおろそかになる事を危惧していた早蕨教授は、以前にも増して勉学に勤しむようになった誠を、頼もしく思っていた。

「私はもう休みますが、健康を損なわない程度に頑張りなさい。

今夜は雨もずいぶん激しいですからね――― ……おや?」

洋風のアーチ窓から外を見た早蕨教授の目が、ふと止まる。

「どうかしたんスか?」

「女性が館の前に立っています。こんな時刻だというのに」

「女?」

「しかも傘もさしていない。何かあったのでしょうかね」

早蕨の背後から覗き込むようにして、誠も外を見た。

次の瞬間、その目が見開かれる。

「……黎華お嬢さん!?」


暗い夜道を若い娘が一人で歩くなど、危険きわまりない事だ。

雨天が幸いしたのか暴漢には遭遇しなかったが、着物の裾も下駄も足袋も泥だらけで、全身ずぶ濡れに

なっている。

屋敷を飛び出した時は雨など気にもならなかったが、なかば無意識に足が川原方面へと向き、自転車でも多少かかる距離を駆けて来てしまった。

当然誠がそこにいるはずも無く、以前に聞いた下宿先の洋館を探して路地を彷徨った。

ようやく辿りつきはしたものの、何と言って会えば良いのかわからない。

ただ室内の灯りに救いを求めるうように立ち尽くす。


その時、歓楽街からの帰路とおぼしき男たちが、酒の入った様子で声をかけて来た。

「どうした?別嬪さん。ダンナに閉め出しされたのかい?」

「うちに来いよ、暖めてやるぜぇ?」

気持ちが塞いでいる時に、この手の輩は不愉快きわまりない。

そんな黎華にはお構いなしに、不遜な手が伸びて来る。

「───いや…!」


――― だが、次の瞬間。

「オレの許婚嫁に何の用だ!」

大柄な男が、かばうように黎華を抱き寄せた。

気迫のこもった声と眼光に恐れおののき、酔っ払いたちは一目散に逃げてゆく。

「誠さん……」

「ったく、何やってんだよお嬢さん!こんな時間にそんな格好で!」

番傘を差しかける誠に、黎華の感情が一気に揺れた。

「………っ」

自覚した思いを抑えられず、彼の胸に顔を埋める。

――― 先刻、彼は自分を『許婚嫁』と言ってくれた。

不逞の輩を撃退する為の方便でも、とても嬉しかった。

『黒木中佐夫人』という言葉は、想像しただけで虫唾が走るのに。

「お、おい、どうしたよ?」

思いがけない黎華の態度に、誠は驚きを隠せないが、動揺しつつも、何らかの異変を察知した。

雨に濡れて冷え切っているし、傘を貸せば済むわけでもないと考えて、黎華を館へ招き入れる。


玄関では館の主である早蕨教授と、若いメイドが待っていた。

「知り合いですか?誠君」

「ええ、まあ……。お嬢さん、こちら帝都医大学の早蕨先生」

黎華は咄嗟に頭を下げた。雨で顔に貼りついた髪や水滴も手伝って、視線を遮るのには困らない。

早蕨教授も、誠を信頼しているのか、特に追及しなかった。

「そのままでは風邪を引きますね。浴室と暖炉をお使いなさい。私は休みますから、後は誠君に任せます

よ。茗子さん、入浴を手伝って差し上げなさい」

傍らの若いメイドにそう言って、悠然と階段を上ってゆく。

その紳士的な配慮は、誠にも黎華にもありがたかった。


メイドに案内された浴室で暖まった後、客用の浴衣と丹前を借りて、黎華は居間に通される。

そこでは誠が暖炉に火を入れて待っていた。

お茶を淹れて来たメイドが下がると、二人きりになる。

薪のはぜる音と雨音の他は、何も聞こえない。

「…お嬢さん」

先に沈黙を破ったのは、誠だった。

「どうしたんだよ?」

「…………」

「何かあったのか?」

「…………」

「…言いたくないってなら、無理には聞かないけどさ…」

「………昼間、の」

黎華は不意に言葉を紡ぐ。俯いたまま、どこか辛そうに視線を落として。

「……昼間、言いかけた事だけど……」

思い当たって、誠の胸がドキリと鳴った。

まさか今頃、返事をしに来たわけでも無いだろうに。

「もし……私の予想した内容なら、……多分、叶わない…」

「!!」

今度は、違う意味で心臓が鳴る。

きちんと告げたわけではないが、誠の言わんとした事は伝わっていたらしい。

しかし、その答が『否』だとは。

ましてそれを言う為に、雨の降る夜中、傘もささずに来たとは思えなかった。

「……なんでだ?」

語調を荒げるでもなく、縋るでもなく、静かに問う誠の声が黎華の胸を更に締め付ける。

泣き出しそうな心を堪え、黎華は感情を含まぬように言った。

「……陸軍の…黒木中佐が、私を……娶りたいそう…です」

「…!!」

黒木中佐の悪名は、誠も耳にしていたのだろう。

途端に表情が凍りつく。

「だから……、……」

これ以上声を出すと、涙も一緒に出てしまいそうで、黎華は唇を噛み締める。

拭いきれずに髪から落ちる雫が、代わりに泣いているかのようだ。

「お嬢さん…」

「…………」

雨は更に激しさを増し、慟哭のように窓を打つ。

誠は無言で立ち上がり、黎華の隣に座った。

互いに視線は合わせぬまま、近づいた体温を意識する。

舶来の紅茶茶碗を持つ細い手に誠の手が重なった。

そしてもう片方の手は、黎華の肩にかけられる。

ほんの少しだけ力を入れて抱き寄せると、黎華は素直に身を寄せた。

伝わり合うぬくもりは優しくて、せつなさが更につのる。

「……なあ」

「………」

「……二人で、どっか行くか」

「……え?」

誠の発言に、黎華は思わず顔を上げた。

「オレと、どこか 誰も追って来ないような遠くへ逃げるか?」

「……!」

つまり、駆け落ちしようかと言っているのだ。

その意図に気づき、黎華の瞳が驚きにまたたく。

「……バカな事を…」

「…バカな事か?」

本気かどうかはわからないが、現実的とは言いがたかった。

「私は……叔父上を捨てられません」

早くに亡くなった両親の代わりに、ずっと育ててくれた叔父。気づけば嫁も貰いそびれて桐生家を守っている。

そんな叔父を捨てて男と逃げるなど、恩を仇で返す不義理・不孝もはなはだしい。

「……オレも、教授の信頼を裏切れねえな」

苦笑と共に誠も呟く。

彼も情の深い義理堅い男である。いろいろと目をかけ、協力してくれた人々を平気で裏切られるほど不実

ではないのだ。

何より、誠には大切な目標がある。

「…医者になるという夢ですね」

「……ああ、ダチとの約束だし…」

「きっと叶うわ…」

「…………」

誠は自分の身の程を充分に知っていた。

親も財産も無い貧乏医学生では、陸軍中佐とは比較にならない。

卒業して、医者になって、安定した地位と生活力を手に入れたら、元華族の令嬢でも嫁に来てくれるかも

知れないと思っていたが。

――― その日まで、待ってはもらえないのだ。

「ごめん…、オレ……」

「良いのよ」

誠の言葉を黎華は遮る。彼に医学を断念させるつもりはないし、何を期待して来たわけでもないのだから。

「でも、お嬢さんが不幸になるくらいならオレは」

「不幸になどならないわ……私は、嫁になどゆかないから」

誠は目を見開く。現状で、叔父に逆らい縁談を断る方法などあるのだろうか。

「誰の嫁にもならない。その代わり、尼になる」

黎華はどこか達観したように告げた。

縁談を受ける前に尼寺に駆け込んでしまえば、陸軍中佐とて手の出しようがあるまい。

もはやそれだけが黎華を守る唯一の手段だと誠にも理解できるが納得はできなかった。

「オレは、何も力になれないな…」

誠は悔しさに歯噛みする。

自分にもっと力があれば。地位や財産や権力があれば、黎華を望まぬ男に嫁がせたり、尼にさせたりしなくて

済むのに。

「ダチが死んだ時と同じだ……オレは結局、何もしてやれねえ…」

「誠さん…」

黎華は初めて誠を見た。

いつも明るく快活に笑っていた彼が、別人のように沈んでいる。

その表情が痛々しくて、手を伸ばして顔に触れた。

誠も黎華に向き直る。

こんなにせつない思いで見つめ合うのは初めてだった。


――― 夫にするなら、この人が良かった。

――― この少女を妻に迎えたかった。


口に出さない思いが、互いの瞳に浮かぶ。

自然に顔が近づき、黎華は瞼を閉じる。

そして唇が重なった。

腕に力がこもり、誠は黎華の細い身体を抱き寄せる。

着物越しに、かすかな震えが伝わった。

「寒いのか?」

「……いいえ…ただ…」

「ただ?」

「………少し…、その、……怖いんです…」

全身を硬直させている黎華に、その意味を察し、誠はクスリと笑う。

「何、考えてんだよ」

「――― ……」

「オレには、これだけで充分だ」

そう言って、優しく強く抱きしめる。

妻にできない女の純潔を穢すわけにはゆかないから。

そんな無責任な男にはなりたくないから。

「誠……さん……」

堪えきれずに溢れた涙が黎華の頬を伝う。

「私は…」

「言うなよ。……オレもだから」

言葉にすれば、更に悲しくなるだけだ。

成就できない思いを込めて、せめて固く抱きしめ合う。


二人は寄り添い、そのまま一夜を明かした。


続く

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