~弐幕~
どんどんと惹かれ合ってゆく誠と黎華。
しかし、そんな二人の前に試練が立ちはだかる。
「ヘェ、黎華お嬢さんって華族のお姫サンか」
「元、です。父の死去に伴い爵位は返上したし、育ての叔父もそんなものに興味の無い人間ですから」
いつしか、誠と黎華は互いの身の上話までも語り合うようになっていた。
黎華は意地のように本を手にしていたけれど、目で字面を追う事すら最近は無い。
誠はアレキサンダーの散歩の合間に川原で一休み、という風情を装って、二人は短い時間を共有する。
「なるほどねェ。そんな気はしてたけど、スッゲェ身分違うのな」
「何を仰います。帝都医大の学生なら、立派なものですわ」
「んー、でもオレ勤労学生だから。身分低い上に金もない。まだまだ半人前さ」
「自分を卑下するなど、誠さんらしくありませんわね」
知り合ってからの期間は短いが、二人は互いをよく理解していた。
貧困から這い上がり、医者になるという目標に向かって努力している誠の姿勢は、黎華の目にも崇高に
映っている。
時折 下世話な冗談でからかわれたりもするが、最近では黎華も本気で怒る事は無い。
「まぁなぁ……医者になったら金も稼げるし、世間も見返せるから問題無いんだけどさ。卒業まであと一年、道のりは長いぜ」
「がんばって下さいね」
「お嬢さんは、女学校卒業したらどうすんだ?」
桜が咲く頃には、黎華は女学校を卒業する。誠よりも一年早い。
「私は学者になりたいと思っています。父が学者だったし、同級生たちの中にも職業婦人を目指す同志が
多いので」
「末は女博士か?さすが、時代の先端を行くハイカラさんだな」
容易に想像できて、誠は苦笑した。
確かに、黎華が手にしている本は『学問のスゝメ』だの『西洋哲学史要』だの可愛いげの無い内容ばかりで、女子の教科書たる『婦道訓』とは、ほど遠い。
卒業と同時に嫁入りという娘もまだまだ多いのに、学者志望という黎華には、ある意味とても納得できる。
「……じゃあさ、お嬢さん、普通の奥様になる気は無いわけ?」
その発言に、黎華は誠を見た。
逆に、誠は視線を逸らす。
「……普通に嫁入りして、子供生んで、幸せな家庭作るのってそういうの、イヤか?」
「………イヤでは…ありませんけど……」
この時代、それはごく自然で常識的な女の生き方だった。
女性の社会進出がめざましい風潮とはいえ、女の幸せの基本は家庭にある(と言われている)。
「オレは肉親との縁が薄かったから、いつか賑やかな家庭を作るのが夢なんだ。絶対に幸せになるってダチと約束したし」
「友達?」
「ああ。5年前に病気で死んだ親友」
「そうなんですか…」
「これがな、そいつの形見なんだよ」
そう言って誠は、懐から手拭いを取り出した。
それは初対面の時、黎華の傷を包帯代わりに巻いた布で、黎華は驚いてしまった。
「……そんな大切な物を、私は汚してしまったんですね」
「気にすんな。オレが勝手にやった事だし。それにダチも、そんな事に文句つける程小さい男じゃないよ」
「でも…」
「いい家のお嬢サンがさ、こんな小汚いボロ手拭いを捨てずに、洗って返してくれただけで感動モンだったしな」
「…………」
「あん時は、スッゲー嬉しかったんだぜ」
心底から嬉しそうな誠の笑顔に、黎華は言葉が出ない。
何かを言いたいのに、何を言えばいいのかわからなかった。
胸に沸き起こる感情は、嬉しさに似て熱く、もどかしい衝動。
鼓動が早くて息がつまりそうだ。
「なぁ、お嬢さん」
不意に、誠の手が黎華の手に触れた。
黎華の心臓が跳ね上がる。
「あのさ…オレ、卒業したら、世話になってる教授の口利きで、知り合いの病院で見習いさせてもらう事
になってるんだけど…」
誠は書生として優秀らしく、人間性も認めた教授の特別のはからいらしい。
「その頃は……いくらか金も貯まってると思うし…えーと……その…所帯、持てる、かも…知れない…から…」
よもやまさかと思いつつ、黎華は誠の言葉を待つ。
見開いた瞳に映る誠の顔は、初めて見るような真摯さだった。
「だから……その、…………オレの……」
「わんっ」
期待と緊張に満ちた空気は、アレキサンダーの一声で粉砕された。
いつもよりも長い休憩に焦れて、散歩の続きを催促したのだろう。
現実に帰った途端、誠も黎華も、火を吹きそうなほどに赤面する。
即座に手を離し、互いにそっぽを向くが、どうにも落ち着かない。
いたたまれず、結局ほぼ同時に立ち上がった。
「わ、私はそろそろ帰ります。空模様も怪しいしっ」
「そ、そうだな。一雨来る前に、アレキサンダーの散歩済ませなきゃ」
わざとらしさは百も承知で、その場を去る為の言い訳をする。
「では、御免あそばせ」
「ああ、失敬」
とうとう一度も目を会わせず、二人は逆方向へと別れて行った。
屋敷に戻っても黎華は落ち着かず、夕食もあまり入らなくて、早々に自室へ入ってしまう。
陽が落ちてから、空には雨雲が立ち込めて、冷たい雫が降っていた。
窓ガラスを打つ雨音を聞きながら、黎華は見るともなしに外を見る。
あの時、誠が何を言おうとしていたのか考えると、胸が騒いで仕方ない。
将来の話をしていたのだから、なんとなくは想像がつく。
しかしまさか、よもやそんな、出会ってからまだ間もないのに。
ドキドキと鼓動が高鳴り、顔が赤くなる。
触れられた手がまだ熱かった。
「お嬢様」
廊下から声をかけられ、黎華は慌てて平静を装う。
襖を開けた勢津子に悟られぬよう、咄嗟に手元の本へ目を落とす。
「な、何?お風呂なら後で良いわ」
「いえ。旦那様がお呼びです」
「叔父上が?」
「ええ。大切なお話があるそうですよ」
亡き両親代わりの叔父は普段あまり姪に干渉しないが、改めて呼びつけるなど珍しい。
不審に思いながら、黎華は居間に向かった。
「お呼びですか、叔父上」
「ああ、ちょっとそこに座れ」
叔父はどこか憮然とした顔で、腕を組んで座している。
嬉しい話題ではなさそうだと察し、黎華は黙って正座した。
「今日、学校から帰った後、どこへ行っていた」
健之助の口から出たのは、いつか問われるかと思っていた質問。
別に何もやましい事は無いものの、男と会っていたなどとはさすがに言えない。
多少の罪悪感は否めぬまま、黎華は返答する。
「近くの川原です。静かで景色も良いので、日光浴がてら読書に」
「……そうか」
「何か?」
どことなく含みを持った叔父の態度に、黎華は問い返す。
健之助は言いにくそうに口ごもっていたが、やがて一つ息をつき座布団に座りなおすと、改めて口を開いた。
「実は今日、お前が学校へ行っている時に来客があってな」
「…はい?」
「帝国陸軍の黒木中佐だ。名前くらい知っているだろう?」
「はい」
聞くも何も、一部では有名だった。
歴代軍人の家系の出身で、非常に優秀な人材らしいが、端正な容姿や柔和な人当たりとは裏腹に冷酷な性格で、権力や賄賂で人事や裁判を自在に操作していると言われており、庶民の間でも恐れ忌まれている。
そんな者が、何の用があって来たと言うのだろう。
「お前を嫁に欲しいと言ってきた」
「!!」
瞬間、黎華の全身が凍りつく。
「通学途中のお前を見初めたらしい。今すぐにでも迎えたいが、卒業まであと少しだから、それまで待っても良いそうだ」
――― 冗談ではない。
「お断りして下さい」
黎華は速攻で言い切った。
噂だけでも好ましくない男に嫁ぐなど御免である。
――― それに、今の黎華には。
「私はまだ嫁になど行きたくありません」
「そう言うだろうと思ったよ」
健之助は困ったように溜息をつく。彼は姪の性格を熟知しているから、返答も予想できていたようだ。
「だが、相手はずいぶん乗り気だぞ」
「叔父上は私をあのような悪名高い男に差し出すつもりですか!」
「……オレとしても断りたいのは山々だがな」
「では断って下さい」
「断る理由が弱すぎるんだ。お前には許婚者もいないし、他に縁談があるわけでもないし」
「私にはっ……」
頭に浮かんだのは誠の顔。しかし彼にはまだ何も言われていないし何の約束をしたわけでもない。
そう気づき、黎華は言葉を飲み込む。
「それに、オレは負傷退役したが、元は軍人だ。お前の爺さんも軍人だった。軍人の家に嫁入りしても、
不自然でも何でも無い」
確かに健之助の言う通りである。桐生の家系で、近年、軍属でなかったのは、学者だった黎華の父親だけ。
――― だからといって。
「私は嫌です。軍人になど嫁ぎたくない」
軍人でなくても、他の誰でも嫌だった。
「まして、あんな男」
何度か街で見かけた事があるが、常に取り巻きをはべらせ、やくざ者の配下を持ち、私欲の為に好き勝手をしているとも聞く。
それがなぜ、よりによって自分を見初めたのか。
「あんな男に嫁ぐくらいなら、死んだ方がマシです!」
「おい、黎華!」
吐き捨てるように言うと、黎華は健之助の止める声も聞かずに座敷を飛び出した。
この時代、家長の意向は絶対だったが、健之助も黒木中佐の悪評を知っているから、無理に命令はしなかった。
しかし軍国主義が波に乗りつつある昨今、軍人の権力は絶大。
まして中佐の地位にある男に望まれたとなると、簡単には断れない。
どんなに嫌でも、憤慨しても、いち女学生にすぎない黎華に選択肢など無いも同然だった。
暗い夜の中で、雨は激しさを増してゆく。
まるで黎華の心模様のように。
「お嬢様?」
部屋に閉じこもった黎華を心配して、勢津子が声をかける。
だが返事はなく、もしや泣きながら眠ってしまったのかと、そっと襖を開く。
「!」
そこに黎華の姿はなかった。
続く




