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~壱幕~

文明開化の鐘が鳴った明治の夜明けも今は昔と過ぎゆきて、頃は大正浪漫の時代。

運命と言う名の偶然に引かれて二人の男女が出会った。

一人は勤労学生の誠。そしてもう一人は、元華族の娘・黎華───

文明開化の鐘が鳴った明治の夜明けも今は昔と過ぎゆきて、頃は大正浪漫の時代。


「黎華。おい、黎華はどこだ」

武家の趣を色濃く残す桐生家の屋敷の一角で、年配の男の声が響く。

男は屋敷の主である桐生健之助。わずかに片足を引き摺って歩く姿は、一見しただけではわからないが

着物の下に隠れた体格は、元・軍人らしい威厳を誇っていた。

先程から呼んでいる相手・黎華は、若くして亡くなった兄夫婦の忘れ形見である。

他に親しい親族も無かった為、親代わりとなり、彼が育てあげたのだった。

しかしその姪は一向に現れず、代わりに返って来たのは、優しげな声音の家政婦。

「黎華お嬢様なら、お出かけになりましたよ」

「たった今女学校から帰ったばかりなのにか?」

健之助は憮然としながら、鉄砲玉のような姪を思って溜息をつく。

「困った奴だ。大事な話があるって言うのに……あいつ、最近外出が多いようだが、毎日どこをうろついてるんだ?」

桐生家を切り盛りする家政婦であり、黎華の乳母でもあった勢津子は静かな微笑みを浮かべて答えた。

「心穏やかに時間を過ごせる場所を見つけたようですわ」


噂の主・桐生黎華は私立橘女学校の最上級生。

紺地に白の矢絣着物に海老茶の袴、ハーフブーツで自転車を漕ぎ、長い髪につけた大きなリボンをなび

かせて、一路 清流川の遊歩道を目指す。

そこは広く明るい川原で、幼い子供たちが遊びに興じる声を除けば、静かで穏やかな癒しの空間。

並木道の木々が大きく張り出した木陰は、読書に最適だった。

以前から黎華はそこで、一人きりの優雅な時間を満喫していたのだが。


「よう、ハイカラさん」

自転車を止めた音に振り返り、先客が声をかける。

黎華は意識的に無表情を作り、本を片手に川原へ下りた。

「俗な呼び方をしないで下さいと何度も言ったでしょう。私の名は黎華です」

「んじゃ改めて。オッス、黎華お嬢さん」

「………」

『オッス』などと言われて、どう返せと言うのだ。この男は。

そんな思考でツンと視線を逸らし、男の隣に腰掛ける。

「相変わらず無愛想だなあ」

「…そっちは相変わらず馴れ馴れしいですね」

「性分なんでね」

そう笑う男は、木で鼻を括ったような黎華の言葉にもまったく機嫌を害する様子は無い。

彼の名は五十嵐誠。帝都医大学の学生である。

二人が出会ったのは、ひと月ほど前だった。


その日、いつものように川原へ向かう黎華の自転車の前に、一匹の犬が飛び出して来た。

「危ない――― !」

間一髪で避けたものの、自転車は転倒し、黎華も地面に投げ出される。

「アレキサンダー!!」

その時、犬を追って若い大柄な男が現れた。

お世辞にも上等とは言えない、くたびれた着物とヨレヨレの袴の男は、慌てた様子で駆け寄り、犬の引き綱を捕まえる。

黎華は上半身を起こすと、厳しい瞳で睨みつけた。

「散歩中に犬の引き綱を離すなんて、飼い主として無責任かつ怠慢ですわよ!」

いきなり怒鳴られた男は驚いた様子で黎華を見るが、すぐに手を差し出し謝罪する。

「悪かった。怪我は無いか?」

その時、男の視線が黎華の膝に止まった。

袴がわずかに破れ、血の染みが浮き上がっている。

「ちょっと診せろ」

言うなり、男は黎華の袴を捲り上げた。

「なっ、何をなさるの!?」

合気道の授業で鍛えた黎華の正拳が、狙いたがわず男の顔面に炸裂する。

続いて蹴りを入れようとするが、足首を掴まえられてしまった。

「お離しなさい!無礼者!!」

足が駄目ならと徒手空拳を構えるが、二発目は予想外にも受け止められてしまった。

「オレは医者だ!暴れんな怪我人!」

不意の一喝に、黎華の思考が停止する。

その隙に、男は膝の傷を診た。

「骨には異常なし、軽い打撲と擦り傷だけだな。出血も、たいした事は無い…と」

男は懐から手拭いを出し、包帯代わりに黎華の膝へ巻く。

「とりあえず止血な。後でちゃんと薬塗っとけよ」

あまりの手際の良さに呆然としていた黎華だが、その一言で我に返った。

「……医者ですって?」

「訂正。正確には医学生だよ」

そう言って男は倒れた自転車を起こすと、改めて黎華に手を差し出す。

黎華は何か気恥ずかしくて、不機嫌な表情のまま、それでも彼の手を取り立ち上がった。

「家まで送ろうか?」

「お気遣い無用ですわ」

「そっか。助かった。こいつの散歩が済んだら、別の日雇いが入ってるからさ」

あっけらかんと笑う男に、黎華は別の意味で呆然とする。

「じゃ、気をつけてな。ハイカラさん」

男は犬を連れて、すたすたと去って行ってしまった。


――― 何なの、あの男は。

無礼者下品礼儀知らずと内心で罵りつつ、黎華は自宅へ引き返す。

血の上った頭では読書も身に入らないと考えたからだが、帰宅した後も、なかなか平常心に戻れなかった。

親代わりの叔父には平素から、『お転婆も程々にしろ』と窘められているので黙っておいて、勢津子にだけ袴の破れの理由を話す。


「まあ、それではお礼も申し上げずに?」

しかし話のわかるはずの勢津子は、開口一番そう言った。

「礼ですって?あんな失礼な男、初めて見ましたわ」

「失礼ではないでしょう。仮にも手当てしていただいたのだから、お礼を言うのは当然じゃありませんの?」

「…………」

言われてみればそうかも知れないと、黎華は初めて考える。

傷を診て、倒れた自転車を起こして、送ろうかと――― 実際には本気だったのかどうか疑問だが―――

言ってくれた。

ただ怒るだけだった自分は、もしかして狭量だったのだろうか。

対して男は、手当ての時に動くなと怒鳴った以外、一言も反論しなかったというのに。

「どちらにお住まいの、何という方でした?」

「……聞いていないわ」

「お名前も伺わなったんですか?」

「…………」

「お嬢様らしくありませんね」

「…………」

「とりあえず、手拭いは洗濯しておきますから」

「あ、いえ、いいわ。私がするから」

黎華は咄嗟に勢津子の手から手拭いを取る。

「あの……代わりに、袴の繕いを頼むわ」

不思議そうな瞳を向ける勢津子から逃れるように、黎華は洗濯場へ走って行った。


慣れない洗濯は時間がかかり、酸化して繊維に染み付いた血液はうっすらと痕が残ってしまい、完全には

落ちてくれない。

これ以上こすったら、元々上質とはいえない生地が擦り切れてしまいそうなので、黎華は渋々諦める。

手当ての礼も込めて、借りを返す為にも新品の手拭いを買って贈るべきだろうか?

生乾きの手拭いをよく見ると、あちこち修繕の痕跡がある。

大切にしている物なのか、単に貧しいゆえなのか。

とにかく返そうと考えるものの、男の名前も住まいも知らない。

川原近くの通りで彼の風体を訪ね歩くという手段もあるが、それはあまりにも恥ずかしいし、年頃の娘が

男を探し回ったりしたら、妙な噂が立ちかねない。

そこで黎華は考えた。

犬の散歩は、大抵コースが決まっている。あの辺りで待っていれば、向こうから来るのではないか―――?



翌日、黎華は女学校から帰るや 速攻で川原へ向かった。

果たして彼女の推測は正しく、しばらく後、犬を連れた長身の影が現れる。

「お?昨日のハイカラさんじゃねえか」

笑顔で声をかけられ、黎華は困ってしまった。

こういう場合、どんな顔で応じれば良かったのだろうか?

困惑のまま、唇を引き結び、キッと挑むような瞳を上げ、無言で彼が近づくのを待つ。

「傷は大丈夫かよ?って、聞くまでもねえか。自転車乗ってるし」

「――― これ」

黎華は懐から手拭いを取り出し、差し出した。

「お返しします。昨日は礼も言わずに失礼しました」

「それは……」

男は驚いたように目を丸くする。

「洗ったけど、血の痕が落ちきらなかったの。お望みでしたら、新しい品を用意しますわ」

「いいよ。元々ボロボロだったし。捨てないでくれただけでも感謝するぜ。ありがとな」

嬉しそうに謝辞を告げ、男は感慨深げに手拭いを受け取る。

その表情が、なぜか黎華の心にかかった。

「クゥーン」

しかし、不意にすりよって来た犬に気を奪われる。

「おい、なんだよアレキサンダー。お前オレにはなかなか懐かねえのに、ハイカラさんには愛想いいんだな」

「…懐かれていないのですか?飼い主なのに」

「オレは飼い主じゃねえよ。日雇いで散歩係やってるだけ」

犬の白い頭を撫でながら、男はさらりと言う。

そういえば、昨日『散歩が済んだら別の日雇いが入ってる』と言っていた。

勤労学生は珍しく無いが、日雇いを掛け持ちしているほど貧窮しているのに、狭き門として有名な医学を

学べるのだろうか。

興味本位で聞くべき事ではないのだが、黎華はつい問うた。

「……そんなに働いて、いつ勉強を?」

「夜に」

「夜?」

「そ。オレ帝都医大の早蕨教授ん家で書生やってるから、教科書には事欠かないんだよ」

帝都医大学は帝都で一番の名門である。その医学部の学生ならかなりのエリートだ。

黎華は正直驚いたが、それが顔に出てしまったのだろう。

男がニヤリと笑って覗き込む。

「見直したかよ?」

「!」

「ハイカラさんはいい家のお嬢さんみたいだから、下々の苦労はわかんねえだろうけど、昨日みたく高飛車な態度、やめといた方がいいぞ?」

「余計な…」

「でねーと、可愛い顔が台無しだぜ」

――― 世話、と言おうとしたが、続いた彼の言葉に絶句する。

黎華は自分の顔が赤く染まってゆくのに気づき、せめてもの虚勢で睨みつけた。

楽しげに笑いながら、男は踵を返す。

「あの、待って。お名前は…?」

「アレキサンダー。柏崎通りにある東条院邸の飼い犬だよ」

「違います!貴方の名です!」

「ああオレ?五十嵐誠」

「……誠さんですか。私は…」

「いい、明日聞くから」

名乗ろうとした黎華を遮り、誠さんは告げた。

それは言外に『明日また会おう』という意味ではないのか?

「じゃあな、ハイカラさん」


手を振る誠さんの後姿を見送った黎華は、その日も読書に身が入らなかった。

そして翌日、今度は名前を名乗る為に、またも川原へ自転車を飛ばす事になる。


やがてそれは、そのまま日課となってしまった。


続く

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