俺が愛してるのは、お前だけだから…
新宿の夜は、光が多いほど闇も濃い。
美沙がホストクラブ「ヴェルヴェット」の扉を開いたのは、ただの出来心だった。会社の同僚に誘われ、断りきれずに。
煌びやかなシャンデリア、香水と酒の混ざる匂い。
その中で迎えてくれたのが、ホストの涼だった。背の高いシルエット、鋭い目元に人懐っこい笑顔。
「初めまして。今日は俺に任せて?」
低い声に、美沙は胸を掴まれるような感覚を覚えた。
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最初の一杯は軽いシャンパン。二杯目は勧められるままボトルを開けた。
酔いも手伝い、気づけば涼の話に夢中になっていた。
「美沙ちゃん、会社で辛いことあったら、ここに来ていいんだよ」
「……ほんとに?」
「うん。君だけは特別だから」
その一言で、彼女はすっかり信じ込んだ。
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翌週も、その翌週も、美沙は店に通った。給料の半分を注ぎ込み、それでも涼が笑ってくれるなら安いとすら思えた。
だがホストの世界は、優しさの裏に冷徹な計算がある。
「来月はイベントあるんだ。俺、絶対一番になりたい。美沙ちゃん、応援してくれる?」
言葉は甘い。けれど、それは暗黙の命令だった。
彼に愛されたい、特別でありたい――その一心で、美沙は初めて消費者金融に足を踏み入れた。
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最初は三十万。すぐに五十万。そして百万円を超えた。
金利の重みを実感したのは、返済が始まってからだった。給料を差し引かれ、生活費も足りない。それでも涼から「今日来ないの?」とメッセージが来れば、いてもたってもいられなくなる。
気づけば、美沙の部屋は滞納の請求書で埋まっていた。
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ある夜、店で偶然居合わせた女客が耳打ちした。
「アンタもハマったんだね。気をつけな。ここにいる女、みんな借金漬けだよ」
その女は疲れ切った顔をしていた。
「私? もう五百万よ。払えなくて風俗やってんの」
美沙は笑い飛ばそうとした。自分は違う、と。だが内心では、もうすぐ同じ道に立たされることを分かっていた。
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そしてその日が来た。
借金は三百万円。返済の督促が毎日のように鳴り響く。会社にも連絡が入るようになり、居場所を失った。
泣きながら涼に相談した。
「もう、お金がないの……」
涼は微笑んで肩を抱いた。
「大丈夫。解決する方法があるよ」
彼が紹介したのは「知り合いの店」。歌舞伎町の雑居ビルにあるデリヘルだった。
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最初の出勤の日。
薄暗い待機室で、美沙は鏡に映る自分を見た。厚化粧で隠したはずの顔には、疲労と絶望の影が濃く刻まれていた。
最初の客は中年のサラリーマン。酒臭い息、乱暴な手。耐えながら、彼女は心の中で涼の笑顔を思い浮かべた。
――これも、彼のため。愛されるため。
終わった後、手にした数枚の札は汗と体臭にまみれ、涙で濡れていた。
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日々は泥のように過ぎた。
借金を返しても、すぐに新しい借金を重ねる。涼にシャンパンを入れるため。彼にとって“特別”であるため。
体は疲れ果て、心は空っぽになっていった。それでも、やめられない。
やがて美沙は幻覚を見るようになった。客の顔が、皆、涼に見える。囁かれる声も、涼の声に聞こえる。
「もっと愛して……もっと尽くして」
笑いながら涙を流す自分を、鏡の中で見て震えた。
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ある晩、借金取りに追われながら店に駆け込むと、涼は別の女客と笑っていた。
「涼……」
「お、来たの? あ、ちょっと待ってて。今この子の席だから」
軽くあしらわれた瞬間、美沙の中で何かが崩れ落ちた。
――私は、特別じゃなかった。
その夜、彼女はデリヘルの仕事の帰りに新宿の高層ビルの屋上に立った。
下にはネオンが広がる。涼がいる街。彼の笑顔に食い尽くされた街。
飛び降りようと足を踏み出したとき、背後で声がした。
「死ぬのはまだ早いよ」
振り返ると、かつて出会った女客が立っていた。やつれた顔、虚ろな瞳。
「私もそう思った。でも死ねない。涼に縛られてるから」
彼女の背中からは黒い影のようなものが伸びていた。無数の腕のように、彼女を掴んで離さない。
美沙の足にも、それが絡みついた。涼の声が頭に響く。
「もっと稼いで、俺に尽くして」
震える唇で、美沙は呟いた。
「……はい」
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翌朝、雑居ビルの狭い部屋で、美沙はまた鏡に向かって化粧をしていた。
顔は死人のように青ざめているのに、口元だけは笑っている。
借金は減らない。体は壊れていく。
それでも今日も客のもとへ向かう。
鏡の奥では、無数の女たちが同じ笑顔で化粧をしていた。皆、涼に食い尽くされた女たち。
そしてその中に、新しく加わった美沙がいた。