第二話
「どうすれば有名になれると思いますか?」
『そんなこと私に聞く?』
「やっぱり女神様だから何でも知ってるのかと」
病み切った男は闇の中にいた。自ら死を選ぼうとしていた時、無理やり異世界に飛ばされたのだ。何でも生み出せる魔法を授けられた彼が、それを有効活用してとった選択は、引きこもることだった。明かり一つ点けず、しんとした暗い部屋のベッドの上で横になっていた。あろうことか女神と寝転びながら会話しているのである。
『それは全知全能の捉え方が間違っているわ。全知全能っていうのは、この世界をつかさどる根源的な真実を知っていて、それを自由自在に使えることなの。だから、有名になるとかそんな末端の現象、眼中にないの』
「要するに、女神様は意地悪ってことですか」
『……まあ時には意地悪にならざるを得ないこともあるわね』
桃園は空中から糸で引っ張られたように体を起こした。そして、枕元のラックから、イセカイでは電波もインターネットも繋がらない、誰からも連絡の来ないスマートフォンを取った。もっとも、誰からも連絡が来ないのは現実世界でも同じだったが。本体を起動して時間を確認した。どうやら時間は止まっているらしい。それも大体首を吊ろうとしていた時刻で。
「小説を配るのはどうでしょう」
『書けなくなったんじゃないかしら?』
「既に完成してるものを配るんです。そうすれば、きっと」
『そっちの世界での評判はどうだったの?』
「……」
男は下から糸で引っ張られたように体を倒した。
『……ごめんなさいね。まあただ向こうとは色々条件が違うから、可能性がないわけではないんじゃない?』
「可能性がないわけではないって、ほとんど何も言ってないのと同じじゃないですか。ずるいです。神が行っていい所業じゃありませんよ」
『めんどくさ、んんっ、失礼。その、可能性がゼロじゃないって、とてもすごいことだと思わない? って、あれ?』
女神のわざとらしい咳払いとありきたりな弁解を聞くことなく、男は眠ってしまった。
次の日、そんな彼は日が出ているうちに起きることができた。この有様だが。
「太陽が……。なぜだ……」
嘘か真か、日光に焼かれた吸血鬼のような素ぶりをしていた。
『おかしいわね。日当たり悪い家を選んだつもりだったのに』
「それはどういう優しさですか?」
『一瞬で素に戻るのね。ほら、きっとあれよ。暗い方が創作活動に集中できるかと思って』
「きっと、ってなんですか、自分がやったことなのに」
『さあ、はやく始めましょう』
「わかりましたよ、行きますよ」
足元のランプを避けてベッドから出、そのままよろめきながらドアの方まで歩いていった。手探りで下駄を履き、倒れるように扉を開けた桃園。左右の大きな家ですっぽり影に包まれていたが、すぐ前の道路には申し分なく日が当たっていた。男は導かれるようにそこまで歩いていった。
「うわっ、やっぱりちょっと、太陽、無理」
日の下に出た途端、体中の血液が蒸発したような感覚が生じた。それにより彼は慌てて日陰に戻り、家に帰った。
『あのねえ、起きて早々直射日光を浴びたら、誰だってそうなるわよ。急にどうしちゃったの?』
「……引きこもってた反動で」
『早くうがいして水分を摂りなさい』
女神様のお導きの通りにした。すると、乾いたスポンジが水を吸ったように潤った。だが、決して調子が治ったわけではない。かなり悪い状態から、悪い状態に戻ったといったところだ。
「とりあえず朝ごはん食べよ」
一番近い椅子に座った桃園涼明は、おにぎりを二つ創った。一つは鮭にぎり、もう一つは昆布にぎり。どちらも味付けのりが巻かれている。創りたてだからもちろん温かい。この温かさは何由来なのか気になったが、なんだか気持ち悪くなりそうだったので、それ以上考えないことにした。
『どう? ちょっとは良くなったかしら?』
「おかげさまで。一晩安静にすれば治まりそうです」
『時間の価値がデフレーションを起こしてるみたいね』
うつ病患者は横着してコップの中に水を生み出した。そして、朝に飲んでいた錠剤を二錠創り出し、二つとも水で流し込んだ。
「女神様は服用してる薬とかないんですか?」
『ないけど、どうして?』
「いや単純に話題に困っただけで、深い理由はないです」
『そこまで赤裸々に答えなくてもいいのよ』
寝てばかりだったために身についた癖で、食べたらすぐに歯を磨きたくなった彼は、面倒くさそうにしつつも、洗面所に行って軽く歯を磨いた。それから椅子ではなく、当たり前のようにベッドに座った。
「さてと」
『まさか、寝ようってんじゃないでしょうね』
「まさか、寝るつもりならもうとっくに眠ってますよ」
『カッコよさそうでそうでもないわね。それで、どうするつもりなの?』
「ひとまず、この街で力のある人に知ってもらうところから始めようかと」
『なるほど。発信力を頼るのね。でも、どうやって接触するの? 出待ちとか?』
「さすがにそれは人見知りで怖くてできないです。なので、何かこの街の大きな問題を解決しようかと」
『普通逆なんだけどね。まあいいんじゃない。なんたってあなたには何でも生み出せる魔法があるんだもの』
「それじゃあ今度こそ行ってきます」
意を決して外に出た桃園は、先日の記憶を頼りにギルドへ向かった。街ゆく人にことごとく見られたが、以前より悪い気はしなかった。なぜなら彼は今、有名になるために行動しているのだから。
ギルド前の広場は、市場になっていた。広場の外側に沿って、色々な露店ができている。食材から道具から魔道具まで、色とりどりの物を売っている店を、精神疾患患者は素通りし、ギルドに入っていった。
外が賑やかで気付かなかったが、ギルドの中も賑やかだった。どこからも話し声が響いていた。そんな集団が一斉に桃園の方を向いた。相手が相手なので、調子に乗っていた彼も、さすがに恐怖を感じた。
「この状況はちょっと怖いですね」
『そんな調子で大丈夫かしら?』
勇者や魔法使い、弓使いや格闘家など、色とりどりな身なりの人々の間を、精神疾患患者は素通りし、クエストボードの前まで歩いていった。
「ドラゴンの卵運搬、は体力使うからできないし、迷子探しは大勢とコミュニケーションとらないといけないからしんどいし」
『大きな問題を解決するなら上の方の高難易度クエストの方がいいんじゃない?』
「そうでした。今出てる最高難易度クエストは、魔王の十四眷属の一人、グラビティの撃退か、悪魔に取り憑かれた市長の息子の悪魔祓い。これは後者で決まりですね」
『そうなの? あなた、悪魔祓いの力なんてあったっけ?』
「ないです。ないですけど、人に取り憑く悪魔もいないんじゃないかと思うんです」
『どうしてそう思うの?』
「なんとなく、世界観が違う気がするからです。ここは剣と魔法の世界、悪魔祓いはまた別の世界なんじゃないかと」
『じゃあ市長の息子さんの身には何が起こっているの?』
「多分ですけど、統合失調症じゃないかな」
『あなたのとはまた別の精神疾患ってことね』
「そうです。それなら薬を生み出して飲んでもらえばかなり良くなるでしょう」
男はクエストボードからそのクエストが書かれた紙を取り、カウンターに持っていった。礼儀正しい身なりをした女性が紙を受け取った。
「こちらは最高難易度クエストですが、大丈夫ですか?」
「えっと、多分大丈夫だと思います」
「わかりました。では、この紙を持って、役所に行ってもらえますか?」
「わかりました」
受付の女性は紙に判を押すと、桃園にそれを返した。その流れで役所の場所を聞いた彼に、受付の女性は紙に書いて教えてくれた。どうやら近くの公園の前にあるらしい。
ギルドを出た桃園は、最短経路で公園まで行った。広い芝生が色鮮やかな花壇で囲まれていた。精神を病んでいる人間にとっては、数少ない休息地となりそうだ。役所は、コンパクトな城のようだった。
「役所ってこんなに荘厳な感じでしたっけ」
『うろたえてるのね』
「いやいや。あの苦しみがずっと続くことに比べたら、怖いものなんて何もありませんよ」
『頼もしい勇気ね』
中もさながら城であった。つまらないことでは来るなというような威圧感を跳ね除けながら受付まで行き、例の紙を見せると、奥に通された。
案内されるがまま、市長室に入った。まず目に入ったシャンデリアでお腹がいっぱいになったのを感じた。そこにいたのは、貴族の格好の男だった。
「君が、息子に取り憑いた悪魔を追い祓ってくれる魔法使いだね。私が市長のチャールズ・ハートだ」
「あ、どうも。桃園涼明です」
市長の握手に桃園は応じた。分厚い手に握られ、緊張感が走った。リーダーの素養の一つなのかもしれない。そのまま流れるように、応接用の椅子に導かれた。
「早速なんだが、今から息子に会ってくれないか?」
「あ、今からですか。わかりました」
「その前に、君は、どんな魔法を使えるのか教えてくれないか?」
「魔法、は、なんでも生み出すことのできる魔法ですが」
「なんでも……。それで、息子に取り憑いた悪魔を祓うことができるのか?」
「僕が思うに、息子さんは悪魔に取り憑かれているわけではないかと」
「なんだって? どういうことだ?」
「精神疾患、あ、精神ってわかりますか?」
「精神というと、魂のようなものか?」
「まあそんなところです。息子さんは、おそらくその精神が、いわゆる風邪のような状態になっているんだと思います。まあ会ってみないとわかりませんが」
市長は整った顎髭を触った。
「精神が風邪、か」
「もしそうなら、薬を飲んでいくうちに良くなっていきます。その薬を僕の魔法で生み出すつもりです」
「なるほど。わかった。では早速会ってもらおう」
「あの、息子さんはどちらに?」
「この建物の中にいる。私の家族はここに住んでいるんだ」
「そうだったんですね。じゃあお願いします」
市長室を出て、長―い廊下を歩いた先、一つの部屋の前に来た。市長は鍵を取り出し、開錠した。
「ここからが私の家の敷地だ」
「お邪魔します」
あくまでも役所の内装と地続きだった。赤いカーペットに、西洋で熟成された建築様式の柱や天井。二人は階段を下りていき、また一つの部屋の前に来た。既に扉の外に漏れるぐらいの話し声が聞こえていた。
「ここが。息子の部屋だ。リチャード、入るぞ」
父親は扉をノックし、中に入った。中には、大きな鏡の前に座る一人の青年がいた。
「なんだい父さん。その人は?」
「お前に取り憑いた悪魔を祓ってくれる魔法使いだ」
「はじめまして、桃園涼明と申します」
三人は向かい合って座った。椅子を並べる間もなにやら独り言を言っていた息子を見て、桃園は精神科にいた人のようだと、ほっと一安心した。が、医者でもない自分にカウンセリングのようなことができるのかと、一瞬で不安に上書きされた。
「悪魔に取り憑かれたのはいつの話ですか?」
「大体、一カ月くらい前、かな。突然、声が聞こえてきたんだ。悪人の体は入れ物になるんだ、乗っ取らせてもらう、って」
「悪人ですか。他にはどんな声が?」
「親を殺せ、とか、家に火をつけろ、とか。ほら、今も、あなたを殺せって。うるさい! やめろ! 僕の体から出ていけ!」
息子は突然耳を塞いで大声をあげた。それを見て逃げたくなったが、別の精神疾患を持つ身である桃園は、苦しみから救ってあげたいとも思った。
慌てて父親がコップに水を入れ、息子に飲ませた。ひとまず落ち着いたようだ。
「市長さん、ちょっといいですか」
部屋の外に出て、市長と二人で話し始めた。
「息子さんは、僕がさっき言った状態だと思います」
「精神の、風邪、か」
「はい。なので、治すための薬をお渡ししますから、それをしばらく飲んでください」
うつ病の魔法使いは、錠剤が大量に入った瓶を生み出し、それを渡した。
「それを、一日二錠飲ませてあげてください。あと、その薬は息子さんの手の届かない所に保管してもらって」
「君を、信じていいんだな?」
「信じることが、一番の薬です。息子さんにも、この薬は悪魔を追い出す薬だと伝えてあけてください」
精神疾患患者は自分に言い聞かせるように言った。
「わかった。そうさせてもらう」
「それと、息子さんは自分を責めているようです。なんでしょう、後継ぎの重圧とかあるんですかね」
「確かに、市長を継がせようと思っていたんだが」
「それが重荷になって精神を病んでしまったのかもしれません。なので、少しでも心が軽くなるように接してあげてください」
「わ、わかった」
市長と別れ、桃園は役所を出た。空がオレンジ色になる気配を漂わせていた。
『立派なお医者さんだったわね』
「それなら文字通りの医者の不養生ですけどね」
『少しは見直したわ。苦しむ人間の心を繊細に汲み取れるなんて。まあだからうつ病になっちゃったのかもしれないけれど』
「蛇の道は蛇ってことなのかもしれないです」
『問題は、本当に治るかよね』
「治る薬をイメージして生み出したので、治るはずです。後は、信じるしか」
『それぐらい自分を信じられたらいいんだけど』
「女神様が自分を信じられるようになることを祈ってます」
『いやあなたよ』
*
二ヶ月が経過した。街は常春なので季節の変化はほとんどなかったが、桃園自身は悪い方に変化していた。当然だ。昼夜逆転引きこもり生活を継続していたのだから。もちろん、現実世界に帰るなんて夢のまた夢。そもそも帰りたいとすら思っていないかもしれないが。
そんなある日、伝書鳩が来た。正確にはフクロウ。昼夜逆転しているから日が出ている間は手紙を受け取れないのだ。
送り主はあの市長だった。早く来てくれ、と。ただそれだけ。ランプ一つの暗い部屋でそんな手紙を受け取った桃園は何を思ったか。
「わざわざこんな短文のために働かされたフクロウが可哀想ですね」
『なにかお礼したら? そのフクロウに』
「フクロウって確かネズミとかが主食だった気が。生物は魔法でも生み出せないんですよね。パソコンのマウスでもいいかな?」
そう尋ねたものの、フクロウはバサバサと音を立てて飛んでいってしまった。
『行っちゃったわね』
「冗談が通じなかったんですかね」
『通じたから飛んでいったんじゃないの?』
「……さあ、夜食のドーナツを食べよう」
翌日、桃園はなんとか日中に起きることができた。人より時間がかかって身支度を整え、覚悟を決めて外に出た。
少し前まで雨が降っていたようだ。ところどころに水たまりがある。男はそれを避けながら歩いた。下駄を履いているからだ。ほとんど裸足と同じなのだから、一旦濡れれば後は無敵になれるというのに、潔癖と心配性が妨げた。
「水たまりにはどんな菌がいるかわからないですからね」
『感染しても、治す薬を生み出せばいいじゃない』
「即死の時はどうするんですか?」
『わかりやすいほどに不安症ね』
役所に着いた。いくら豪華な建築であっても、花についた水滴が輝く様には敵わなかった。もちろん、そんなことを市長に言ったら肥料にされるだろうから言わない。
市長室に招かれた。中にいた市長の顔で、大体のことはわかった。
「よく来てくれた桃園。さあ、座ってくれ」
「お邪魔します」
高そうな椅子は、病院のそれとは比べ物にならないほど柔らかい。最初に来た時はその柔らかさが気味悪く感じたが、今はそんなことはない。
「まずはじめに、礼を言わせてくれ。私の息子だが、君に貰った薬を飲んでいくうち、みるみるうちにまともに戻っていった」
「そうでしたか。それは良かったです」
「跡継ぎの話も一旦やめにして、好きにさせることにした。一体何を始めるのか、こっちが心配になってきたがな」
「まあ責任感への感受性がある方ですから、心配することにはならないと思いますよ」
「だといいんだがな。それで、報酬の件なんだが、どういう形で渡せばいい? 現金か、百万イェン相当の何かという形で支払うか」
「そのことなんですけど、お金はいらなくて、代わりにちょっとお願いがあって。僕の書いた小説を、役所とかギルドに置かせてもらいたくて」
「君は小説も書けるのか。それは別に構わないが、そんなことでいいのか?」
「ええ。できれば五十冊ずつぐらい置かせてもらって、自由に持っていってもらえるようにしたいんですけど」
「わかった。手配しよう」
「あと、どこかでちょびっと宣伝していただけると」
「ああ、構わない」
「ありがとうございます」
小説家の大躍進であった。現実世界では全く知名度のない、無名の作家だったからだ。
帰る途中、珍しく寄り道した。太陽が照らす公園のベンチに座ったのだ。濡れているところを避けて。隣の席の水たまりには空を見上げる桃園の姿が映っていた。
『良かったわね。大きな第一歩じゃない』
「なんだかズルをしているような気もしますが」
『悪いことをしてるわけじゃないんだし、いいじゃない』
「そうですね」
彼にしてはいい表情だったが、なぜかそれが陰り始めた。
『どうしたの? いきなり暗い顔して』
「いや、ふと思ったんですけど、僕って、統合失調症じゃないですよね?」
『なんでそう思うの?』
「だって、他の人には聞こえない女神様の声が聞こえるし、そもそもこの世界自体、現実世界じゃないし」
『ああ〜』
「あの、否定してくれませんか? 不安になるんですけど」
*
小説は大きな話題となった。街が娯楽に乏しかったのが主要因だ。もちろん、内容が面白かったというのもある、だろう。少なくとも桃園自身は最高のものを提供しているつもりである。
ギルドと役所、二か所に別々の小説を置いた。彼の処女作と第二作である。一作目は魔王城を追放された魔王が、その地位に返り咲く話、二作目は異能ラブコメだ。それぞれ舞台が異世界、現実世界だったが、イセカイではそれが逆転し、異世界の話が現実世界に、現実世界の話が異世界の話だと捉えられた。
予想通り事が運んだ桃園は、慣れない日が差している部屋で、ドーナツを食べながら街に出る機会を伺っていた。
「あんまり嬉しくないですね。どうしてでしょうか。次はどうしようという恐怖の方が大きいです」
『有名になったら幸せになれると思った?』
「そうは思わないですけど、誰もが一度はなってみたいものじゃないですか」
『凡夫ね〜』
「それは神ハラスメントですよ」
『人間も面倒くさくなったものね』
桃園は、ドーナツを食べ終えたと同時に軽い決意をした。
「とりあえず、夕方ぐらいになったら出てみようと思います」
『いいんじゃない。案外気付かれないかもよ』
「それはそれで悲しいですね」
夕方はすぐに訪れた。有名になった小説家は、人殺しでもしたかのように、恐る恐る外に出た。
家の前は影であった。まだ気付かれない。
沈みかけの夕日に体が包まれると同時に、街ゆく人からの視線が集まり始めた。彼らは、桃園を見ながら隣の人とヒソヒソ話をするという、期待通りの反応を見せてくれた。
広場に出たところで、ようやく声をかけられた。髭の生えた、ノリの良さそうな男だ。
「お前、桃園だろ? 読んだぜ、本。なかなか面白いじゃねえか」
「あ、ありがとうございます」
「まだ他にもああいうのあるのか?」
「ない、ことはないですけど……」
「じゃあまた読ましてくれよな!」
男はそう言うと、広場から出ていった。あまりにも爽やかな反応に、桃園自身、下心満載で有名になろうとした自分が恥ずかしくなってしまった。
そんな彼の内面など知る由もない人々が周りに集まってきた。
「桃園涼明だ!」
「本物?!」
「サイン書いてくれよ!」
サインを書こうとサインペンを生み出すと、それにも不思議がられた。例の本やカバンや服、挙げ句の果てには背中にまで書く羽目になった。強い性格でない桃園は、断ったり途中で切り上げることができず、辺りが暗くなるまで対応していた。さすがに暗くなった頃にはサインを求める人もいなくなり、人の輪も小さくなっていった。集団は、少しずつギルドの方に近づいていった。
「新しいのはないの?」
「まああるにはあるんですが……」
「早く読ませてよ!」
「わかりました、考えておきます」
少年の純粋で強烈な欲望にあてられ、とうとう優越感は消え去り、今の状況が、ただただしんどいものに変わってしまった。
ギルドはまだ最高潮ではなかった。勇者パーティーがいくらか残っているぐらいの時間だからだ。彼らは取り囲まれながら中に入ってきた桃園に、怪訝な顔を向けていた。小心者な男桃園は、殺されるんじゃないかと、勝手に誇大妄想が膨らんで、怖くなった。
せっかく外に出たならと、最初の日に食べた四種のチーズピザを注文した。取り巻きも何やら各々食べたいものを注文し、近くの椅子に座り始めた。
隣に座っていた少年が尋ねた。
「桃園はどこから来たの?」
「どこから、えっと、かなり遠くの世界から来ました」
「あの炎のお兄ちゃんと氷のお姉ちゃんがキスしてたところ?」
「あ、そうそう」
表には出さないが、それはクライマックスだからあんまり人前で言わないでほしいと思った。
「でも、物語を書けるなんてほんと素敵ですね!」
前に座っていた露出度の高い女性が話に入ってきた。知らない美女に褒められるのは悪い気はしないなと思ったが、いい気にもならないことに気付いてしまった。
「ありがとうございます」
「どうやって書いてるんですか?」
「最初と最後だけ決めて、後は成り行きに任せて書い、てました」
「へぇ〜。すごいなぁ〜!」
被害妄想の激しい桃園は、美女が寄ってくるなんて、ハニートラップなど、なにか目的があるのではないかと、女の振る舞い全てが胡散臭く感じ始めた。妙に明るい笑顔で、ねちっこい動作に恐怖が生まれはじめていた。
そうこうしているタイミングでピザがやってきた。今回の飲み物は水だ。薬を飲むから。
甘じょっぱはやはり最強だった。ハチミツとチーズは人工物でない自然な味を提供してくれた。
「桃園それ好きなの?」
「そうですね。かなり好きです」
「いいな〜」
「一切れいります?」
「いいの?! ありがとう!」
桃園は隣の少年にピザを一切れあげた。その時に見せた少年の笑顔は、渇ききっていた精神疾患患者の心に、さっきから味わっていた優越感を軽く越える喜びを生じさせた。
「では、僕はもう帰りますので、皆さん気をつけて帰ってください」
「桃園バイバイ!」
前の美女から得体の知れぬ誘惑を感じたので、そそくさとギルドを出ていった。暗くなった広場も、下を向いて、気付かれないようにして歩いた。
『どうだった? 有名になった気分は』
「なんだか肉の脂身を食べているみたいでした」
『それは、あんまりいい意味ではなさそうね』
「そうですね。脂身が体に良くないように、優越感は精神に良くない気がします。胃もたれみたいな状態にもなるし」
『どうするの? もう有名になっちゃったけど』
「僕はなんということをしてしまったんでしょう……」
家の前まで来た。鍵を開け、中に入ろうとした時、何かに見られているような感覚が全身に走った。
「誰か、いる?」
『早く家に入った方がいいんじゃない?」
「そうですね」
*
数日後、桃園はまたしても家に引きこもり、ゲームをしていた。横スクロールアクションゲーム。
彼は、有名になるには早かった。有名になるには、心が鈍感になるか、なにか強い動機を持つ必要があったのだ。彼自身の言葉を借りれば、心が胃もたれしてしんどくなってしまったということだ。
あの日の夜、またしても伝書フクロウが来て、市長にパーティーに誘われた。翌日参加したが、そこでも満たされることはなく、ただ疲れただけに終わった。上流階級の謎マナーや儲けることしか頭にない金持ちとの会話等々。
そして、次回作の催促が多かった。ストックはあったものの、新たに書くことができなくなっていた彼は、ただただ死へのカウントダウンが始まったようにしか思えず、現実逃避に走ったというわけだ。活字の平面から、横スクロールアクションの平面へ。
「あ、穴に落ちちゃった」
ゲームオーバ―特有の元気がなくなるBGMと共に、画面が真っ暗になった。その瞬間、桃園の視界も真っ暗になってしまった。
*
「あれ? どうして僕は女神の間に?」
「あなた、死んだのよ」
「え?」