第一話
男は首を吊ろうとしていた。
天井には、首吊り用の結び方をしたロープが垂れている。椅子が移動しないようにそーっと乗り、ゆっくりと、慎重に立ち上がった。
ロープの輪っかをのぞくと、そこには別な世界が広がっていた。
*
「いつまで死んだ気になってるの。早く起きて」
「……ここは?」
「女神の間よ。大体察しなさい」
「いや、さすがに無理です」
大理石のタイルが無限に広がる床に、壁代わりのあたたかい光。男は女神の間に来ていた。目の前には、艶のある白い布を身にまとった、純白を着こなせるほどの美しい女性が、地上ではなかなかお目にかかれないような高貴なデザインの椅子に座っていた。
「あなた、ここに来た理由わかる?」
「……死んだからですか?」
「いいえ。生きているわ」
「え?」
「ロープに首を通した記憶ある? ないでしょ?」
「それは、そうですけど。じゃあ、僕は転生したわけではなくて転移したってことですね」
「その中間かしら。元の世界にも体は残ってるから」
「え? それ大丈夫なんですか?」
女神の目の前に魔力でできたモニターが現れた。そこには現世にいる男の体が映っていた。
「あー、これはまずいわ。早く帰らないと」
「どうなってるんですか?」
モニターが消滅した。
「そんなに気になる? 死のうとしてたのに」
「……それは」
「まあいいわ」
「ここに連れて来た理由は何なんですか?」
女神は組んでいた足を戻し、椅子の肘置きに手を置いて前かがみになった。
「教えません」
男はズッコけそうになった。
「なんでなんですか?」
足を組んで元の体勢に戻った女神が言った。
「それはね、ここへ来た理由を探すことがここへ来た理由だからなの」
「わかりにくい……」
「とにかく、ここよりも地上に降りた方が説明が早いし、いってらっしゃい」
そう言うと、女神はパチンと指を鳴らした。その瞬間、男の足元にあるタイルが消えた。
「え? うわっ」
*
牢獄かと思うような質素な石の壁に、渋い色の木がマス目をつくっている天井。プライベートスペースなど意に介さず入り込んでくる日光。男は起き上がりながら呟いた。
「あれ? 俺どこで寝てたんだっけ」
『あなたは本当に死んだ気になるのが好きね。そこはこれからあなたが暮らす、イセカイよ』
部屋中を見回しても女神の姿がない。にもかかわらず何にも遮られていないクリアな声が聞こえていた。
「あの、女神様はどちらに?」
『私は私の部屋にいるわ。この声はあなたの生命を介して肉体に響かせているの。そうそう、自己紹介が遅れたわね。私の名前はベアトリーチェ』
「あっどうも。僕の名前は桃園涼明です……」
『女神にまで人見知りを発動させるなんて、よほどの気ぃ遣いね。まあだからうつ病になっちゃったんでしょうけど』
桃園は遠慮がちに、空中に会釈した。それから固い絨毯の上に足を下ろし、ベッドから出た。枕元に立つと、窓から外の景色を眺めることができた。
向かいの建物から、自分が一体どんな場所にいるのか察することができた。立ち並ぶ橙色の三角屋根に、石造りの壁。それに、動く人間たちを見れば、なおさら。スーツ姿がない、学校の制服姿がない、Tシャツがない、ジーパンがない。
「ここは、なんていう名前の場所なんですか?」
『イセカイよ』
「えっと、異世界なのはなんとなくわかるんですけど、中でもここの名前は何なのかなって」
『だから、イセカイっていう名前の異世界なの』
「……なるほど」
『ちょっと、私が滑った感じにするのやめてくれるかしら。そう呼んでるのはそこの人間たちなんだから』
「いやいや、別にそんな」
『気遣いが逆に染みるわね』
外を見るのをやめた桃園は、ベッドの真ん中辺りに座った。女神と話をしながら、現実世界で寝ていたベッドよりちょっと固いなと思った。
その時に、視界に入った自分の服を見て、こう聞かずにはいられなかった。
「それで、この長袖長ズボンの甚兵みたいな服は、どういうことですか?」
『それは作務衣よ。せっかく別の世界から来たんだから、そっちのファッションをアピールしなきゃ』
「いや、普段からこれ着てる人、あっちにもなかなかいないと思うんですけど」
『とにかく、普段着として外に出る時にも身につけてもらうわ。汚れがつかない魔法もかけておいたし』
「できたらあんまり目立ちたくなくて」
『大丈夫よ。ここにはいろんな生き物がいるから』
「……そういうことにします」
桃園が尻を軸に90°回転したことにより、布団の中に足が隠れた。それからそっとめくれていた布団の端を元に戻した。
『あなた、なにをしているの?』
「いや、僕ちょっと日光に当たるのが苦手で。疲れたから横になろうかなと」
『……。これは大変な仕事になりそうね』
起きて数分も経たないうちに、また布団の中に戻ってしまった。女神に対して横になって話をするというのである。
「それで、僕はここで転生、転移した理由を探さないといけないんですね」
『そうよ。見つけるまでは帰さないわ』
「何かヒントみたいなものってあったりしますか?」
『そうねぇ。何か欲しいものはある?』
「答えが欲しいです」
『それはダメ。絶対ダメ』
「そうですよね。じゃあ何でも生み出せる魔法が欲しいです」
『あなた、あんまり友達いないでしょ』
「え? どうしてですか?」
『ひねくれているからよ。子どもの頃、願い事を三つ叶えてあげると言われて、願い事を増やして、とか言ったりしてたんじゃない?』
「……」
男はうつ伏せになった。
『まあいいわ。あなたの願い、聞いてあげましょう』
男は仰向けに戻った。
「ありがとうございます。……。あれ? なんか(プレイヤーはこんな魔法を覚えた)、みたいなエフェクトとか出ないんですか?」
『ないけど?』
「……いや、大丈夫です。ありがとうございました」
そう言うと、太陽が出ているにもかかわらず、女神と話しているにもかかわらず、お構いなしに眠ってしまった。
『ほんと、自由な男ね』
*
街がうとうとし始める頃に、桃園は目を覚ました。部屋の中には馴染み深い闇が充満していた。
「また夜か……」
『やっと起きたのね』
「おはようございます」
『こんばんはの時間だけどね。さあ、外に出ましょう』
「……はい。あの、下駄を魔法で出したいんですけど、どうすればいいんでしたっけ」
『言ってなかったわね。ただ出てきて欲しいものを念じながら、出てきて欲しい方向に手を出せばできるわ』
「わかりました」
男はベッドに腰掛けたまま、足元に向けて手を伸ばした。すると、どこからともなく白い光が集まってきて下駄の形になったかと思うと、そこに本物の下駄が現れた。
『どうかしら? お気に召したかしら』
「十分です、ありがとうございます」
新品だけに許される、室内で靴を履いて歩く体験を味わい、そのまま外に出た。
街灯や吊るされたランプがほんのりと辺りを照らし、そこを数少ない人がゆっくりどこかに向かって歩いていた。
『街を一回りしてみたら?』
「そうしてみます」
街の一人になったつもりで歩き出した。だが、溶け込むことはできなかった。道行く通行人からことごとく視線を頂戴してしまったのだ。
「人少ない時でよかったな……」
道路が広い方へ、あてもなく進んでいくと、広場に出た。広場は中央に噴水があり、周囲には結界柱のように四方に街灯が置かれ、それを結ぶようにランプが吊るされていた。
「うわ、カップルばっかり」
『そこの奥にギルドがあるから、さっさと行っちゃいましょう』
「女神様もぼっちなんですか?」
『まあ、ぼっちっていうよりは唯一者って言う方が正しいかもしれないけど』
「そっちも大変そうですね」
広場の端に数少ない、この時間でも元気な建物があった。扉は開け放たれ、光が外に漏れていた。
そこに向かって歩いていく最中も、大勢の注目を集めていた。誰もが彼を見ては、近くにいるパートナーと何やら笑顔で話し始める。
「幸せの肴にされるのは堪えますね」
『じっと堪えて今に見ろ、よ』
ギルドに近づくにつれ、賑やかな声が聞こえてきた。それは内向的な桃園にとっての抵抗力となった。
中は、聞こえてくる声から想像できる以上の大きさだった。年季の入った長机が十個×二列で、かなり奥行きがあった。そんなそこそこ距離のある奥の方には、カウンターとクエストボードが。そして問題は人だ。どの机も大勢の楽しそうな人たちが囲んでおり、もはや座れずに立っている者もいた。
「ギルド兼酒場なんですね」
『そうね。だから昼もだけど、夜の方が本領発揮かも』
「タイミングが悪かったですね。帰ろうかな」
『せっかく来たんだし、ご飯ぐらい食べていったら?』
さっさと立ち去りたいと思いながらも、女神様直々の提案だからと考えあぐねているうちに、一人の男がふらつきながら近づいてきた。
「にいちゃん! なんだか変な格好してんなあ!」
「あ、どうも」
酔った男はそのまま最接近してきたかと思うと、いきなり肩を組んできた。
「さあさあ、そんなとこで突っ立ってないで、中に入れよ!」
「いや、ちょっと」
桃園は強引に奥まで連れて行かれた。カウンターまで歩いていく中で、磁石につく砂鉄のように、酔っぱらいが集まってきた。
「そんな服、どこで売ってんだ?」
「あんちゃん見ねえ顔だな、新入りか?」
「女神様にもらいました」
「今日来ました」
偶然空いた席に座らされると、それを見た店員が近づいてきて注文を聞いてきた。
「ご注文、どうなさいますか?」
「そうですね……、じゃあそこの席の人と同じやつで。飲み物は、ノンアルコールの飲み物を何かお願いします」
「かしこまりました! お飲み物は、ノンアルコールワインなどいかがでしょうか?」
「じゃあそれでお願いします」
「ありがとうございます! 料金は546イェンになります!」
近くの席で四種のチーズピザを食べている者がいた。具材が乗ったピザがあまり好みではない桃園は、珍しく食欲がそそられ、約一日ぶりに食事を摂ることにした。
「じゃあ、これで」
ポケットに手を突っ込み、その中で魔法を使ってぴったりの金額を生み出し、あたかも始めからポケットに入っていたように取り出して店員に渡した。桃園は、彼のたどった人生の中で、こういう臨機応変さと手癖を身につけていた。
お金を受け取ると、店員は厨房へ消えた。そこからは、酒臭い空気に囲まれ、質問の嵐に見舞われることになった。
「にいちゃんはどこから来たんだ?」
「……ちょっとこことは別の世界から来まして」
「なんだそりゃ。現実逃避か?」
「……あはは」
桃園涼明という男は、こういったデリカシーのない状態を親しみやすい状態とは捉えられない男であった。愛想笑いをしながら、だからこういう場所って好きじゃないんだよな、と思った。
さっき質問してきた男とは反対側にいる男がダイレクトに口から酒臭さを振りまきながら別のことを聞いてきた。
「そこではどんな仕事をしてるんだ?」
「ええと、お国のために働いてます」
「真面目だな〜。顔からも伝わってくるよ」
特に盛り上がることを答えるわけでもなかったので、興が冷めたのか、酔っ払いたちはどんどん離れていき、あっという間に誰もいなくなっていた。
『お疲れ様。どうかしら、イセカイの人たちは』
「酔っ払いはどこもそんなに変わりませんね。ただ、こっちの世界の人ほど陰湿さみたいなものは感じられなかったです」
『酔うと普段考えてることが出るものね。確かにここはいくらか潔い風土かもしれないわ』
「僕、覚悟を決めました」
『あら、改まって何を決意したの?』
「これから引きこもることにします」
『……。それは覚悟がいるものなの?』
「もちろんですよ。社会から切り離される選択をするわけですから」
『確かにそうね。でも、心の健康的にはどうなのかしら。孤独で居続けるのはあんまり良くないんじゃないの?』
「外に出て人と関わっていたとしても孤独は孤独ですよ。だから、時々女神様が話しかけてくれればそれでいいです」
『あなたって人は……』
そうこうしているうちに、店員が頼んだ品を運んできた。
「お待たせしました! こちらでお間違いなかったでしょうか!」
「あ、はい、ありがとうございます」
男の目の前に四種のチーズピザとそれにかけるハチミツ、そしてノンアルコールワインがグラスに注がれた状態で置かれた。ピザは白金のような輝きをたたえてたたずんでいた。そこに、黄金の液体がゆっくり垂らされた。
「じゃあ、いただきます」
切れ目に沿って、一切れのピザが持ち上げられた。伸びるチーズとこぼれるハチミツで粘り気のある滝ができていた。
一口食べると、まずはじめにハチミツの甘味が口いっぱいに広がった。次いで、そこから天空に舞い上がる竜のように、チーズの味が甘味を貫いて現れた。
『イセカイの料理はお口に合ったかしら?』
「そうですね。なんなら異世界効果で余計に美味しく感じます」
男はノンアルコールワインにも口をつけた。その瞬間、重厚感のある香りが一気に気道を通り抜けた。
『アルコールは飲まないのね』
「ええ。こう見えて精神疾患持ちですから」
『こう見えてっていうか十分そう見えるけど。何が良くないんだっけ?』
「あんまり詳しくはわからないんですけど、飲んでる薬と食べ合わせが悪いらしくて」
『なるほど。表現が紛らわしいわね』
桃園は黙々と食べ、飲んだ。お喋りしながら食事を摂るのが苦手だった彼は、必然的に早食いだった。
「ごちそうさまでした」
完食すると、そそくさとギルドから立ち去った。誰も彼を止めたり、話しかけたりする者はいなかった。
広場に出ると、行きと同じ景色が広がっていた。結界の中を、立ち入るべからざる者のように歩いて通った。
そして最短距離で、じめっとしていて真っ暗な部屋に帰ってきた。男は入り口でたたずんだままつぶやいた。
「ただいま。……なんちゃって」
『悲しいジョークね』
「いただいた魔法って、無理難題でも叶えられるんですか?」
『例えば?』
「永久電池とか」
『命とかは厳しいけど、無生物ならなんでも大丈夫よ』
「すごいですね」
右手を、手のひらを上にして前に出し、そこに白い光を集めた。言われてみれば、その光に生命感は見受けられなかった。光はランプの形に変わった。と同時に、ランプが部屋を照らし出した。
十六畳ぐらいの広さの部屋に、右手には手前に黒ずんだ暖炉、奥にベッドが、左手には手前にテーブルと椅子、奥には浴槽とトイレ、洗面台のある部屋があった。
「いい部屋ですね」
『部屋が良くないと心も休まらないものね』
「その通りです。それじゃあ引きこもれるように改造しますね」
『改造?』
男は玄関で下駄を脱ぎ、部屋に上がった。机にランプを置に、まずは浴室に行った。扉を開けて中に入って手際良くランプを生成すると、何やら腕を組んで考え始めた。
「第一に上下水をどうにかしないとですね。永久電池がいけるなら、無限に水が出るウォーターサーバーとかブラックホールとかも生み出せたりできるんじゃないですか?」
『できるけど、ブラックホールなんて何に使うの?』
「下水を飲み込ませるんです」
『奇想天外ね。あんまり周りから理解されなかったでしょう』
「あの世界のことは許してあげてください。彼らも別に悪気があったわけじゃない」
『誰目線なの?』
トイレに向かって手を伸ばし、中に光を集めた。桃園は中を覗き、ブラックホールが生成されていることを確認した。この世界は下水道が整備されていないので、トイレなどは全て近くの川に捨てなければならないのである。
「次は風呂ですね」
『お風呂には入れるの? うつの人って、お風呂に入る体力も無くなるって聞くけど』
「確かに体力はないんですけど、風呂に入らない不快感に鞭打たれて無理矢理入ります」
『清潔である方が精神にもいいわよね』
「女神様って、風呂とか入るんですか?」
『入る必要はないんだけど、娯楽目的で入ることはあるわね。ほら、神は汚れないから』
「……僕を神にしてくれませんか?」
『動機が不潔ね』
手早くトイレの隣に、底に小さなブラックホールが入ったポケットのある風呂釜と、任意で水かお湯が出るシャワーを生み出した。
「これで良し、と」
『魔法を有効活用してるわね』
ランプの電気を消し、部屋に戻った。
「次は洗濯機と冷蔵庫ですね」
『なんだか引っ越したての人みたい』
「ある意味その通りです」
部屋の端に、冷蔵庫と洗濯機を並べて置いた。それからゴミ箱、クローゼット、本棚、最低限の衣類、浄水自動生成ウォーターサーバー、おまけに手のひらサイズのペンギンのぬいぐるみを生み出した。
「疲れたな、休憩しよ」
無駄に四つもある椅子の一つに座ると、当たり前のように机の上で、ドーナツ二つとカフェオレをつくり出し、桃園はそれを黙々と食べ始めた。美味しそうに食べることはないが、美味しいとは思っているようである。表に出ないのは、美味しいと感じている自分が遠くにいるような感覚に陥っているためだ。こういった解離的な症状は、うつ病のせいというよりは、彼の体験した現実のせいでそうなっているのだった。
『なんだかあなたがわがままな王様になりそうで心配だわ』
「大丈夫ですよ。そんな神経のすり減らす仕事に就いたりなんかしません」
ドーナツの一つは、個包装されたチョコクリンクルドーナツ、数珠繋ぎのチョコがけドーナツであった。もう一つはチョコオールドファッション。どちらも現実世界にいた頃、近くのスーパーに売っていた商品そのままである。異世界にお構いなしにプラスチックを持ち込む。もちろん故郷が恋しくなったわけではない。単純に糖分が恋しくなっただけだ。
チョコクリンクルドーナツを一粒ずつ食べて完食し、チョコオールドファッションに手をつけた。
『この部屋はランプ一つで、まるで災害が起きた直後のようね。もうちょっと明るくしないの?』
「暗い部屋の方が好きなんです」
『なにがとは言わないけど、統一されてるわね』
「あはは。そういえば、なんで神様って災害をもたらすんですか?」
『それは人類の歩む道を軌道修正するためよ。教えてるの。そっちの道は間違ってるわって』
「かなり厳しい指導ですね」
『うつ病もその一つなのよ』
「うつ病が災害ですか?」
『そうよ。人間という小宇宙の中で起こる一つの大災害じゃない。だから、うつ病も何かを気付かせるためのもの。決して破滅の証明なんかじゃない』
「何か……」
男は手のひらを出し、魔法でその(何か)を生み出そうとした。が、何も起きなかった。
『こら、ズルしない!』
チョコオールドファッションを食べて乾いた喉を、紙パックのカフェオレで潤す。そしてまたチョコオールドファッションで乾かし、カフェオレで潤す。ドーナツの輪のように無限に続くように思われたそのマッチポンプなサイクルは、完食という形で終わりを迎えた。出たゴミはゴミ箱に捨てた。もちろんブラックホール入りの。
『あなたほんとにブラックホール好きね』
「好きではないです。ただ捨てても問題なさそうだからってだけで」
『将来何が起こるかはわからないわよ?』
「それは将来の方たちに託します」
『昔の資本家みたいな考えの持ち主ね』
「そうだ、薬飲まないと」
右手のひらを出し、カプセルを三錠生み出す。ダルそうに立ち上がった桃園は、歩きながら左手にコップを生み出し、それにウォーターサ―バーで水を入れ、口に含んだ。それから一粒ずつカプセルを飲み込んでいった。
『与えられた魔法を信じ切ってるみたいね』
「既に世界から裏切られてるんで、もう裏切られることに恐怖心はないんです」
『というと?』
「僕が絶望のどん底に落ちたのは、なるべくしてなったことだとしか思えないんです。それはこの世界が僕を裏切っていたのと同義だ」
『なるほど。まあそこまで追い詰められてなければ、冷静な状態で死を選ぶこともない、か』
「そういうことです」
コップを持ったまま机の上にあるランプを取り、洗面所に向かった。中に入ると、洗面台にランプを置き、右手に歯磨き粉付きの歯ブラシを生み出し、水道ですすいで磨き始めた。
『あなたほんとにその魔法初めて?』
「……ひおふのあふはひりへは」
『手を止めて悪かったわね』
歯磨きを終えると、部屋に戻り、机の上に置いていたペンギンのぬいぐるみを掴み、枕元に置いた。そしてランプを足元に置き、自身も布団に入った。
『もう寝るの?』
「いえ、疲れたんで横になろうと思って。これは何疲れかな。魔法使い過ぎたかな」
『いいえ。あの魔法は魔力どころか何も消費しないわ。単純にうつ病で体力がなくなってるだけじゃないかしら』
「もったいない、もっと元気な人なら魔法を有効活用できたかもしれないのに」
『世の中はよくできてるのよ』
男はそっと体を起こし、下に置いていたランプを持ち上げ、底にあるスイッチを切った。それから布の擦れる音だけがほんの少しの間だけ聞こえた。
「……」
『……』
「……あの、これじゃ画が地味なんで、何か面白い話してくれませんか?」
『それは、自ら明かりを消した人間が言っていいセリフじゃないと思うんだけど』
「いやちょっと眩しくて」
『光を浴びてなさすぎて敏感になっちゃったのよ。それなら、あなたの話を聞かせてよ。たとえばほら、どうして死のうとするまで追い詰められたのか、とか』
「ああ、それなら。小説が書けなくなったんです」
『……』
「……」
『……えっ、それで?』
「それだけです」
『あなたほんとに小説家? 端的にまとめ過ぎよ』
「端的にまとめないと怒られる社会にいたので」
『病むのも無理ないわね』
それから数日が経った。その間の彼の生活は、端的にまとめれば食べて寝る、これだけだった。多くの時間を眠り続け、偶然目が覚めた時にお腹が空いていたら何かを食べる。虫歯にならないように歯を磨き、終わったらまた寝る。うつ病の人間は体力値がマイナスになっている。いくら寝て体力を回復したところでプラスになることはなく、寝たから行動できるようになるというわけではないのだ。
社会と切り離された人間はライフサイクルが乱れる。ことはない。ホームレスの人々が規則正しい生活をするように、彼も無意識に規則正しい生活をしていた。ただ昼と夜が逆転しているだけで。太陽が昇り出す頃に寝始め、沈みそうになったら起きる。夜行性ではあるが、行動するわけではない。ただ布団の上で横になるだけ。
諸君は、彼の生活を哀れだと思っているのではないだろうか。だが、よくよく考えてみてほしい。彼のこの生活、実は現代人が密かに理想としている生活に限りなく近いのだ。社会のシステムに縛られず、時間に縛られず、人間関係にも縛られない。こんな素晴らしい生活を送った人間は、一体どうなるのだろうか。
答えは意外や意外、病むのだ。もとから病んでいる人間は、それが悪化することになる。既にほとんどの光が目から消えていた彼は、とうとう完全に消えてしまった。
ここまで聞いてくれた諸君の心には、こんな好奇心が生まれたのではないだろうか。病み切ったら人間は一体どうなるのか。何を思うのか。どんな行動に出るのか。
今回は特別に、それをお見せしよう。病み切った人間の行き着く先はどこか。答えはこうだ。
「決めました。僕、有名になります」