5 初対面
「初めまして、アステル嬢」
「初めまして、プライアー様」
放課後、私と私の婚約者は学園が所有する温室で向かい合って座っていた。温室といっても暑すぎることはなく、お茶を飲むための豪華な机と椅子が主役のようだ。植物は本当に気持ち程度に置いてある。
「この度はいきなりの話で驚かれただろう」
「えぇ、心臓が止まるかと思いましたわ」
ホホ、と笑う。
「君の噂は私の学年まで届いているよ」
「あら、言い噂だといいのですけど」
噂なんて気にしてませんよ、と紅茶を口に含んだ。だがどうしても目の前の彼に視線が行ってしまう。
いきなり私の婚約者になったのはストルアン・プライアー侯爵令息。一つ上の学年だ。肩より少し短い銀髪を緩く後ろに流していて、猫のような目はこちらを隙なく見つめている。柔らかい口調とのギャップが素敵、いやいや。彼を見るたびに煩く鳴る心臓を深呼吸で落ち着かせた。
気を紛らわすために彼の後ろに視線を逸らすと、気配を完全に消した騎士が。私の後ろにはターシャが立っている。
「後ろのメイドは君の妹なんだってね」
「えぇ。そうです。似ていないでしょう?」
両親が違うので似ていないのは当たり前なのだが、何より妹は私なんかと違ってとても可愛らしい。
「どうやら噂は本当らしいね」
「あら、まだ噂の詳細をお伺いしていませんが」
ターシャが私の妹だと言う事がその噂とやらだったのだろうか。だがそれは事実なので噂とは言えないだろう。
「噂の内容を知りたいと?」
「あら、その話を持ち出したのはそちらではないですか」
ニコリと微笑むが、私のキツめの顔も彼には効かないようだ。
「私が聞いた噂はこうだ。実家からこき使うために妹をメイドとして学園に連れてきた非道な令嬢がいると。どうやらその令嬢は、妹が男子から言い寄られることが気に食わず、全て追い返しているとか」
私はふむ、と考え込んでしまった。どんな的外れな噂が出回っているのかと思ったが、特に反論するような内容ではない。
「概ね合ってますわね」
「ほう、認めるんだね?」
「私がその噂を認める認めないでこの婚約に何か問題でも?」
煽るように小首を傾げた。彼が少しイラついたように眉間に皺を寄せた。そんな顔も素敵だとは。
「大いにある。他の噂についても認めるか?」
「他にもありますの?」
「君が幼少から妹を折檻していたという噂だ。これも事実か?」
私は吸った息が吐けずに目を見開いた。まさか学園内にそのことを知っている人物がいるとは。妹が言ったのだろうか。いや、きっと婚約する話が出た時に彼が調べさせたのだろう。
声が震えそうになり、腹に力を入れた。
「えぇ。事実です」
彼の目をひたと見据える。軽蔑した顔でさえ、鷹を思わせる鋭さと美しさを讃えている。
プライアー様はふう、と大きく息を吐いて眉間を揉んだ。一つ年上とは思えない、大人びた仕草だ。
「少し頭を冷やしたい。今日はこの辺りで」
彼は私の返事を待たずに騎士を引き連れ温室を去っていった。自分もすぐに自室に戻ろうとしたのだが、ターシャの顔を見る気にはなれずしばらく温室の植物を眺めた。
******
プライアー様と初めて会ってからしばらくして、彼とターシャが談笑している姿を見ることが増えた。私との婚約を解消したわけではないので人目を気にしているようだが、私の噂を知っているものが殆どなので誰も苦言を呈したりはしていないようだった。
今日も中庭の端っこで2人が仲良く笑い合っている。
2人からは見えないところから私はそれをこっそり覗いているという訳だ。
「放っておいて良いのですか」
「きゃっ!」
いつの間にか隣にプライアー様付きの騎士が立っていた。侯爵家の人間を守るための騎士なので強そうなのは当たり前なのだが、いかんせん大きい。
「お、驚かせないでください」
「申し訳ありません」
騎士らしいピシッとした礼で謝られ、少し感じていた怒りはあっという間に霧散した。
「お二人は随分仲良くなられたようですが」
騎士も2人を見守っていたのだろう、無機質な目で中庭を見遣っている。
「えぇ、妹にも仲良くしてくれる人ができて良かったわ」
「ですが、あの方は貴方の婚約者ですよ」
「そうね。それが問題だわ。どうにかしないと」
「どうにか、とは?」
固かった騎士の声が不安に揺れた気がした。
「それは考え中よ」
プライアー様とターシャを見ていると、2人のこれからについて期待してしまう。彼女にも、プライアー様にも幸せでいてほしいのだ。出会ったばかりの彼にも愛おしさと、これからの人生を祝福せずにいられない。
「まさか、加護の力を使うつもりですか?」
騎士の言葉にきょとんとしてしまう。意識して見ないようにしていた目線を隣の彼へ向けた。身長は私より頭四つぶんほど高いだろうか。年齢は一回り上のように見える。学園では見かけないほどのしっかりとした体躯。短く刈り上げた茶色の髪は中庭から吹く風でそよそよと揺れている。静かだが、確かに騎士らしい眼光は深い青でいつか見た海を思わせた。
まだ数回しか会ったことのない彼の魅力に溺れそうになり、私は咳払いで気持ちを誤魔化した。
「コホン、その、加護の力って?」
「お気を悪くしないでください、巷の噂なのですが」
「噂が多いのは光栄だわ」
「愛の女神の加護を受けた乙女は、人を籠絡する力を持っている、と……」
「……はぁ?」
思わず眉間に皺がよる。
「も、申し訳ありません、伝えるべきではありませんでした」
「あ、いやあなたに怒ったわけじゃないのよ」
慌てて微笑んで手を振った。彼や噂を立てた誰かに怒ったわけではない。この加護とやらを授けた女神に怒ったのだ。本当に無駄な加護を授けてくれたものだ。
確かに、愛の女神と聞けば誰からも愛される力を持っていると思っても不思議ではない。だが実際のところはその逆だ。誰をも愛してしまう。誰からも愛されるより厄介なのではないか。
「私にそんな力は無いわよ、実際、大事な人には嫌われているしね」
楽しそうに声を上げて笑うターシャを眺める。あんなに幸せそうに笑っているのを見るのは子供の時以来だ。私にもあの笑顔を向けてほしいと願ってしまうが、それは無理な願い。そんなことを思う権利も私にはない。
「貴方は、プライアー様を好いているのですね」
「えぇ。愛してるわ。彼も、妹のターシャも、もちろん貴方のこともね」
イタズラっぽく微笑み、騎士に笑いかける。
「は……私ですか」
彼も流石に困惑したようで、少しだけ眉を下げた。
「これが加護なのよ、誰でも彼でも愛する、愛してしまう……愛は大事って言うけれど、そんなの本当かしら。だって、誰でも平等に愛してしまうのって……誰も愛していないのと同じじゃない?」
弱音を吐いてしまい途端に恥ずかしくなった。つい気が緩んでしまった。加護の具体的なことについては誰にも話すなと母から言われていたのに。だが彼ならどこにも漏らさないだろう。
「ご、ごめんなさいね、話しすぎたわ」
慌てて立ち去ろうと踵を返した背中に彼の言葉がかかる。
「捨てられれば、良かったですね」
「え?」
振り向き騎士を見た。彼は真剣な顔でこちらを見ていた。
「その力を望んで手に入れたわけではないのでしょう?」
いっそのこと捨ててしまえれば、私は自由になれるのだろうか。本当に好きな人だけをずっと愛することが出来るのだろうか。だが、加護はそう簡単に無くしてしまえるものではない。仮に力が無いフリをしたって……。
「そうよ!貴方天才ね!」
私は彼に走り寄り、手を握った。いつもなら知らない男性に触れることなどしないのだが、今はそんなことを気にしていられない。
「貴方のおかげで光明が見えたわ!本当にありがとう!」
「え、えぇ、何かお役に立てたのなら、良かったです」
戸惑い固まる彼を置き去りに、私は自室へ走った。
ありがとうございました!