2 扇
社交界デビューを無事に終え、次に私を待っているのは学園入学だった。
「お母様、私学園の寮に入ろうと思ってるのだけど」
「えぇ?寮に?」
「その方が早く世の中を学べると思うのよ」
「学園の寮ではメイドも居ないんだぞ?朝起きられるのか?」
父が揶揄うように私を笑う。
「もう、子供扱いしないで!」
食堂に3人の笑い声が響く。妹はその場に居ない訳ではない。少し離れた所に置いてある小さい机で1人黙々とパンを口に運んでいた。私たちの会話は聞こえているだろうが、一切反応しない。
母が話の流れで、先日社交界で会話した奥方の悪口を言っている。母の目線が妹の方へ向く。
「ねえターシャ。ターシャ?聞いているの!?」
ターシャが今気づいたと言うように飛び上がり母を見た。彼女の顔色が青くなる。私は机に置いていた扇をサッと手に取り、自分の頬を扇でトントンと叩いた。
「ターシャ。あなたお母様の呼びかけを無視するなんて、随分お偉くなったのね?」
ゆっくりと妹が座る机へ歩み寄る。妹は怯えたように私を見上げて、声も出せないようだ。
「何か言ったらどうなの?」
ーーーパン!
妹の頬を扇で打つ。食堂に乾いた音が響いた。青かった妹の頬は赤くなっている。
「……あ、も……申し訳…ありません」
妹の震えた声が母の溜飲を下げたようで、両親は何事も無かったように食事を再開した。
「あなたの顔を見ていたら食欲が無くなってしまったわ。お母様、お父様、私先に自室に戻るわね」
先ほど妹の頬を打った扇を広げ、私は微笑んだ。両親の了承を得て自室へと歩く。
ーーあぁ。気持ち悪い。
長い廊下を歩く間にも胃がぐるぐると回転しているようで、吐き気が止まらない。やっと着いた自分の部屋の扉をゆっくりと開け、ベッドに倒れ込んだ。
「ふうー……」
大きく深呼吸を繰り返し、気分を落ち着かせる。少しだけ食べた朝ごはんを吐き出してしまうのは体にも良くない。
天井を見上げる目に涙がじわじわと滲んでいく。天井が段々とぼやけて見えなくなった。
「……ひっ……う…ご、ごめんね……ターシャ」
声が部屋の外へ漏れないように腕で覆う。袖が涙でじわじわと濡れていった。妹への罪悪感と自分への怒りで涙が止まらない。妹を傷つけた後はいつもこうだ。
もし女神の加護がなければ妹を愛することもなかったのだろうか。そう考えて、私は小さく首を振った。そんなのありえない。
初めてターシャと出会った時のことは良く覚えている。私が7歳で、妹はまだ5歳だった。妹は私をキラキラした大きなめで見つめ、遊び相手が増えた嬉しさでフクフクした頬を高揚させていた。まるで絵本に出てくる天使のようだと思った。
そんな妹をまるで仇のように嫌う両親。本来なら、私は妹を守るために両親に対抗しなければいけないのに。なんて酷いことをするのだ、と彼らを憎むべきなのに。
愛の女神の加護は厄介だ。愛する妹を無碍にする両親さえ憎むことが出来ない。小さな子供を親が恫喝するなんてこんな状況、産みの親の事でさえ軽蔑して当然なのに、私にはそれが出来ないのだ。
どれだけ悪い人間でも、卑しい人間でも愛してしまうのがこの女神の加護だ。
こんなもの、欲しくは無かった。
妹を手放しで愛してはいけないと気づき始めたのは、両親が再婚してすぐだ。新しい父は妹の方を見もしない。まるで存在していないかのように扱っていた。母は日を追うごとにターシャへ対する態度を厳しくしていった。父が何も言わなかったのが更に母を勢いづかせたのだろう。
誰かを怒鳴りつける母を私はその時初めて見た。まるで違う人格が乗り移ったようで、恐ろしかった。
最初は私も妹を庇ったのだ。なぜ両親が妹をぞんざいに扱うのか理解ができなかった。仲良く笑い合っているのが家族というものでは無いのか?
だが私の行動は事態を悪化させただけだった。シエンナをたぶらかしたのか、と強くなる母の叫び声。妹の恐怖に歪む顔。
その日から私は妹と遊ぶことをやめた。
母が妹を怒鳴りつける前に私が怒鳴る。母が叩く前に私が叩く。そうして母の怒りを肩代わりするのだ。
女神の加護の反動なのか、妹に悪意を向けた後は自分の体も不調になった。もっと良いやり方があったのかもしれない。だが子供の私の頭では今のやり方が精一杯だった。
ありがとうございました!