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短編版 妹よ、その侯爵令息は間諜です

作者: ユタニ


異母妹に微笑みかける、銀髪の美形。

肩の少し下まである真っ直ぐな銀髪を緩くまとめた洗練された身なりの男。


冷たいアイスブルーの瞳の涼やかな目元に輪郭は細く、顔立ちは少し中性的で美しい。

表情があまり動かないのと、所作に隙がないので、髪色と瞳の色も相まって冷たい印象を受ける。

そんな冷たい美形は、シンシアの異母妹であるリディアに愛を囁いているらしいのだが。


あれは、どう見ても間諜じゃない。


シンシアは冷たい美形、アラン・キリンジ侯爵令息をうっとりと見つめる妹に呆れた。

アランのリディアを見つめる瞳はどこまでも冷めていて、笑顔は完全に作り笑いだ。


どこが、甘い眼差しと蕩ける笑顔、よ。

そのように自慢していた妹を、心底阿呆だと思う。



最近、シンシアの暮らすヨハンソン子爵家のタウンハウスに出入りするようになった冷たい美形は、シンシアにもすぐに目に付いた。

テラスでリディアと過ごすアランを初めて見た時、明らかにリディアを愛する振りをするその様子を不審に思ってリディアに聞くと、妹はとても得意気に、夜会で知り合った恋人だ、と言った。


いやいや、あれは、恋人の振りをしている怪しい男よ?

すでにアランに骨抜きにされているらしいリディアに、それとなくアランには気を付けるように言うと、リディアは何を勘違いしたのか、シンシアがアランに横恋慕したと思ったようだ。


「あらあ、お姉様、羨ましいの?」

愛らしい外見だが意地の悪い異母妹は、ニタア、と外では絶対に見せてはならない不気味な笑みを浮かべた。

そこからリディアは、おそらく嫌がらせで逐一アランとの手紙やデートの内容、屋敷に来る予定などを話してくれるようになり、シンシアはますますアランを警戒した。


リディアによると、見目麗しいアランはキリンジ侯爵家の次男で24才。キリンジ侯爵の持つ商団では幹部として働き、大きな取引を幾つか成功させている才能溢れる青年だった。

侯爵家はアランの兄が継ぐ予定なので、未来の侯爵という訳ではないが、王太子の幼馴染みでもあり、補佐役として城へも登城しているらしく、出世は間違いない。


かたや、シンシアの異母妹のリディアはヨハンソン子爵家の次女。

外見は愛らしいが落ち着いた美しさはなく、その愛らしさは17才という若さ限定のものだ。

リディアの母は平民で長くシンシアの父の愛人だった人で、シンシアの母、前子爵夫人が亡くなってから後妻として嫁いできたので、リディアは12才までは平民として暮らしていた。


平民暮らしのせいなのか、本人の性質によるものなのか、リディアの所作やマナーにはかなり粗がある。

性格も良いとはいえない。下の者には見下した態度を取り、己を高めようという意欲は皆無だ。

ドレスや宝石は大好きだが、それらのお金がどこから払われているかには無頓着で、貴族としての矜持は一切ない。


アランが顔だけで中身のない阿呆令息ならともかく、その立ち振る舞いを見るに、彼はとても阿呆とは思えない。冷たいアイスブルーの瞳は思慮に富んでいて、リディアが見せびらかしてきた手紙の文章は美しく、その筆も流麗だった。リディアが自慢する通りの男のようだ。

そんなアランがリディアに惚れる理由は見当たらない。


何よりも、アランのリディアへの目付きを見れば分かる。

あれは、恋に浮かされた目ではない。

何かを狡猾に狙っている目だ。


お父様もリディアもどうして気付かないのかしら。貴族の作り笑顔を知らないのかしら。


シンシアは途方に暮れた。


シンシアの父、ヨハンソン子爵は脱税と密輸をしているのだ。シンシアはその裏帳簿をつけさせられているので全貌を把握している。


アランの目的はその断罪だろうと考えられた。


そうなると、間違いなく父の首は飛ぶ。

おそらく、関与していて戸籍上は娘であるシンシアの首もだ。



今も昼下がりの庭の東屋で、リディアに心底冷たい目を向けるアランを見てシンシアはぶるりと震える。


お父様にお伝えした方がいいかしら……いえ、きっと無駄ね。信じる訳はないわ。それに、

シンシアは、小さなため息を吐く。


それに、いい加減、これを終わりにしたい。


脱税と密輸、どちらも大罪だ。

特に一年ほど前から父が手を出した密輸は、何やら規模が大きく、随分ときな臭い。何度も手を引いて欲しいと懇願したのだが、聞き入れてもらえなかった。


これ以上、罪が大きくなる前に、誰かに止めて欲しかった。裏帳簿をつける度に、大きくなっていく金額が恐ろしかった。


だから、よい機会かもしれない。

私も言い逃れはできないけれど。


シンシアに選択肢はなかったとはいえ、父の悪事を手伝ってきたのは事実だ。

自分にも責任はある。

あの冷たい目の男なら、しっかりと終わりにしてくれるだろう。容赦なく子爵家を取り潰して、父とシンシアを断罪するだろう。


そうなったら、せめて貴族らしく、全てを受け入れて、私は……


ぼんやりとそう考えながらシンシアは、子爵家の敷地の隅にひっそりと建つ離れの扉を開けた。この5年の間、シンシア達の家となっている離れだ。

外壁は薄汚れ、手入れのされていない草木と蔦が囲っているせいで昼も薄暗い荒んだ様子の離れだが、中はせっせと掃除をしているので、外見よりはずっとさっぱりとしていて過ごしやすくはなっている。


「あーねうえ!」

我が家に足を踏み入れると、明るく幼い声が響いてシンシアは、はっとした。


私は、今、何を、


「ハリーはどーこだ!」

動揺するシンシアには構わず声は続く。


離れは小さな玄関から直接ダイニングに繋がっている。窓を覆う蔦のせいで薄暗いそこに声は響いているが、その主は見えない。

でも、声は近い。声の主である可愛い天使はこの部屋のどこかにいるのだ。


「あれれぇ、ハリーの声はするのに、ハリーがいないなあ」

シンシアがわざと大きな声で呟くと、クスクス笑いが聞こえてくる。笑い声はダイニングにある戸棚からだ。


簡単に潜伏先を特定したシンシアはまず、わざと戸棚から離れて、「さてはカーテンね!」とカーテンをさっと捲り、「あれえ、いないわ。なら、テーブルの下ねっ!」とテーブルを覗いた後、「おかしいわねえ」と足音を大きく立てて戸棚へ近づいてやった。

戸棚の中ではもう、キャーッと悲鳴のような笑い声がしていて天使は大興奮のようだ。

「さては、」

「キャー」

「戸棚ねっ!」

ばんっと戸棚を開けると、そこには丸まったまま「キャアアアアッ」と奇声を上げる天使ハリーがいた。


戸棚に隠れていたのは、癖のあるプラチナブロンドにシンシアと揃いの深緑の瞳の父である子爵にそっくりの女の子のような可愛い男の子。

シンシアより12コ年下の6才の弟だ。


「お帰りなさい、あねうえー」

ハリーがぱっと飛び出してシンシアにしがみつく。


ああ、私はなんて事を、

ハリーを抱きしめながらシンシアはついさっき考えてしまった覚悟を深く後悔する。


この天使の為には死ぬ訳にはいかないのに。


自分が死んだら幼い弟は路頭に迷う。

そもそも、子爵家が断罪されればハリーだって、ただでは済まない。今は存在しない事になっているが、ハリーは歴とした子爵家の長男だ。そして父である子爵は絶対にシンシアとハリーを道連れにするだろう。

父は自分達を憎んでいるのだから。


でもシンシアは無力だ。笑ってしまうくらい無力だ。父の悪事に手を貸すしかなかったし、暴くことも出来なかった。

アランを止める事もシンシアには不可能だ。


断罪を待つ?

そうして、ダメ元でハリーの無事だけでも懇願する?


いいえ、何とかしてやるわ。

シンシアはハリーの頭にスリスリしながら、自分の胸に炎が灯るのを感じた。


これはチャンスかもしれない。

この緩やかな地獄から抜け出すための。





***


シンシアとハリーにとって、ヨハンソン子爵家が緩やかな地獄になったのは、今から5年前のこと、シンシアが13才、ハリーが1才の時だった。

シンシアの母である前子爵夫人が亡くなったのだ。母はハリーを産んだ後の産後の肥立ちが悪く、1年間伏したままだったのだが、そのまま亡くなった。

そうして、屋敷を空けて平民の愛人の所に入り浸っていた父が帰ってきた。愛人とシンシアより一つ年下の妹を連れて。


父であるヨハンソン子爵は婿養子だ。

シンシアの母は子爵家の一人娘で、男爵家の息子だった父に一方的に惚れて、当時の父の恋人との仲を割いてまでして父を手に入れた。母は厳しく気高い人だったが、父に関してのみ狭量だった。


父は母を恨んでいたし、母の産んだシンシアとハリーも憎んでいた。屋敷に連れてきた愛人は、若い頃に母によって引き裂かれた恋人で、妹のリディアは2人の愛の結晶。

子爵家の使用人は総入替えされ、シンシアは分かりやすく虐げられた。


離れに入れられ、食事は堅いパンと冷めたスープ。下女として働かされ、義母とリディアから蔑まれる辛い日々が始まる。途方に暮れる中、シンシアは自分の事よりも、父によって引き離されたハリーの身が何よりも心配だった。


生活が一変して1ヶ月が経った頃、シンシアは何とかしてハリーを救おうと意を決して屋敷を逃げだす。町の警邏の詰所へと駆け込み、窮状を訴えた。

しかし、誰も下女の格好のシンシアを相手にはしてくれなかった。

程なくシンシアは父に捕まる。


怒り狂った父に折檻され、シンシアはハリーの出生届が出されてない事を父に告げられた。


「あいつはいない人間だ、どうなろうと誰も何も気にしない」

ニヤニヤと父が告げる。

そうして父はハリーが、母に媚薬を盛られて無理矢理に行為をさせられた末の子供なのだと憎々しげに吐き捨てた。


ああ、ハリーは死んだのだ。

シンシアは絶望して泣いた。


そんなシンシアに父は畳みかける。

「弟が大切か?」

もちろん、大切だ。

生まれた時、シンシアは12才でハリーの小ささに驚嘆したし、一生大切にしようと誓った。初めて、シンシアの指をその小さな手できゅっと握ってきた時の感動は今も忘れていない。


シンシアが泣きながら頷くと、父は笑った。

浅ましく意地汚い笑顔。

そこに母が夢中になった儚げな美青年の面影はない。これが父の本性だったのだろうか、それとも母の押し付けた愛によって歪んだのだろうか。

シンシアは呆然と父を見た。


「シンシア、俺に協力しろ。お前は帳簿管理に領地経営の手伝いも出来るとお前の母は自慢していた。その能力を俺に使え。お前が俺に従順なら、離れにあのおぞましい息子と共に置いてやる」


シンシアは承知した。

承知するとすぐに、元気はないが怪我も病気もしていないハリーと会えて、離れで2人で暮らす事を許された。食事は最低限が用意され、ハリーが離れから出る事とシンシアが子爵家の敷地から出る事を禁じられた。


シンシアは下女を止めて、父の領地経営と脱税の手伝いをするようになる。

父の子爵は脱税をしていたのだ。

母に厳しく貴族として育てられたシンシアからすると、脱税など到底許される事ではなかったが、シンシアが逆らえば幼いハリーが酷い目に遭う。

シンシアは歯を食い縛って父の手伝いをした。



そうして5年の月日が流れたのだ。



***


アランの目的が子爵家の断罪なのだと気付いたシンシアは、用心深くその行動を注視することにした。


リディアに聞けば、得意気に手紙を見せて会話の内容を教えてくれたので、アランの様子を確認するのは簡単だ。


予想通りアランは子爵家の手掛ける事業にかなりの興味を示しているらしい。

生家の商団で働いているので自然といえば自然な事だが、既にリディアを通して父に計画書や採算報告書を見たいとお願いもしている。


リディアはアランはゆくゆくは子爵家の婿に入るのだから当然だと思っているようだが、そんな訳がない、脱税と密輸の痕跡を探すつもりなのだ。


リディアと外で会う時は、レストランの個室や観劇のボックス席で、どちらも裏口から中に入るらしい。リディアが「私を誰の目にも触れさせたくないんですって、うふふ」と嬉しそうに言い、シンシアは呆れて思わず半眼になってしまった。


違うわよ、あなたと一緒の所を見られたくないのよ。だって断罪するんだもの。

こうなってくると、リディアが少し憐れな気もしたが、母の形見の宝石のほとんどを取られた事を思い出してそれを押し込める。


それにリディアだって、アランの外見や身分しか見ていないのだ。

恋は盲目、とは言うが、本気で惚れているならアランの目に自分が一切映っていない事くらい気付けるはずなのだから。



そうやってひっそりとアランの動向を探っていたシンシアだったが、ある日、リディアに呼ばれてアランと対面するはめになってしまう。


嬉しそうに自分を呼ぶ声。

目をやると、リディアの横にはアランがいた。


お父様からは、外部の人からは私を隠すよう言われているはずなのに、堪え性がないのね。

シンシアはため息を吐いた。


出来ればアランとは顔を会わせたくなかったが、こうなったら仕方がない。

リディアや継母の機嫌を損ねると後々面倒なのだ。

昔は鞭で打たれた事もあったが、そのせいで翌日の父の手伝いに支障が出てしまい、鞭や体罰は父が止めさせた。

それからは食事に酢が大量に入れられたり、ランプの油を溢されたり、離れの玄関にたい肥を撒かれたり、と陰湿で嫌らしいものになっている。


シンシアが従順に従っておけば気が晴れるようで、満足気に微笑んで終わりだ。単純なのは助かる。


シンシアはリディアの気の済むようにと、2人の元へと行ってやった。

万が一、外部の人間と接触するような場合は、頭のおかしい振りをしろ、と父からは言われているが、面倒くさいので特に演技はしない。


間近で対面したアラン・キリンジ侯爵令息は本当に美しい男だった。

これは、リディアが夢中になるわけだわ。

思わず見惚れそうになってしまい、深く納得する。


高位の紳士であるアランには、淑女の礼で挨拶するべきなのだろうが、あえてそれをせずにちらりと見るだけに留めた。

貴族的にはこれで十分に頭がおかしいから、父の言い付けは守れただろう。


「お姉様、お姉様はそちらのワンピースがお気に入りで他の服には見向きもされないのよねえ?」

紹介も何もかもすっ飛ばして、猫なで声でリディアが聞いてくる。

異母妹こそ、貴族的には完璧に頭がおかしい。

シンシアは遠い目をして、「そうね」と答えた。


「お屋敷も大嫌いなのよね、離れでお一人で過ごすのがお好きなのよねえ?」

「そうね」

なるほど、そういう設定なのね。そして、ハリーはいない事になっているのね。あんなに可愛い天使が。


「私もお父様も、何とかお姉様にはお屋敷で暮らして、お洋服もきちんとあつらえたものを着てほしいのよ?そんなみすぼらしくて汚いワンピースなんて捨てて」

「気遣いは無用よ、リディア。もういいかしら?お客様もびっくりされているわ」

「お客様だなんて、ふふ、前に話したでしょう?こちら、アラン・キリンジ様。キリンジ侯爵家の次男さんなのよ。最近、とても親しくさせていただいていると言ったじゃなあい」

リディアは勝ち誇ってそう言うと、うっとりとアランを見上げた。


シンシアはもう一度アランを見る。しっかりと冷たいアイスブルーの瞳と目が合った。

淡い水色の光がシンシアを射抜く。リディアに向けられているよりもずっと強い眼差しがシンシアに注がれていた。そこにはある種の熱すら感じられる。


怒り?憎しみ?

そういった類いの熱のような気がした。

何故だろう、これまでひっそりと観察はしていたが、アランとは初対面だ。そのような感情を向けられる謂われはない。


戸惑いながらも、全てバレているんだと悟る。

リディアの嘘もシンシアの状況も全部見透かされているのだ。

この男は、シンシアが父の悪事を手伝っている事も突き止めるだろう。そして厳しく責めるだろう。

ひょっとしたら、もうそこまで辿り着いていて、それ故の怒りなのだろうか。


でも私、あなたに捕まる訳にはいかないの。

シンシアはひたりとアランを見据える。一歩も引く気はない。

私は、逃げ切ってみせる。

シンシアは目を瞬いてから、視線を外した。


そうして視線を外す瞬間に、不満気なリディアの様子にはっとなる。

そうだった、私、リディアの恋人に憧れていることになってたんだわ。

すっかり忘れていた。


リディアは、シンシアが惨めにアランを慕っていると思い込んでいて、最近とても機嫌が良いのだ。

数日前には、「私のアランを見るしか出来ない可哀想なお姉様に」と菓子までくれた。

この菓子に、ハリーは小躍りして喜んだ。


天使ハリーの小躍りを思い出してしまって緩みそうになる口元を、シンシアは必死に俯いて隠し、いじいじとスカートの裾で遊んだ。

「リディア、あの、もう行くわね。わたしはこんな成りしか出来ないし、キリンジ侯爵令息様の前では恥ずかしいわ」

棒読みになってしまったが、リディアにはこれで十分だろう。

シンシアはひらりと身を翻してその場を去った。



***


この対面以降、リディアは時々シンシアをアランとの席に呼びつけた。アランはますます子爵家に入り浸るようになり、屋敷内でもすれ違うようになる。


子爵家と自分を断罪しようとしている男の顔を度々見ることになってしまったのだが、シンシアに嫌悪はなかった。

今や断罪はシンシアの望む所でもあったし、アランの纏う冷たく厳しい空気は、亡くなった母に少し似ていて懐かしいとすら感じた。

何よりも、アランは唯一この屋敷でまともな感覚を持っている人間で、父や継母、リディアや使用人達と接して参っているような時にアランを見ると妙に落ち着いた。


アランとシンシアが交わす言葉はほんの数語だが、口調は事務的で丁寧で、シンシアを見下したり蔑むこともなく、それも心地よい。

ただその眼差しにはいつも、初対面で感じた熱が込もっていた。その熱が怒りから来るものだとしても、リディアに注がれるものよりずっと情熱的な視線。庭を歩いている時に遠くから絡み付くようなアランの視線を感じる事もあり、それはシンシアを戸惑わせた。


何なのかしら?

ほんの少し、シンシアはアランに興味のようなものを抱く。

あの男は何を考えて感じているのだろう。

アランという若者を知ってみたい気もした。

でもシンシアは最終的にはこの男から逃げると決めている。だからそれ以上の興味は持たないように気を付けた。


そして実際、アランは着実に子爵家の悪事に近付きつつあった。

父がアランに表向きの真っ当な事業の相談をし、帳簿も見せていると知り、シンシアは子爵家への踏み込みと断罪も秒読みだと確信する。


シンシアの緊張と警戒が高まりつつあったある日。

よりによって密輸の裏帳簿の作業を終えて、それを戻そうとしている時にシンシアはアランと廊下ですれ違った。


アランは珍しく動揺しているように見えた。

そして、アランは非常にらしくないことに、取って付けたようにシンシアにヒメアガパンサスの綴りを聞いてきた。青紫色のラッパ型の花の名前を。


「ど忘れしてしまったので、書いてくれませんか」

そうお願いされて、シンシアはアランが自分の筆跡を確認したいのだと分かった。やはり、全てバレているのだ。


無言で手持ちのメモに綴りを書いて渡す。


潮時だと思った。

そして、時機は自分で作るべきだとも。



シンシアは小声で裏帳簿の隠し場所をアランに告げた。



***


貴族の罪は家族も連座で罪を問われる。

娘としてなんか扱われてはいないが、シンシアが子爵の正式な娘である事は事実だ。

子爵が断罪されればシンシアも、場合によってはハリーも罪に問われる。


それでもシンシアがアランに裏帳簿の在りかを教えたのは、罪悪感からというのが一番の理由ではあったが、もう一つ、自分とハリーが子爵家から逃げる為でもあった。


シンシアだって何度かハリーを連れて子爵家を出ようと考えた事はあったのだ。満足に栄養の摂れていない食事に離れに閉じ込められる生活。そのせいでハリーは6才にしては体も小さいし筋力も弱い。このままではまともに健康な大人にはなれないだろう。その心配はハリーが4才になる頃からあって、何度もここから逃げるべきだとは考えた。


しかしただ逃げるだけでは、裏帳簿を管理し、給金も要らない最適な働き手でもあるシンシアを、子爵である父は絶対に見つけ出して連れ戻すだろうという確信があった。

そうなれば、シンシアとハリーへの扱いが緩い軟禁から監禁へと変わり、今よりひどい生活が待っている。それだけは避けたかった。


だからシンシアは、子爵家の断罪のどさくさに紛れて逃げようと考えたのだ。

父の罪から自分だけ逃げるのは、貴族としてはあるまじき行為で、アランが屋敷に出入りし出した当初は潔くお縄につこうとも思った。


でも、自分にはハリーがいる。

幼い弟だけは何としても、仮令汚名にまみれても守らなければならない。


シンシアには何の選択肢もなく弟を人質のようにされて、ただ使役されていたのだ。元々、自分は誇れるほど高潔な人間ではない。ここから逃げる権利くらいはあると思う事にした。


逃げることが出来たら、ハリーとひっそり暮らそう。

シンシアは弟を市井で平民としてでもいいから、伸び伸びと過ごさせてあげたかった。


逃げる時機は断罪の直前がいい。

シンシアとハリーの不在に父親が気付いても、それに手を回せない内に捕まる、そんなタイミングがいい。

そうしてアランに裏帳簿を教えた。

後は、子爵への踏み込みのタイミングを見計らってハリーと逃げるだけだ。


お金もあてもないが、母の形見の石の付いた指輪が一つだけある。これを寄付してハリーと2人で教会に駆け込めば少しの間は何とかなるだろうから、その間に生活の術を考えようと思っている。

幸い、シンシアは計算も帳簿管理も出来るのだ。選ばなければ働き口はあるだろう。


アランは自分を追うだろうが、ハリーを連れていれば何とかなる。探されるのは一人ぼっちの若い娘であって、姉弟ではない。シンシアの顔を知っているのはアランだけで、侯爵令息自ら探し回ったりはしないから、幼い弟連れであればきっと逃げられる。

大丈夫、上手くいくわ。


覚悟を決めたシンシアは、こまめにリディアにアランの訪問について聞いた。

裏帳簿を確認したのだから、アランが子爵家に踏み込むのは時間の問題だ。

そして、踏み込むなら子爵が屋敷に居る時に来るだろうから、予め子爵の予定を確認してから来るはずだとシンシアは考えたのだ。


シンシアはいつも出来るだけおどおどと、頬を赤らめながらリディアにアランの訪問予定について尋ねた。

「うふふ、しつこいわあ。ほんとうにお姉様は浅ましいわね。私の恋人であるアランをちらりとでもいいから見たいのねえ。でも、そうね、お姉様にはアランは見るだけしか叶わないものね、見るだけならよくってよ。許してあげる。今はアランは忙しいらしいの、来る時は教えてあげるわ、お姉様はお庭の端っこから、物欲しそうに見るといいわよ」

リディアはシンシアを嘲笑いながらそう答えた。


そうして、アランの訪れの知らせがないまま一ヶ月が過ぎる。

シンシアは焦ってきた。裏帳簿まで確認したのに、子爵家への踏み込みが遅すぎる。


どうしよう、何か妨害が入ったのかしら?

それとも、先ぶれなしの不意打ちでやって来るのかしら?


子爵への断罪がなければ、シンシアとハリーは逃げるタイミングが失くなるし、不意打ちで来られては上手く逃げられるかは分からない。


どうしよう、もういっそのこと、踏み込みを待たずに逃げようかしら……

戦々恐々と過ごす中、ついにリディアが5日後のアランの訪問を教えてくれる。


「今回の私とのお茶には、お父様も同席して欲しい、ってアランは言ってきているの。婚約の申し込みだと思うのよ。うふふ、可哀想なお姉様。私がアランと結婚したらお姉様を私の専属メイドにしてあげるわ、初夜の支度と翌朝の私のお世話をさせてあげるわね」

満面の笑みでそのように告げるリディアに対して、悲しそうな顔をするのは一苦労だった。


5日後のアランの訪問を知り、シンシアは逃げるのは4日後の晩にしようと決める。

一晩でハリーと隣町の教会まで歩こう。

翌朝に不在が発覚しても、父はアランの対応への準備で手一杯だろうし、アランが来てしまえば子爵家は終わりだ。


シンシアはこっそりと準備をした。

乏しい食事の中から、一晩の為の軽食を準備して、少ない荷物を纏める。

ハリーが挙動不審になってはいけないので、ハリーには直前に話す事にして迎えた4日目の朝。


ハリーが熱を出して寝込んだ。


父に伝えて薬を嘆願するが、もちろんそんな物は貰えない。出発の夜が迫る中、ハリーの熱は夕方から更に上がり、ベッドでぐったりとしている。


夜の闇の中、高熱のハリーを抱えて逃げるのは危険過ぎた。シンシアは夜の出発を諦める。

明日の朝には、もしかしたらハリーの熱も下がるかもしれない。

そこから2人で逃げる方が現実的だ。

早朝に出発すればいいのだ。

計画を変更してシンシアは夜通しハリーの看病をした。


翌朝、ハリーの熱は下がらない。

天気は早朝から土砂降りの大雨だった。


どうして?


ほとんど寝てないシンシアは絶望的な気持ちで窓の外を眺める。


どうして?神様。


なぜ、誰もシンシアに味方してくれないのだろう。

じんわりと涙が込み上げてくるが、泣いても誰も助けてはくれないのだ。

シンシアは、きゅっと目を瞑り、唇を噛み締める。


絶望している場合じゃないわ。


シンシアはこっそり屋敷に向かい、物置から使い古した外套をくすねて、それでしっかりとハリーをくるんだ。少ない荷物を腹に巻いて、ハリーを自らに縛って背負う。


大丈夫、歩ける。

土砂降りならかえって人目につかないし、良かったわよ。

出来るだけ前向きに考えることにする。


シンシアは意を決して、離れの家から外に出た。

今日が自分とハリーの新しい人生の始まりなのだ、と気持ちを鼓舞する。

土砂降りじゃないわ、祝福の雨よ。

叩きつける雨粒を受け、人目を避けて離れの裏から屋敷の門へと回り込んだ。

裏庭は足元が悪く、こけないように慎重に進む。


雨がシンシアの頭や肩を濡らし、繁みの雫でスカートはあっという間にぐっしょりと濡れた。

服が重くなり、外套を巻き付けたハリーがずしりと肩にのし掛かる。

早くも挫けそうだが、諦めるわけにはいかない。

屋敷に残っていては、連座で捕まるだけなのだ。

こうなったらハリーだけでも逃がさなくては。


シンシアはびしょ濡れで、よろよろと門まで辿り着く。髪の毛がべったりと頬に張り付き、靴は泥だらけだ。でも、門まで来た。まずは、家を出られる。

笑っちゃうくらい先は長いが、希望の光のようなものが見えてくる。


「ハリー、もう少しよ。一緒にここを出ようね」

少し元気が出てきて、ぐったりしたままのハリーに声をかけた時だった。


煙る雨のカーテンの中から、たくさんの騎士達が馬に乗って現れた。



先頭はアランだ。










「こんな時まで……忌々しい」

油引きした外套の下から冷たいアイスブルーの瞳がシンシアをきつく見つめて、吐き捨てるように呟く。


土砂降りの雨の中でもその呟きは、はっきりとシンシアの耳に届いた。


怖さで足がガクガクと震えたが、シンシアは再び歩きだす。

泥濘と化した道を一歩一歩進む。

びしょ濡れの髪の毛をつたって、つう、と雨垂れが襟の隙間を通って肌を撫でる。

シンシアは目を伏せ、現れた騎士達に道の真ん中を譲って、より泥濘の深い場所をゆっくりと進んだ。

ぐちゅりと靴が沈んで足を取られそうになる。

ハリーを落としては大変なので、弟をおぶっている腕にぐっと力を込めた。


そうやってアランの乗る白馬の横を通り過ぎようとした時、


「待ちなさい」

厳しい声がアランよりかかった。


びくりと身体を震わせてシンシアは立ち止まる。

ざああ、と雨の音が大きくなった気がした。


「何か私に言うことは?」

蔑むような冷たい声色。

逃げる自分を咎めているのだと、シンシアは思った。

やはり自分への熱い視線は、怒りだったのだ。

長女のお前は、何をのうのうと父親の悪事を手伝っているんだ、一番に摘発するべきだろう?という怒りだったのだ。


だって仕方ないじゃない。

シンシアは心の中で反論する。


知ってたわ、知ってたわよ。お父様の悪事くらい、全部知ってたわ。

裏帳簿をつけたのは私よ、もちろん、全て把握していたわ。

シンシアは雨の波紋が広がる地面を見つめる。


でも、私に何が出来たっていうの?

あなたとは違う。

私は無力で、何もない。

私が通報した所で誰が信じるというの?

虐げられた先妻の娘なのよ?

食べるのも満足にいかない痩せっぽちの、襤褸をまとったみすぼらしい娘。

令嬢になんて見える訳のない娘。

人質のような小さな弟までいるのよ?

逆らうなんて、出来た訳がない。

私に出来るのは、こうして、捕り物に巻き込まれない為に逃げるだけなのよ。


だって、どうしろって言うの?

ハリーは6才なのよ!

見捨てられる訳がないでしょう?!


そう喚きたいのをぐっと堪えて、シンシアは唇を噛み締めた。そして、震える声をふり絞り、俯いたまま一言、告げた。


「み、見逃してください」


哀れで惨めな、か細い声だった。

泣きそうになるが、涙は何とか留めた。

この上、泣くなんて絶対にしたくない。


「どうか、お慈悲を」

アランはシンシアの正体に気付いている筈だ。

裏帳簿をシンシアがつけていた事も知っているだろう。本来なら、家族は罪を重ねた子爵と連座で裁かれる。悪事を手伝っていたとなれば、その罪は重くなる。シンシアは当然、子爵と共に裁かれる立場だ。


でも同時にアランは、この家でのシンシアの境遇も把握していたに違いないのだ。子爵に冷遇され、使用人に蔑まれ、いいように使役され、子爵が手にしていた利益の恩恵になど与ったことのないシンシアの境遇を。


だから、どうか見逃して欲しい。

市井で平民として、ハリーと共に誰にも迷惑をかけずに隠れて生きていくのだ。


だから、慈悲を。


シンシアは馬上のアランに深々と頭を下げた。

雨が後頭部を打ち、頬を伝って鼻先や唇から地面へと落ちる。


「背中の子供は?」

嘆願は無視され、問いかけが降ってきた。

その問いにヒヤリとする。


ハリーを弟だと言う訳にはいかないと思った。

それを伝えれば、直系の男児のハリーは絶対に捕まる。

そもそも、ハリーは子爵に認知すらされていないのだ、弟であってたまるか。

今まで何も与えられなかった弟に、連座で罪だけ償わせるなんて、するものか。


「私と使用人との間に出来た子です」

泡立つ地面を見据えながら、シンシアははっきりとそう答えた。声はもう震えていない。


ざあっと雨が鳴り、馬上からは盛大な舌打ちが聞こえた。

雨音が煩いはずなのに、恐ろしい沈黙がその場を包む。アランの後ろに続く騎士達が戸惑っているのが伝わってきた。


「御前を失礼致します」

シンシアは頭を下げたまま、そう告げると足を踏み出す。


「逃がしません」

非情なアランの一言。

シンシアは頭が真っ白になる。体が冷たく固まった。


アランは後方を振り返ると、「サムエル!」と誰かを呼んだ。


ほどなく、頭を下げて固まったままのシンシアの視界に男性用のブーツの爪先が入ってきて、雨が止む。

驚いて顔を上げると、きちんとした身なりの侍従らしきちょび髭の男が黒い大きな蝙蝠傘をシンシアへと掲げていた。


「こちらへ、レディ」

サムエルと呼ばれたちょび髭の男が優しく言う。


「いえ、私は、」

シンシアは傘から出ようと体を横へとずらす。

傘はさっとシンシアを追ってきた。


「レディ、背中のお子様は具合が悪いようにお見受けします。手当てをさせていただきますよ」

サムエルは目ざとくハリーの様子に気付いて言った。


「この雨の中、医者に診せるあてはないのでしょう?」

その通りなので、黙る事しかできない。

「こちらへ」

サムエルが笑顔でシンシアを促す。

ハリーの手当てをしてくれるなら、それはもう命令に等しかった。


「分かりました」

サムエルに導かれて、屋敷の敷地を出る。

背後では、バシャバシャと馬達が屋敷へと向かい、扉が荒々しく開けられる音がした。


「レディが気にする事ではありませんよ」

振り返ろうとしたシンシアをサムエルが止めて、屋敷の外に停車していた馬車の扉が開けられる。


「お乗りください」

「あの、でも、」

馬車を見て、シンシアは乗り込むのを躊躇う。

馬車は騎士団の馬車ではなかった。キリンジ侯爵家の紋入りの豪華な馬車だったのだ。


灰色の外装はシンプルだが、庇や縁にさりげなく金があしらわれていて、車輪の真ん中のセンターキャップには可憐な百合が彫られている。

扉から覗く車内は凝った造りで、両側には深緑色の柔らかそうな座席が見えた。


こんな所に自分が乗るの?

明らかに場違いだ。


「雨が強いのです。お早く」

呆然とするシンシアをサムエルが急かす。

「……はい」

釈然としないまま、シンシアは馬車に乗り込んだ。

後から乗ってきたサムエルがシンシアからハリーを離すと、巻き付けていた外套を取る。

相変わらず高熱でぐったりしているが、ハリーは濡れていないようでシンシアはほっとした。


サムエルはハリーを座席に横たえると、座席の下の物入れからタオルを取り出してシンシアへと渡してくれた。

「お拭きください」

タオルを受け取って顔を拭くが、ハリーを背負っていた背中以外は全てびしょ濡れでスカートからは水滴が滴り落ちている。

シンシアは少し迷ってから、馬車の扉を開けて、ぎゅっとスカートの裾を絞った。


「お座りください、馬車を出します」

スカートを絞り終わったシンシアにサムエルが言う。

「でも、座席が濡れてしまいます」

「構いませんよ、お座りください」

「……」

シンシアはタオルを敷いて、その上に座った。

少しはマシだろう。


シンシアが座ると、馬車が動き出す。

馬車がなぜ侯爵家の馬車なのかは不明だが、この雨で騎士団の馬車が出払っているのかもしれない。

とりあえず自分は騎士団の詰所にでも連れて行かれるのだろう。

騎士団の詰所なら、常駐の医師も居る。

きっとハリーを診てもらえる。


ハリーは自分と使用人の子供で通そう。

6才にしては小さいし、4才くらいにすればギリギリ自分が産んだで通る。

子爵の孫で庶子、戸籍の届出もされてない子供なら、きっと罪には問われない。

計画していた逃亡劇とは違ってしまったが、もうハリーさえ守れるならそれでいい。


父はハリーを息子だと主張するだろうが、出生届けも出さずシンシアと共に閉じ込めていた事実があるのだ。シンシアが産んだのだと証言すれば、こちらの方が真実味がある。


咄嗟についた嘘だったが、我ながらいい嘘だった。これでハリーは守られる。

シンシアはほっと息を吐いた。この際、我が身はどうでもいいのだ、ハリーさえ無事ならそれでいい。

万歳、御の字だ。

最初からこうしてたら良かったんじゃないかとすら思えた。


ここの所、張り詰めていた緊張が一気に緩む。どっと疲れてきて、シンシアはいつも伸ばしている背中を座席に預けた。


そうしてぼんやりと車窓を眺めた。













◇◇◇◇◇◇◇◇◇


子爵家の庭で、初めてシンシアに対面した時、アランはシンシアを美しいと思った。


忌々しいほど、美しい。


手入れのされていない肌に、ひっつめただけの艶のない鳶色の髪。痩せたみすぼらしい体を包むのは色褪せた寸足らずのワンピースで、足元はボロボロの靴。


そんな成りなのに、アランはその女を美しいと感じた。シンシアの新緑の瞳が静かに強く自分を見つめて、心臓が一つ大きく脈打つ。


アランは心の中で舌打ちをした。

この女は絶対に今回の任務でアランの邪魔になると確信する。


アランはこの美しい女の生家を断罪するためにここにいるのだから。





***


幼馴染みの王太子からヨハンソン子爵家の娘に近付いて内情を探って欲しい、と言われた時、アランはもちろん、断った。

だが、子爵が密輸している相手が隣国の貴族で、その後ろには隣国の軍までが関わっていると聞かされて、話は変わる。

何か、企みの芽のようなものが感じられた。


隣国は王が交代したばかりで不安定で、アランのキリンジ侯爵家の領地はその隣国と国境を接している。すぐ隣には独自の軍を持つ辺境伯もいて、有事の際は駆けつけてくれる事になっているが不穏な芽は芽の内に摘んでおくべきだろう。


「ヨハンソン家はここ数年でいろいろ手を出していてね、節操がないと言うか、見る目がない。隣国の軍が絡む、きな臭い取引に簡単に応じるような阿呆だが、隣国の軍が絡むだけあって、外からは守りが堅くてね。じっくり調べてもいいんだが、取引が大きくなる前に潰しておきたい。内部からなら脆いんじゃないかと思うんだ。子爵家の長女は病弱で屋敷に籠っているんだけど、次女は社交的で少し頭が軽い。次女になら近付けると思う」

隣国の話にアランの態度が変わったのを見て、王太子が言う。


「君の経歴には傷がつかないようにしよう、不貞を誤解されては困るような女性がいるなら無理にとは言わないが」

そう続けられ、アランは「そのような存在はいません、引き受けましょう」とその話を引き受けた。

王太子は、成功したら褒美を取らすから考えておけ、と言った。


父のキリンジ侯爵と兄には予め話が通っていたようで、すぐに夜会でヨハンソン子爵家の次女リディアと偶然を装って出会う手筈が調えられ、アランはリディアと出会った。


侯爵家を継ぐ兄とは違って、アランは侯爵家の持つ商団の経営を幼い頃から叩き込まれてきた。成人してからは商団で幹部として働いてきたので、駆け引きは得意だ。

女性に関しては冷めている方だと思う。特定の異性に熱をあげた事はなく、取引先の女性に優しくして少し有利に取引を進めたくらいの経験はあった。

アランは自分の外見が女性達に魅力的に映るのも知っている。今回の任務にアランは適任だったのだ。


領地の為でもあるし、仕方ない。それに国に忠誠を誓う貴族の密輸はもちろん大罪だ。

その罪を暴く事は同じ貴族としての務めだろう。

そう腹をくくって臨んだ任務だった。


それでも、リディアが純粋で可憐な優しいレディであれば、仮令父親の子爵が悪事を働いていたとしても良心は痛むだろうという懸念はあった。


アランは侯爵家の次男で生粋の貴族で、元々が優しい人間でもない。だからこそ、王太子は女を騙すなんて役割をアランに頼んできたのだ。

商売に関わっているせいか、嫡男の兄よりも更に自分の方が情が薄く、ドライな人間だとも思う。

しかし好き好んで女を泣かせる趣味はないし、最低限の良心はあるのだ。

リディアが頭が軽いだけの可愛らしい令嬢なら、後味の悪い結果にはなるだろうなと考えていた。


アランのその懸念はすぐに払拭される。

リディアは使用人や下位の貴族を明らかに蔑み、マナーも上っ面だけで品位はなく、豪華なドレスと宝石にしか興味のないような外見が愛らしいだけの娘だった。


父親の悪事については全く知らないようなので、事が明るみになり家が断罪されれば、それなりに可哀想ではあるが、関与していなければ母親と共に実家での蟄居が順当だ。


母親の実家は少し裕福な平民らしく、母親は長く子爵の愛人だったが、子爵家に嫁いできたのは前妻が亡くなってからでリディアは12才まではそちらで暮らしていたのだ。

なので母親の実家に戻ることは、リディアにはむしろ相応な身分だと思うとアランの良心は露ほども痛まなかった。


そうして、心の負担も軽いまま順調に子爵家に取り入っている最中、アランはシンシアを見つけた。




***


「あなたの前では、薔薇の美しさも霞みますね」

歯が浮くような科白を吐きながら、リディアと庭園を散歩している時だった。

アランは庭園を横切る一人の女に気付く。


背筋を伸ばし、流れるように歩く鳶色の髪の女。その身ごなしはメイドとは思えなかった。

歩く姿が綺麗で、遠目だが横顔が美しい。


「あちらは?子爵家のメイドですか?」

リディアに聞くと、彼女は鳶色の髪の女を見て、眉を寄せる。


「あれは……私の異母姉ですわ」

「姉上ですか?しかし、」

リディアが姉だと言った女は、着古した粗末なワンピースを着ていた。

アランは子爵家の戸籍上の家族構成を把握している。リディアが姉と言うからには、あの女は前子爵夫人の娘で病弱だという長女のシンシアであるはずだ。しかしシンシアは遠目で見ても、とても子爵家長女とは思えない身なりをしていた。それに、病弱だという割にはしっかりした足取りで歩いている。


長女について、子爵からもリディアからも話題に出ないし、紹介もされないので変だな、とは思っていたのだ。

どういうことなのだろうか。


「姉は世間には病弱だと言っているんですけど、体は平気なんです、その、精神的に少し……」

もにょもにょと俯いて言い訳しながら、リディアは何かを思い付いて黙り、その表情が変わる。

アランが愛を囁く振りをしている女は、俯いたままそっと底意地の悪い笑みを浮かべた。


丸見えなのだが、これがアランには隠しているらしいリディアの本性だ。

せめて、こういうのを隠し通せるほどの悪女ならこの任務も面白味くらいはあっただろうに、本性を隠す才覚もないただの頭と行儀の悪い女。


心の底から呆れているアランの隣で、リディアはすぐに意地の悪い笑みを引っ込めると、悲しそうな笑顔になってアランを見上げた。


「姉は少し変わっているのですが、それでも私にとっては大切な姉です。ご紹介してもよろしいでしょうか?」

「ええ、是非」

アランの諾の返事にリディアは嬉しそうにシンシアを呼んだ。


呼びつけられたシンシアが2人の前へと、嫌そうにやって来た。


みすぼらしい痩せた女。

着古したワンピース、丈も合ってない。

剥き出しの細い足首とその先のボロボロの靴。

ほつれた鳶色の髪の毛。

それなのに美しい女。


新緑の理知的な瞳が、アランを見る。

そこには強い光があった。


アランの心臓が、どくりと音をたてた。

忌々しい女だとアランは思う。

そんなアランの横で、リディアがねっとりとした声でシンシアに話しかけた。

「お姉様、お姉様はそちらのワンピースがお気に入りで他の服には見向きもされないのよねえ?」

シンシアは、またか、というような厭世的な目をすると、「そうね、リディア」と一言返した。


「お屋敷も大嫌いなのよね、離れでお一人で過ごすのがお好きなのよねえ?」

「そうね」


「私もお父様も、何とかお姉様にはお屋敷で暮らして、お洋服もきちんとあつらえたものを着てほしいのよ?そんなみすぼらしくて汚いワンピースなんて捨てて」

「気遣いは無用よ、リディア。もういいかしら?お客様もびっくりされているわ」


「お客様だなんて、ふふ、前に話したでしょう?こちら、アラン・キリンジ様。キリンジ侯爵家の次男さんなのよ。最近、とても親しくさせていただいていると言ったじゃなあい」

リディアは勝ち誇ってそう言うと、うっとりとアランを見上げる。


シンシアがもう一度、ちらりとアランを見た。

何の熱も感動もない目付きだったが、明らかな警戒の色が見てとれた。

さきほどの強い光も警戒だったのだと気づき、

この女は自分の目的を知っているかもしれない、とアランは思う。


アランがリディアに言い寄りだしてから二ヶ月ほど経つ。子爵家を訪れたのはこれで四回目だ。

シンシアはリディアからアランの事を聞いていただろうし、庭やテラスでアランとリディアが過ごす様子も目撃していただろう。時々、アランが非常に冷めた目付きでリディアを見ているのも気付かれていたかもしれない。


シンシアの目付きは、お前の本当の目的は妹ではないだろう、と語っていた。

変だ、と思っているのだ。アランがリディアに言い寄るのが。そこに、恋に浮かされた熱がない事に気付いているのだ。


しかし、シンシアはアランを追及する気はないようだった。一度目を瞬くと、そっとアランから目を逸らす。それから、はっと何かに気付いたようになり、俯いてワンピースのスカートをいじりながら、もじもじし出した。


「リディア、あの、もう行くわね。わたしはこんな成りしか出来ないし、キリンジ侯爵令息様の前では恥ずかしいわ」

棒読みでシンシアがそう告げる。


全く恥ずかしくはなさそうだが?

さっきだって、堂々とアランの目を見てきた。気高くすらあった。

何だ?と思っていると、さっとシンシアは行ってしまった。


シンシアが行って、リディアが嬉しそうにアランに囁く。

「お姉様は、前に遠目にアラン様を見て、その凛々しさに憧れているようなの。私にしつこくアラン様の事を聞いてきたのよ。アラン様の素敵な所を教えてあげると、思い詰めた顔をなさっていたわ。ふふふ、今は憧れのアラン様の前で自分の身なりが恥ずかしくなっちゃったみたい、自分が好きで着ているワンピースなのに可笑しいわね」

あははは、と耳障りな声でリディアが笑った。


は?

お前達があれを離れに押し込めて、襤褸を着せ、虐げているのだろう?

「おかしいのはお前だろう」低く冷たい声でアランは呟く。リディアには決して聞こえはしない小さな声で。


先ほどのシンシアの対応を見るに、彼女の精神が病んでいるとは思えなかった。

シンシアとリディアの母親は違う。シンシアは亡くなった前妻の娘である事もアランは知っていた。シンシアは分かりやすく、後妻とその娘に冷遇されているのだ。おそらく父親である子爵も同様に彼女を虐げている。


アランは作り笑いをするのに人生で初めて苦労しながら、リディアに合わせて笑った。


それからはリディアと会う度に、新緑の瞳の女がちらついた。

あの美しい女の生家を潰すことで、あれは今以上に不幸になるだろうか?

そのように自問もした。


扱いはどうあれ、シンシアはヨハンソン子爵の長女だ。連座での断罪は免れない。

子爵には男児がいないから、次女のリディアよりも長女のシンシアの方が罰が重くなる可能性はある。


首までは取られないだろう。

鞭打ちの上、放逐だろうか。


そう考えて、アランの身がかっと熱くなる。

鞭打ちだと?

あり得ない。

咄嗟にそう思って、アランは驚嘆する。

自分はひと目ですっかりあれに入れ込んでいる。

何をそんなに入れ込んでいるのだ。

アランは自分を叱咤して、冷静になろうとゆっくりと呼吸した。


シンシアの子爵家での扱いは、最低限の衣食住だけで、かなり酷そうだ。

爵位は失くすが、家が潰れて修道院へでも入った方が案外マシかもしれない。

彼女の為に環境の良い修道院を見繕うくらいなら簡単だ。そこへシンシアを入れるのはそんなに不自然な事ではない。

王太子に事情を話せば、そのように取り計らってもくれるだろう。


そう決心すると、少し心が晴れた。

ああ、本当に、忌々しい女だ。

アランはいらいらと新緑の瞳を追いやったが、それでも美しい瞳はいつも脳裏にあった。



今までとは違い、鉛を飲み込んだような重たい体でアランは子爵家に向かうようになる。

出来るだけシンシアを視界に入れないようにと注意したが、アランの目はアランの意に反してシンシアを探した。


アランの目は度々シンシアを追いかけてしまうし、初回の対面以降はリディアが面白がってアランと茶会の最中にシンシアを呼びつけたりしたので、シンシアと面と向かう機会は増えてしまう。

その度にシンシアは美しかった。


いつもみすぼらしいくせに美しいと思わずにはいられない女に苛立ちは募ったが、任務の方は順調だった。


可愛い愛娘の婿候補、見目も良い侯爵家次男、商才もあり、娘もぞっこん、とくれば子爵のガードは緩くなる。

アランは子爵の表向きの真っ当な事業の計画書や帳簿を見せてもらえるようになった。

そしてその帳簿に、ちらちらと綻びがあるのも見つける。

どうやら、密輸のダミーにしているらしい事業と帳簿も突き止めた。

更に、子爵は脱税もしているようだ。

密輸はともかく、こちらはすぐに摘発できるレベルで証拠が残っていた。


しかし、ここでアランは気付く。

事業の計画書に、子爵の筆跡ではない子爵のサインがあることに。

上手に似せているが、見る者が見れば筆が違うと分かる。

そして、その筆跡は帳簿にもたくさん見つけられた。


嫌な予感がした。


リディアの話によると、子爵はシンシアを厭いながらも、離れに置いているようだ。

最低限とはいえ、衣食住を提供している。

精神を病んでいる事にして、それを理由に修道院に入れてもいいのに、なぜわざわざ屋敷に留め置いているのか?


少しとはいえ親子の情があるのか、

虐めて憂さ晴らしでもするためなのか、

利用価値があるのか。


利用価値があるからだと、アランの本能が告げる。


だとすればどんな利用価値が?

美しくさせていないという事は、娘として売るつもりはないのだろう。


なら、


帳簿をつけさせているのでは?



腹の中の鉛が増えた気がした。

シンシアの境遇を見れば、おそらく何の対価も与えられずに使役だけされているのだろうと予想された。

そして問題は対価なしの使役だけではない。

シンシアが子爵の事業に関わっていれば、密輸と脱税への関与も疑われる。

そして、もし、少しでも関わっていたら?

そうなると、首が飛ぶ。

背筋が凍った。


その日、アランは屋敷の廊下でシンシアとすれ違う。

簡単に頭を下げて通り過ぎようとするシンシアは確かに帳簿らしきものを抱えていた。

アランは咄嗟に一縷の望みをかけて、花の名前のスペルを忘れたふりをしてシンシアにメモに字を書かせた。

シンシアは目を見開いた後、ふうと息を吐いて、ペンを走らせる。

それを渡しながら、アランに裏帳簿の在処を小声で告げた。


シンシアが去り、アランは手元のメモを見る。

帳簿にたくさんあった筆跡と同じだった。



見なくても分かる、裏帳簿をつけているのもシンシアだ。



***


裏帳簿はシンシアの伝えてくれた場所に確かにあって、帳簿の筆跡は全てシンシアによるものだった。


この後、アランは任務の遂行に手心を加える事になる。


裏帳簿まで確認出来たのだ、後は一刻も早く踏み込んで証拠と子爵を押さえるだけのはずだった。

しかしアランはその時期をずるずると延ばす。

自分にはいろいろと言い訳をしながら、一ヶ月もの猶予を置いた。


子爵にアランの本当の目的を勘づかれたり、裏帳簿の隠し場所を変えられたりすれば自分はどうするつもりだったのだろう。

後から考えても自分の行動が理解できなくて無性に苛立ったが、この時のアランも常に苛立っていた。


苛立ちながらもアランは侯爵家の私兵を使って、ヨハンソン家でのシンシアの現状を調査する。屋敷に潜入させるのは危険すぎたので、外から様子を確認するだけだったが、それでもシンシアへの冷遇はすぐに調べがついた。


子爵家で見るシンシアの様子から予想はしていたが、令嬢とは思えない扱いを彼女は受けていた。

手入れのされていない離れに押し込められ、世話をする侍女は付けられていなかった。

水場の使用は早朝か夜更けのみ許されていて、食事は屋敷の厨房で余ったものを貰いに行く毎日。

シンシアの干した離れのシーツは目を離すと汚されたし、使用する薪やランプの油もかなり制限されているようだった。

午前中と午後とシンシアは屋敷の中へと入り、しばらくすれば離れへと戻って行く。この時間に子爵の悪事を手伝わされているのだろう。


アランは強い怒りを覚えながら報告書を読む。

報告の中での唯一の救いは、シンシアは離れでこっそり動物でも飼っているようで、彼女が離れから屋敷へ出かける際はいつも笑顔で、行ってきます、と声をかけている事くらいだった。


そんな調査の中で、5年前に町の警邏隊にシンシアを名乗る少女が助けを求めた記録も見つけた。

少女の訴えの内容までは記されていなかったが、シンシア・ヨハンソンを名乗る少女が家から逃げ出していた、という事実だけでも使えるとアランは思った。

少女はその後、ヨハンソン家の使用人に無理矢理連れ戻されていた。


これで、シンシアは逃げるほど嫌がっていたのに、連れ戻され脅されて、本人の意思と関係なく悪事を手伝わされていたのだと主張が出来る。

シンシアの当時の年齢と、現在にまで至る待遇を併せると無理矢理手伝わされていた事は明らかだ。

それなら十分に情状酌量の余地がある。


ひとまずは、これで安心だ。

この調査結果があれば、子爵家に踏み込んでその罪を暴いたとしてもシンシアの首は飛ばない。

アランはほっとした。


ここで、一段落のはずだった。


しかし、これで落ち着くと思われたアランの苛立ちは全く収まらなかった。


アランはシンシアが騎士団に拘束されるのも嫌だったのだ。

他の男があれの腕を掴んで拘束する事を想像しただけで吐き気がして、一時の間でも騎士団の牢にシンシアが入るかと思うと背筋がひやりとした。


収まらない自分の苛立ちに気付いて、驚き呆れた後、アランは王太子に直談判する。

任務が成功した暁の褒美について、シンシアの無罪放免に、ヨハンソン家の爵位の保留とその爵位の将来的なシンシアへの譲渡、そしてアランによるシンシアの後見を望んだのだ。


アランの嘆願は、激しい怒りと混乱を無理矢理抑え込んで為された。

王太子はそんなアランの様子とその内容に目を丸くする。


「ミイラ取りがミイラなのかな?」

王太子がひとしきり驚いた後で探るように聞いてくる。

「罪なき者が裁かれるのが、我慢ならないだけです」

「そう?それにしても、後見とはねえ」

「ヨハンソンの領地では最近、小さいですが鉱山も発見されています」

「自然のものは不確かだからと、君はそういうの興味なかったよね」

「人は変わります」

仏頂面で押し通すアラン。自分でも何故こんな要求をするのか判然としていないのだ。仏頂面にもなる。王太子は面白そうな顔になった。


「ははは、君にこんな熱い一面があったとは、驚きだな。いいよ、その条件を呑もう。正式な会議にはかける事になるが何とかなるだろう。シンシア嬢へ爵位を渡す事については何らかの条件は付くと思うけどいい?」

「構いません。彼女は裁判の間、キリンジ侯爵家で保護します。後見人ですし」

アランは礼をすると、王太子の部屋を辞そうとした。

「あ、一つ聞きたいんだ」

「はい」

「裏帳簿を見つけたのはいつ?」

それは一ヶ月も前だった。


「……一週間ほど前です」

「ふーん?」

王太子はニヤニヤしながらアランを見送った。




***


子爵家への踏み込みの朝、アランは土砂降りの中、王国騎士団と共にヨハンソン子爵家へと向かう。

侯爵家の騎士数人と侍従のサムエルも従わせている。彼らにはシンシアの保護を命じていた。


アランは自分のシンシアへの気持ちからはずっと目を背け続けていた。

シンシアは、アランに訳の分からない行動をさせる忌々しい女のままだ。


そして、アランは出会うのだ。

子爵邸の門の前で、


傘もささずに濡れそぼり、痩せた体にぴったりとびしょ濡れの衣服を張り付け、小さな子供を背負って出ていこうとするシンシアに。


こんな時ですら、彼女は美しかった。


勝算の薄い逃げの一手をかけ、足は泥だらけで美貌は見る影もないはずなのに美しい。

むしろ、未来を掴み取ろうとしているシンシアは、アランが今まで見た中で一番美しかった。


本当に忌々しいほど美しい女だ。


その美しい女は、アランに目もくれずにその脇を通り過ぎようとする。

その時、アランはこの一ヶ月の自分の苛立ちの本当の理由を知った。


アランは、シンシアが自分を頼らない事に一番苛立っていたのだ。


シンシアはアランを頼ってもよかったはずだ。

彼女はアランの目的に気付いていて、アランの身分も知っていたし、子爵家では冷遇されていた。

アランと接触の機会くらい作れただろうし、窮状を訴えてアランに助けてと縋ってもよかったのだ。

せめて相談くらいはするべきだったのではないだろうか。


そんな素振りは一切なかった。

そういう事を考えもしなかったのだろう。

責めるのはお門違いだというのは分かっている。

分かっているが、苛立っていたのだ。

自分に頼らないシンシアに。

シンシアに頼られない自分に。


「待ちなさい」

咎めるような口調で命じた。

シンシアが身を震わせる。

自分に怯えるシンシアにますます腹が立った。それが、身勝手なものだとも承知していた。


「何か私に言うことは?」

怒りが声色に滲む。


「み、見逃してください」

震える小さな声。

でも涙声ではない。シンシアの肩も震えてはおらず、俯く女は泣いてはないと分かった。


いっそ泣けよ、とアランは思った。


なぜ、この女は泣いて助けを求めないのか。

泣けばその手を取ってやれるのに。

それに、その背中の子供は一体何だ?

アランの中で苛立ちばかりが募る。


目の前には、この一ヶ月、何とかして救おうとした美しい女がいるのに、素直に手を差しのべる気にはなれなかった。

自分が女一人の為にらしくない事をしたのを認められなかった。


「どうか、お慈悲を」

嘆願には質問で返した。


「背中の子供は?」

まずはここから解決しなくては。

アランの中のどうしようもない苛立ちと困惑、その困惑の半分ほどはその子供が占めている。

土砂降りの中、明らかに断罪のタイミングで逃げるシンシア。

彼女はおそらくこの瞬間をずっと狙っていたのだ。そんな大切な人生の岐路に大切そうに背負っている子供。


答えの予想は出来ていた。

それでも、アランはシンシアの答えに強い衝撃を受ける。


「私と使用人との間に出来た子です」


きっぱりと強い声で宣言された事実。

そうだろうとは思っていたが、本人の口から聞いて、がんと頭を殴られた気分だった。

今まで感じた事のないどす黒い思いが胸に渦巻く。


子供だと?

使用人と?


シンシアと愛を交わした男がいると思うと、身が焼かれるようだ。

そして、一瞬、ほんの一瞬だが、アランのどす黒い嫉妬は、その行為は無理矢理であったに違いない、そうであってくれ、と願った。


願ってから愕然とする。

彼女の幸せと健康を思うなら、そこは合意の愛のあるものであった事を願うべきなのだから。


己の浅ましさと罪深さにアランは舌打ちした。

油引きの外套ごしにあたる雨粒がやけに痛い。


最悪だ。

天を仰ぎたい気分だった。

自分は最悪の最低野郎だ。


認めよう。

そう思った。


潔く、認めよう。

俺はこの女に一方的に惚れている。

ほとんど喋ってもいないのに、頭がおかしいとしか思えないが。

とにかく、惚れているのだ。


なら、為すべき事は一つだ。

白々しいことに全て手配はしてあるのだ。彼女を保護するための騎士と侍従、侯爵家の馬車も門の外に待機している。

侯爵家の屋敷では彼女の為の部屋と服が準備してあり、侍女は風呂に湯を溜めているはずだ。


「逃がしません」

尚も逃げようとするシンシアにそう告げると、アランは忠実な侍従を呼んだ。





お読みいただきありがとうございました。

後は一悶着くらいあって幸せになるだけですね。


2024.9.4追記

9/4の日間短編ランキングで2位をいただきました。ありがとうございます!1位は異世界恋愛短編の雄みたいな方の作品なので、もはやこれは私の中では1位です笑

感想もたくさんいただいていて、お返事が追い付かなくなっています。全てドキドキ読ませていただいております。

誤字報告も本当に感謝です(短編なのにたくさんの誤字があった……きっと、まだある)。

本当に助かります。


そして、たくさんのお声をいただいている続きですが、きちんと検討しようと思っております。

活動報告に心境?を詳しく書く予定ですので、気になる方はお越しください。


2024.9.18追記

連載版を開始しております。

よろしければどうぞ。


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― 新着の感想 ―
短編で探して呼んでたから続きが気になって夜と昼しか眠れないじゃないですか!と思ったらあとがき見て連載版あるヤッター!と思いました
[一言] 続きが読みたい!シンシアとハリーが幸せになるところを、アランの甘々溺愛を覗き見たい!
[一言] 続きの甘々を期待してます。 シンシアちゃんの幸せな日々とツンデレアランのグダグダ希望
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