近年の熊の出没と宮沢賢治『なめとこ山の熊』について
近年、熊の出没件数と人身被害が過去最多ペースで増加し、深刻な社会問題となっている。これは、現代社会における人間と自然との共生、生態系のバランス、生命倫理などの根源的なテーマにつながる問題だ。
1、熊の出没増の要因
①熊の人里への出没増加
人身被害の発生場所は、人家周辺が多くの割合を占めており、これはクマが人の生活圏に近い林縁部まで出没していることを示している。
②餌の不足と人為的な誘引
クマの餌となるブナやミズナラなどの木の実が凶作になると、冬眠に備え栄養を求めて人里に出やすくなる。また、生ゴミや廃棄野菜などの不適切な管理がクマを誘引し、そこに食べ物があると学習させてしまうことが、警戒心の低下につながっている。
③人と熊のテリトリーの重なり
狩猟の減少、里山の管理不足、中山間地域の過疎化などにより、人とクマそれぞれの領域が曖昧になり、遭遇のリスクが高まっている。
これらの状況は、かつての、「山はクマの領域、里は人間の領域」という暗黙の境界が崩壊し、両者が不可避的に接近せざるを得なくなったことを表す。
2、宮沢賢治『なめとこ山の熊』のテーマ
『なめとこ山の熊』は、貧しい生活のため、愛する熊を撃つ猟師の小十郎と、なめとこ山の熊たちとの間の、悲しくも神聖な交流を描いている。
①「生きるための狩猟」の宿命と葛藤
猟師の小十郎は、資本主義経済の中で安値で買い叩かれながらも、家族を養うため、熊を撃つことを宿命としている。彼は命を奪うことに深い罪悪感と葛藤を抱いている。
②熊たちの「赦し」
物語の中で、熊たちは小十郎を嫌っていない。自分たちが撃たれることは、小十郎が生きていく上での避けられない「宿命」として、ある種の諦観と敬愛をもって受け入れている。熊たちとの命のやり取りは、対等な魂の交換として描かれ、この「生きるための殺しの赦し」が、作品の重要なテーマとなっている。
③資本主義経済における「搾取」の構造
小十郎が熊を撃つ動機は貧しさにある。彼は熊の皮や胆を町の荒物屋の主人に安値で買い叩かれるにもかかわらず、生活の糧を得るために自然から搾取せざるを得ない構造に置かれている。
賢治は、自然(熊)を殺す小十郎と、小十郎から搾取する商人(資本主義社会の象徴)という二重の搾取構造を描き出し、資本主義的な欲望が、自然や貧しい人々から生命や生活を奪っていることへの批判を表している。
3. 現代の熊問題と賢治のテーマの関連性
現代の熊の出没と人身被害の問題は、『なめとこ山の熊』が描いたテーマを、より複雑で皮肉な形で反復・変奏している。
①現代における「生きるための殺し」の変質
小十郎の狩りは自給自足的な生活というギリギリの状況で行われ、熊たちとの間には、相互理解と尊敬があった。
これに対し現代の熊の出没は、人間が自然から奪い続ける構造の歪みとして現れている。
②「人間を襲う危険な獣」という「被害者意識」
人里に出没したクマは、多くの場合、人命を守るために駆除される。クマは単に「人間を襲う危険な獣」として、人間側の「被害者意識」のもと、排除の対象と見られている。
③「宿命」から「人為的な悲劇」へ
現代のクマは、小十郎に撃たれる「宿命」としてではなく、人間の生活圏拡大、不完全な里山とゴミの管理といった人為的な要因によって人里へ誘い出されている。その結果、命を落とすという、より理不尽な悲劇に直面している。
4、現代の「搾取」と自然の反作用
『なめとこ山の熊』では、小十郎が熊の皮を安く買い叩かれるという形で、自然から奪われたものが人間の社会の中で再び搾取される構図が描かれた。現代においては、人間社会全体の「自然からの搾取」がクマを「加害者」にするという反作用を生んでいる。
①自然からの搾取の構造
人間の活動が山林に拡大し、里山を放置することで、クマの生息地や食料環境が減少・不安定化している。これは、資本主義社会が自然環境を「無限の資源」と見なしてきた結果であり、賢治が批判した「搾取の構造」がスケールアップしてしまったものだ。
②境界線の消失
人間活動の領域が奥山まで拡大し、クマの生息地を侵食した結果、クマは餌を求めて人里へ降りざるを得なくなった。クマの出没は、人間が築いた経済・社会システムが、自然との調和を失っていることへの「自然からの警告」だ。
5、共存・共生への示唆
『なめとこ山の熊』は、生命のやり取りを通じて、人間と自然が対等な立場で魂が繋がっていた理想的な関係を描いている。現代のクマ問題の解決には、クマを「排除すべき敵」としてではなく、「生態系の一部」として捉える視点が不可欠だ。
そのためにはまず、境界の再構築が必要だ。人里と奥山の間に緩衝地帯を設け、里山、生ごみ、果樹類等を適切に管理し、クマを人里に誘う環境要因を排除しなければならない。
また、人間の活動による地球温暖化がドングリ類の不作という熊の食料供給に大きな影響を及ぼしていることを認識し、その対策を施さなければならない。
駆除が避けられない場合であっても、小十郎が抱いていた「命を奪うことの重さ」・生命への畏敬の念を深く認識することが、『なめとこ山の熊』から学ぶべき現代人の倫理観だろう。
○終わりに
現代の深刻な熊の被害は、自然との調和を失い欲望のままに領域を広げた人間社会に対し、賢治が問いかけたテーマが深く再考されるべきであることを示唆している。
人間が被害者であると同時に、あるいはそれ以上に、熊たちも被害者なのだ。熊は好き好んで人里に出てくるわけではない。熊は人間を殺したくて殺しているのではない。こう考えてくると、現代の人間と熊との関係は、熊と淵沢小十郎の関係から反転してしまっていることが分かる。
熊は小十郎を敬愛していた。小十郎は熊を殺さなければ家族を養えないこと、ほんとは殺したくて殺しているのではないことを知っていたからだ。
それに対し、現代社会の人間は熊を憎んでいる。熊は人間を殺さなければならないような環境を人間自身が作っていることに気づかないからだ。しかもそのような環境は、人が生きるためにどうしようもなく形作られたのではない。人間の欲望の結果だ。
◆「なめとこ山の熊」については、別に解説がありますのでご覧ください。
最後に、小十郎と熊の言葉を挙げます。
小十郎「熊。おれはてまえを憎くて殺したのでねえんだぞ。おれも商売ならてめえも射たなけぁならねえ。ほかの罪のねえ仕事していんだが畑はなし木はお上のものにきまったし里へ出ても誰も相手にしねえ。仕方なしに猟師なんぞしるんだ。てめえも熊に生れたが因果ならおれもこんな商売が因果だ。やい。この次には熊なんぞに生れなよ」
熊「おお小十郎おまえを殺すつもりはなかった」
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