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宮沢賢治「なめとこ山の熊」について1

なめとこ山の熊のことならおもしろい。なめとこ山は大きな山だ。淵沢(ふちざわ)川はなめとこ山から出て来る。なめとこ山は一年のうち大ていの日はつめたい霧か雲かを吸ったり吐いたりしている。まわりもみんな青黒いなまこや海坊主のような山だ。山のなかごろに大きな洞穴(ほらあな)ががらんとあいている。そこから淵沢川がいきなり三百尺ぐらいの滝になってひのきやいたやのしげみの中をごうと落ちて来る。

 中山街道はこのごろは誰も歩かないから(ふき)やいたどりがいっぱいに生えたり牛が()げて登らないように(さく)をみちにたてたりしているけれどもそこをがさがさ三里ばかり行くと向うの方で風が山の頂を通っているような音がする。気をつけてそっちを見ると何だかわけのわからない白い細長いものが山をうごいて落ちてけむりを立てているのがわかる。それがなめとこ山の大空滝だ。そして昔はそのへんには熊がごちゃごちゃ居たそうだ。ほんとうはなめとこ山も熊の()も私は自分で見たのではない。人から聞いたり考えたりしたことばかりだ。間ちがっているかもしれないけれども私はそう思うのだ。とにかくなめとこ山の熊の()は名高いものになっている。

 腹の痛いのにもきけば傷もなおる。鉛の湯の入口になめとこ山の熊の胆ありという昔からの看板もかかっている。だからもう熊はなめとこ山で赤い舌をべろべろ吐いて谷をわたったり熊の子供らがすもうをとっておしまいぽかぽか(なぐ)りあったりしていることはたしかだ。熊捕りの名人の淵沢小十郎がそれを片っぱしから捕ったのだ。

 淵沢小十郎はすがめの赭黒(あかぐろ)いごりごりしたおやじで胴は小さな(うす)ぐらいはあったし(てのひら)は北島の毘沙門さんの病気をなおすための手形ぐらい大きく厚かった。小十郎は夏なら菩提樹(マダ)の皮でこさえたけらを着てはむばきをはき生蕃(せいばん)の使うような山刀とポルトガル伝来というような大きな重い鉄砲をもってたくましい黄いろな犬をつれてなめとこ山からしどけ沢から三つ又からサッカイの山からマミ穴森から白沢からまるで縦横にあるいた。木がいっぱい生えているから谷を(のぼ)っているとまるで青黒いトンネルの中を行くようで時にはぱっと緑と黄金に明るくなることもあればそこら中が花が咲いたように日光が落ちていることもある。そこを小十郎が、まるで自分の座敷の中を歩いているというふうでゆっくりのっしのっしとやって行く。犬はさきに立って崖を横這(よこば)いに走ったりざぶんと水にかけ込んだり淵ののろのろした気味の悪いとこをもう一生けん命に泳いでやっと向うの岩にのぼるとからだをぶるぶるっとして毛をたてて水をふるい落しそれから鼻をしかめて主人の来るのを待っている。小十郎は膝から上にまるで屏風のような白い波をたてながらコンパスのように足を抜き差しして口を少し曲げながらやって来る。そこであんまり一ぺんに言ってしまって悪いけれどもなめとこ山あたりの熊は小十郎をすきなのだ。その証拠には熊どもは小十郎がぼちゃぼちゃ谷をこいだり谷の岸の細い平らないっぱいにあざみなどの生えているとこを通るときはだまって高いとこから見送っているのだ。木の上から両手で枝にとりついたり崖の上で膝をかかえて座ったりしておもしろそうに小十郎を見送っているのだ。まったく熊どもは小十郎の犬さえすきなようだった。けれどもいくら熊どもだってすっかり小十郎とぶっつかって犬がまるで火のついたまりのようになって飛びつき小十郎が()をまるで変に光らして鉄砲をこっちへ構えることはあんまりすきではなかった。そのときは大ていの熊は迷惑そうに手をふってそんなことをされるのを断わった。けれども熊もいろいろだから気の(はげ)しいやつならごうごう()えて立ちあがって、犬などはまるで踏みつぶしそうにしながら小十郎の方へ両手を出してかかって行く。小十郎はぴったり落ち着いて()をたてにして立ちながら熊の月の輪をめがけてズドンとやるのだった。すると森までががあっと叫んで熊はどたっと倒れ赤黒い血をどくどく吐き鼻をくんくん鳴らして死んでしまうのだった。小十郎は鉄砲を木へたてかけて注意深くそばへ寄って来てこう言うのだった。

「熊。おれはてまえを憎くて殺したのでねえんだぞ。おれも商売ならてめえも射うたなけぁならねえ。ほかの罪のねえ仕事していんだが畑はなし木はお上のものにきまったし里へ出ても誰も相手にしねえ。仕方なしに猟師なんぞしるんだ。てめえも熊に生れたが因果ならおれもこんな商売が因果だ。やい。この次には熊なんぞに生れなよ」

 そのときは犬もすっかりしょげかえって眼を細くして座っていた。

 何せこの犬ばかりは小十郎が四十の夏うち中みんな赤痢にかかってとうとう小十郎の息子とその妻も死んだ中にぴんぴんして生きていたのだ。

 それから小十郎はふところからとぎすまされた小刀を出して熊の(あご)のとこから胸から腹へかけて皮をすうっと裂いていくのだった。それからあとの景色は僕は大きらいだ。けれどもとにかくおしまい小十郎がまっ赤な熊の胆をせなかの木のひつに入れて血で毛がぼとぼと房になった毛皮を谷であらってくるくるまるめせなかにしょって自分もぐんなりした風で谷を下って行くことだけはたしかなのだ。 (青空文庫より)


結論から先に言いたい。

教室で号泣しているのは、私一人だった。

なぜなんだろう。

みんなには、感情というものがないの?

ウルッとすらしていない。

人として、それはどうなんだろうとまで思ってしまった。

国語の授業でこの物語をユーチューブの音読で聞いた時のことだ。

「なぜ君はそんなに泣いてるの?」という冷たい視線を、私は忘れない。

日本の未来は暗い。


とても悔しかったので、世に共感してくださる方はきっといらっしゃるだろうと期待し、私のエモポイントを述べることにした。


まず、色彩が豊かだ。豊か過ぎる。これを映像にしたら、すべての色という色、光という光を使うことになるだろう。

また、自然が、オノマトペや細かい描写を駆使し、手触りや匂いまで感じさせるように描かれている。

次に、何と言ってもクマさんと小十郎さんの心の交流がエモい。オヤジ、もとい、人間と、(けだもの)、もとい、クマさんなのに、種を超えた信頼関係で結ばれている。人間と動物、しかも、命を奪い合う敵同士なのに、相手の考えていることや置かれた状況を互いに理解している。それは人間同士であってもむずかしい事だ。通じあいつながりあっている奇跡が何とも言えずエモい。


物語の進行に従って、もう少し詳しく述べる。

まず、「なめとこ山の熊のことならおもしろい」で始まっているのに、小十郎さんのお葬式で終わっているところが何ともしみじみ悲しい。おもしろい・興味深い話もいくつか挿入されている。しかし、話の本筋は、とても悲しい内容だ。どうしようもできないものが、小十郎とクマさんを縛っている。


「なめとこ山は一年のうち大ていの日はつめたい霧か雲かを吸ったり吐いたりしている。」

この風景は、山の中かその近くに住んで生活している人でなければ分からないだろう。朝晩、山を見て暮らしている人にとっては、なじみの風景だ。そうして、この比喩が、とても適切であることに共感する。まったくそうとしか言いようのない、山とそれを取り囲む霧や雲の様子なのだ。


「まわりもみんな青黒いなまこや海坊主のような山だ。」

山の様子のたとえに、海にいるナマコだけでなく海に棲む妖怪まで引き合いに出しているところがおもしろい。賢治の描写は、読者の想像力をこれでもかと刺激する。


淵沢川がいきなり三百尺ぐらいの滝になってひのきやいたやのしげみの中をごうと落ちて来るようす。また、「誰も歩かないから(ふき)やいたどりがいっぱいに生え」ている道を「がさがさ」「行くと向うの方で風が山の頂を通っているような音がする。」 このように、さまざまな音が、小十郎たちを取り囲む。


「ほんとうはなめとこ山も熊の()も私は自分で見たのではない。人から聞いたり考えたりしたことばかりだ。間ちがっているかもしれないけれども私はそう思うのだ。とにかくなめとこ山の熊の()は名高いものになっている。」

ここに語り手の「私」が突然登場する。この人は、そもそも冒頭部で、「なめとこ山の熊のことならおもしろい」と、いきなり感想を述べた人だった。この人は、とても主観的な物言いをする。自分の感想をためらわずに表出する。そこがユニークだ。

ここでも、「ほんとうはなめとこ山も熊の()も私は自分で見たのではない。人から聞いたり考えたりしたことばかりだ。」といきなり自白し、聞き手の読者を煙に巻く作戦に出る。「人から聞いて作った話かよ」と落胆する読者の姿が目に浮かぶ。そんなことは言わなくてもいいのにということを、平気で言う人なのだ。おもしろい。

さらに語り手は、「間ちがっているかもしれないけれども私はそう思うのだ。」と畳みかける。自分勝手である。自分勝手に想像したものを、われわれ読者に提供しようとしている。だから読者の中には、「間ちがっているかもしれない」ものはイラナイと言って、この場を去る者もいるだろう。だって、「私はそう思うのだ」と言われても、「だって、間違ってるんでしょ? それを自分だけはそう思うのだー!って主張されても、誰もついていけません。」ってことになる。そしてそれが普通の反応だ。でも、この語り手は、そんなことを気にしない人なのだ。この「去る者は追わず」の精神。その吹っ切れ具合。おもしろい。

しかも、「とにかくなめとこ山の熊の()は名高いものになっている。」として、「なめとこ山の熊の()は名高いものになっている」ことを既成事実化しようとする。このかなり強引なやり方に、あぜんとする聞き手・読者は多いだろう。「とにかく」って何? 今までの議論は全部置いといて、「とにかく」。「とにかく」の前の部分は全部要らないじゃん、と思う。「もう誰が何といおうと、なめとこ山の熊の()は名高いものになってるの!」という激しい主張。読者に有無を言わせぬ語り手の強引な態度。おもしろい。


「だからもう熊はなめとこ山で赤い舌をべろべろ吐いて谷をわたったり熊の子供らがすもうをとっておしまいぽかぽか(なぐ)りあったりしていることはたしかだ。」

「べろべろ」と「ぽかぽか」がかわいい。場景が目に浮かぶ。

子供って、遊びが本気になって、ケンカで終わるよね。


「熊捕りの名人の淵沢小十郎がそれを片っぱしから捕ったのだ。」

クマたちの楽園に侵入し、殺戮(さつりく)に及ぶ小十郎。それが現実。


次の部分は、小十郎の紹介と、彼が実際にどのように山に分け入り、クマたちと戦っているかが説明される。だからこのあたりから、小十郎の目を通して見た自然やクマたちのようすが描かれているように感じる。語り手の観察や説明と、小十郎から見た自然やクマの様子が、溶け合っているように感じるのだ。ある時は語り手が述べ、ある時には小十郎自身が述べているように思われる。


「そこであんまり一ぺんに言ってしまって悪いけれどもなめとこ山あたりの熊は小十郎をすきなのだ。」

突然の重要事項の説明だ。いきなり意外な結論が述べられる。そしてその後に、その理由が説明される。

「その証拠には熊どもは小十郎がぼちゃぼちゃ谷をこいだり谷の岸の細い平らないっぱいにあざみなどの生えているとこを通るときは(襲いかからずに)だまって高いとこから見送っているのだ。木の上から両手で枝にとりついたり崖の上で膝をかかえて座ったりして(←かわいい)おもしろそうに小十郎を見送っているのだ。」

自分たちの命を狙って歩き回る敵を前に、このような様子であることは不可能だろう。だからここは、不可能なこと、ありえないことが描かれている。ふつうであれば、むしろクマの方から攻撃してもいい場面だ。それなのにクマたちは、小十郎を、いわば見逃してやっている。「だまって」、「おもしろそうに」。だから読者は、この奇跡の場面の理由が知りたくなる。なぜこのようなことが成立するのだろうと。


先ほどはメルヘンの世界だったが、次は、山の日常・現実が描かれる。

「けれどもいくら熊どもだってすっかり小十郎とぶっつかって犬がまるで火のついたまりのようになって飛びつき小十郎が()をまるで変に光らして鉄砲をこっちへ構えることはあんまりすきではなかった。そのときは大ていの熊は迷惑そうに手をふってそんなことをされるのを断わった。」

「七人家内」を養うために、小十郎は、憎くもないクマを殺さなければならない。一方、クマたちも、自分が殺されるのはイヤだ。だから、「そんなことはしないでくれ」と「手をふ」るのだ。

次に登場するのは、「気の(はげ)しいやつ」だ。「ごうごう()えて立ちあがって、犬などはまるで踏みつぶしそうにしながら小十郎の方へ両手を出してかかって行く。小十郎はぴったり落ち着いて()をたてにして立ちながら熊の月の輪をめがけてズドンとやるのだった。すると森までががあっと叫んで熊はどたっと倒れ赤黒い血をどくどく吐き鼻をくんくん鳴らして死んでしまうのだった。」

これが山の現実だろう。


しかしこの後には、現実の凄惨な場面とは全く違う小十郎の思いが吐露され、読者は命の摂理の非情さに沈黙する。

「熊。おれはてまえを憎くて殺したのでねえんだぞ。おれも商売ならてめえも射うたなけぁならねえ。ほかの罪のねえ仕事していんだが畑はなし木はお上のものにきまったし里へ出ても誰も相手にしねえ。仕方なしに猟師なんぞしるんだ。てめえも熊に生れたが因果ならおれもこんな商売が因果だ。やい。この次には熊なんぞに生れなよ」

相手を殺す行為には、ふつう、「憎」が伴う。しかし小十郎は、決して熊が憎いわけではない。むしろ逆に、小十郎は熊たちを愛している。「商売」・生きるためには、愛するものを殺さなければならないやるせなさ・悲哀・原罪。罪のない仕事が自分にはできず、「仕方なしに猟師」という「因果」な「商売」をする。そのような窮状にあるお互いの唯一の解決策は、来世で別のものに生まれ変わるしかないという、何とも言いようのない無力感。それを、小十郎も熊たちも宿命として背負っている。

私は、「やい。この次には熊なんぞに生れなよ」という小十郎の言葉で、まず泣いてしまった。今生には、夢も希望もないのだ。いつ死ぬか分からないという究極の状況で、それでも生きていくしかない。希望は来世に託すしかない。そんな状況が許されていい訳がない。腹立ちとやるせなさとが涙になった。(どうしてみんな、泣かないかなー?)


「何せこの犬ばかりは小十郎が四十の夏うち中みんな赤痢にかかってとうとう小十郎の息子とその妻も死んだ中にぴんぴんして生きていたのだ。」

ここからは、小十郎の家族構成がうかがわれる。他の部分の説明も併せて考えると、90歳のおばあさん(小十郎の母)・小十郎・孫5人の「七人家内(家族)」だ。小十郎の息子であり孫たちの父親は、その妻とともに赤痢で病死してしまっている。だから小十郎は、亡くなった息子夫婦の代わりに、孫たちを育てなければならない。しかも、孫たちはまだ小さいようなので、小十郎は、まだまだ頑張らねばならないのだった。


「それから小十郎はふところからとぎすまされた小刀を出して熊の顎のとこから胸から腹へかけて皮をすうっと裂いていくのだった。それからあとの景色は僕は大きらいだ。けれどもとにかくおしまい小十郎がまっ赤な熊の胆をせなかの木のひつに入れて血で毛がぼとぼと房になった毛皮を谷であらってくるくるまるめせなかにしょって自分もぐんなりした風で谷を下って行くことだけはたしかなのだ。」

語り手は、このように赤裸々に説明することにより、小十郎が直面している生きるための「商売」の現実を明らかにしている。小十郎は、この作業から逃れることができない。愛するものの腹を裂くなど、自分の腹を裂くよりもつらく悲しいことだろう。しかしそれが生きるということだ。だから語り手は、「大きらいだ」と言いつつも、この「景色」をそのまま提示するのだ。


(つづく)

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